第30話

文字数 1,237文字

 気が付いた時には、私は部屋に一人、布団に横たわっていた。
 朝日がカーテンから差し込んでおり、私は寒さに一度、くしゃみをした。
 どうやらあの後、私は酔いが回って倒れたようだった。つばくろさんたちが送ってくれたのだろう。後日会った朝永からは、「急に飛び出したと思ったら、何だったんだ」と、訝しそうに見られた。
 私は残りの春休みを実家で静かに過ごした。新学期が始まろうかという頃、漸く私は、下宿先へ戻る決心ができた。
 彼女がいないというだけで、私の周りは、何も変わらなかった。
 週末には朝永や加世氏と共にしゃらくへ向かい、つばくろさんや大先生と共に飲み明かす。
 朝永たちは元々、お熱いところを見せつけるような付き合い方ではなかったから、一波乱を乗り越えたからと言って、傍から見て付き合い方が大きく変わるわけではなかった。
 つばくろさんは、あの夜のことを言及することはなかった。時々、心配そうに私の方を見ている時はあるが、私はそれに気づかないフリをした。
 入学式を間近にして、京都は桜の季節となった。もう私も三回生となる。就職活動や卒業論文の準備が控えているが、まだ実感が湧かなかった。
 私は、休み中に乱れた生活リズムを引き戻すかのように、午前五時に起床した。
 徐にジャケットを羽織り、家を出る。
 私は誘われるように、哲学の道へと向かう。
 寒さに身を縮こませる。
 ゆっくりと、踏みしめるように歩く。
 道なりに進んだ先にあった光景は以前よりもはるかに圧巻であった。
 桜が琵琶湖の疎水沿いに植わっており、水面を花びらが埋める。澄んだ空気が、空をより一層鮮やかなものへとさせる。
「この景色を、見せたかったんだ……」
 私は呟く。彼女との約束は果たせなかったのだ。
 彼女なら落ちた花びらを集めて持って帰るだろうか。人がいないのをいいことに、ごろごろとするだろうか。
 いや、未練がましい今の自分を、「バカなおとこ!」と、叱ってくれるかもしれない、と私は微笑んだ。
 足元の桜を見ながら、ゆっくりと歩を進める。
 今度は朝永たちも連れてきてやろう、と思っていると、急に風が吹いた。
 花びらが舞い上がり、私は一瞬、腕で目を隠す。
 目を開けるとき、私は目の前を見て、思わず感嘆の声を上げた。
「おぉ……」
 花びらがゆっくりと落ちていく中、水面から反射した光は、ゆらゆらと宙に浮かんでいた。
 まるで、“一緒に見ることに意味がある”という約束を、彼女が覚えていたかのようだった。
 そうだ。あれは夢ではなかったのだ。
 私の中で、すとんと何かが落ち着く。彼女は単に私の願いをかなえてくれる存在で、終わらせたくないという自分の気持ちに、時間はかかったが、ようやく納得がいったようだった。
 朝食をとって、部屋を掃除しよう。春物の服を箪笥から出し、空いたスペースに冬の思い出は大事にしまっておこう。
 一日の始まりを迎えた私は、遠くを見ながら、家へと帰った。
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