第27話

文字数 2,429文字

 九時ごろにお開きとなった。もう少し飲んでいくという大先生とつばくろさんを店に残し、別れる。
 少し遠くへ住んでいる加世氏を見送るために、三人で駅まで向かった。
 東鞍馬口を西に進む。比較的広い歩道を、人がいないこともあって三人横並びで歩く。左から、加世氏、朝永、私の順だ。
「……その、悪かったな。色々世話をかけて」
 朝永はポツリと呟く。
「いやいや。恐縮しなくてもいいぞ。若い時の過ちというのは、時が過ぎれば笑って終われるものなのだから」
「……お前には言ってない。こっちに言ったんだよ」
 朝永は冷たい目で私の方を見ながら、加世氏の方を手で示した。
「……」
――……まぁ、いいさ。私の扱いにめげていてもしょうがない。
「もうっ! 櫻井さんにも迷惑かけていたでしょうっ?」
「……ん」
 加世氏の一言に、朝永はしょんぼりとして頷いた。
 全く、加世氏に対する素直さを、私にも向けてほしいものである。
「それにしても、櫻井さんがどの場面にもいたんだっていうのが、私としては、一番の驚きですねっ! 会話まで聞こえていたなら、私の視界にも入っていたでしょうに」
「まぁ、観客やスタッフの中に紛れ込んでいたからね。ある意味、背景に紛れ込んでいたようなものだから」
 声が聞こえないほど遠くにいても、代わりに聞いてくれる存在がいたからとは言わなかった。
「それに、櫻井さんも気づいていたんですね、あの癖」
 加世氏は朝永の癖を思い出してくすくすと笑う。
「勿論だ。一緒に釜の飯を食らう仲だからな。気づいて当然だ」
 私はうむうむと頷く。ここでいつもなら、朝永からのツッコミが入るところだ。
「……」
 しかし、朝永は黙ったままであった。俯いたまま、我々から目を合わせないでいる。
 店にいるときからそうであったが、加世氏に窘められたのもあってか、余計縮こまって見えた。
 私と加世氏は目を合わせる。
 全く、困ったものである。
 加世氏は、朝永の肩をばんっと叩いた。
「……!? ……ん?」
 驚いた朝永が、困ったように加世氏の方を見る。
「今回のこと……反省した?」
 朝永は頷く。
「つばくろさんとか、大先生とか、色んな人が心配していたものね。それに、そんなことだから、講義もロクに出てないんでしょう?」
 朝永は益々俯く。
「だからね……」
 加世氏は今度は、肩をこつりと叩いた。悲しそうな顔をして、俯いてもなお彼女よりも背の高い朝永を見上げる。
「全部を自分一人のせいにしようとしないで。私も不安にさせていたんだし……、別人になりたいって思うくらい、追い詰めさせていたんでしょう?」
 ごめんなさい、と加世氏は言う。
 朝永は首を振った。
「だから、ね、もうそんなに気にしなくても……いいんだよ?」
 加世氏は朝永に微笑んだ。大丈夫だ、と子供に言い聞かせるような口調だ。しかし、朝永の困り顔は崩れない。
「……だが……、その……」
と、重そうに口を開く。
「思い立ったのが……昔を思い出してというか……、なのに、どんどん変わっていくのに嫉妬していたりとか……虫が良すぎるというか……」
 朝永はすこし気まずそうに言う。そもそものもやもやの原因というのは、小学校時代の初恋を思い出したからというやつのことだ。
 加世氏は目をぱちくりとさせた。初め何を言っているのかよく分からない風であったが、
「あぁっ!」
 と、納得したように頷いた。
 そして、何だか嬉しそうにふふふっと微笑む。
「どうしたんだい、加世氏?」
 私は思わず訊ねる。何だか楽しそうな彼女の表情からは、嫌な予感しかしない。
「その、ねっ。……その女の子、多分、私なんです」
「え?」
「……」 
 私も朝永も、言葉を失った。加世氏は一体、何を言っているんだ。
「その女の子、大きなジャングルジムのある公園の近くに住んでいたでしょう?」
朝永は頷く。
「運動会の時に、赤白帽を忘れたのに気づいて、泣いていたでしょう?」
またしても朝永は頷く。内容があっていることも驚きであるが、朝永が外見の特徴はさほど覚えていなかったにもかかわらず、エピソードはしっかりと覚えていることの方が驚きである。
「それで、五年生の時に引っ越していったでしょう?」
 朝永は頷いた。これは私も聞いたことのある話であった。
「つまり、何でこんなことを知っているかって、その女の子が私だからなの」
 加世氏は、もー内緒にしておくつもりだったのにっ、と照れたように言った。
「……でも、その子の名前は……“ナナミ”だったはずだ」
 そう呼んでいたのだろう。朝永は記憶をたどりつつもはっきりと言う。
 すると、加世氏はますます楽しそうに笑う。
「私の両親が離婚しているのは知っているよね?」
 朝永は気まずそうに頷く。私は知らなかったのだが、朝永は知っていたようだった。
「……あぁ。だが、高校までは父親と一緒に住んでいたんじゃ……」
「離婚したのが、丁度、小学校高学年くらいだったの。その時、色々あって……、今は父方の親戚の養子ってことになっているの。だから、引っ越しのタイミングと同じくして、私の苗字は“風岡”になったの」
「じゃぁ、まさか……」
「そうっ! “ナナミ”って、“七海 加世”という苗字だったの」
「……」
 朝永が声が出なかった。楽しそうな表情をする加世氏など何度も見てきているはずなのに、全く慣れていなかった。
「別に、両親共に今でも好きだし、苗字が変わったこともなんとも思っていないんだけど、思いがけず、“かざおか かよ”で韻ふんじゃったんだよねっ」
「……」
 まるで猫を踏んじゃったような言い方に、私と朝永は頭を抱える。
「だから、浮気って意味では私よりも先だし、騙していたっていう意味でも私の方が先だったんだよ」
 加世氏は朝永に、にかっと微笑んだ。
 どうやら、彼女には敵わないみたいだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み