第8話

文字数 5,950文字

 時は来た。私は日曜の午後、一人で自宅から最寄りの駅である出町柳駅へとやってきた。高野川と賀茂川が合流し、一本の鴨川へとなる辺りに位置するこの駅は、南に進む京阪電車と、北上する叡山電鉄が通っている。私は叡山電鉄に乗る。三十分ほどそのまま揺られていると、鞍馬駅へとついた。木製ベンチのある落ち着いた雰囲気の駅構内を抜けると、外は山に囲まれている。十二月初めにも関わらず、まだ紅葉は十分なほどに残っていた。周りの山から落ちてくるそれは、道路一帯に敷き詰められていた。
 紅葉の見ごろは若干過ぎているからか、観光客は少なかった。しかし、私と行き先が同じであろう学生たちの姿が多くみられた。
 紅葉の帳のなかを、私はその人たちについていくように坂道を上る。五分ほど紅葉を踏み歩くと、右手に大きな建物がみえ、私は一瞬にして血の気が引いた。
 山の斜面へと建てられたキャンパスへ導くように、そこには二百段ほどの石段が並んでいた。その石段の先にはいかにも学園祭といったような屋台が立ち並んでいるのが見え、ここが目的地なのだと絶望させられる。
 ――……ここを上るのか。
 周りを見ても、同じように駅から歩いてきた人たちが、石段に足をかけている。ということはここ以外に道はないようである。
 「……致し方ない」
 私もまた、石段の方へと歩みを進めた。
 だが、半分もいかないところで思わず一度立ち止まる。
 「加世氏……は……こんな道を毎朝登校しているのか……」 
 駅前で買った麦茶を一気飲みし、私はそのまま勢いで階段を上りきった。
 最後の一段に足をかけると、ふくらはぎはジンジンと張り、冬だというのに首筋を汗が伝っていた。
 息を整えながら辺りを見渡すと、そこには数多くの催しものが並んでいた。私は総合案内所でパンフレットをもらうと、空いたベンチでそれをぱらぱらとみる。
 加世氏の演奏会は午後三時からであった。あと二時間ほど、暇を持て余す必要があった。
 ひとまず昼食も兼ねて、屋台を見て回る。卵せんべいにアイス天ぷら、鯉焼き(タイ焼きの中身が花豆餡であった)などを食べると、私は様々な展示を見て回っていく。美術部の絵の前を通り過ぎ、写真サークル「括目」の展示を見て回る。
 室内に入ると、どの教室も人はまばらであった。空や植物などを何となく眺めていると、私はある一枚の写真に目がいった。
 「ほぅ、これは……」
 それは切り立った地面であった。私は思わず立ち止まる。
 何十、何百も細かい層が幾重にもなっており、中央部では渦のようにそれらが絡み合っている。各層は白や茶、黒など様々な色をしており、綺麗なパターンのようであった。海外の景色なのだろうか、空は深く澄んだ、レガッタブルー。崖の後ろから差す光は燦々と輝きを放っていた。
 「このような渦は一体どのようにしてできるのであろうか……」
 私は独り言のように呟いた。人がどうこうしてできるものではない。しかし、自然が作り出したにしては、あまりにも美しかった。
 「氷期に堆積した地層が、地震で地すべりを起こしたんだと思いますよ」
 「え?」
 後ろからした声に私は一瞬、自分の問いかけに対する答えだとは気が付かなかった。
 少しの間の後に振り返ると、メガネをかけた長身の男性が、私と同じように写真を見ていた。
 「えっと……」
 「いえ、すいません。少し気になったものですから、声をかけてしまいました」
 男性は低く、ゆっくりとした声でそう答えた。
 服装は黒のパンツに白のシャツ、紺のジャケットとシンプルなものであるが、何処か品がある。
 「詳しいんですね」
 「はい、鉱物学をかじっていたことがありまして」
 男性はにこりと微笑む。同い年くらいなはずなのに、ひどく大人びている。
 「……ていうかお前、朝永だろう?」
 「なんだ、ばれていたのか」
 男性――朝永は一瞬ケロッとした元の表情に戻った。
 再び、端正な顔立ちへと戻る。
 「……そのまま静かに写真の方を向いてろ。その体勢で話をする」
 表情は大人びたまま、声の調子だけは朝永のままであった。私はこくこくと頷き、静かに写真の方を向く。
 「……やはり分かったか。俺だって」
 朝永は声を潜めて言った。
 「まぁ、この前、お前の家でみた衣装と一緒だったからな」
 「なるほどな」
 正直なところ、声だけでは気が付かなかった。服装を見て、よくよく声と顔を見てやっと分かったという感じだ。確かによく見ると朝永である。しかし、髪の黒色や目元の黒子、微かに漂う香水の香り、ピンと伸びた背筋と、朝永ではない要素が随所随所にあるためか、「あら……朝永に似ているかもしれない? いや、でも違うか」と、思わせる。
 そのことを朝永に告げると、少し嬉しそうな声へと変わる。
 「これでも話し方とかも結構努力したんだ」
 「確かに、いつもよりも頭よさそうな声だったな」
 私は素直にそう言った。
 「で、朝永、お前はこれからどうするんだ?」
 私は友人の今後の動きについて訊ねた。
 「彼女の演奏会を鑑賞した後に声をかけるさ。……お前、絶対に俺の近くに座るなよ」
 「なぜだ?」
 私は少しムッとする。
 「お前、この前の様子からいって、絶対に演技とかできないだろう。お前と変装後の俺が知り合いだってばれたら……色々面倒だ」
 「まぁ……、それはそうだな」
 確かに、私も加世氏に今日ここにいることが露見するのは面倒である。あくまでも今日は傍観者なのだ。傍観者らしく、見えない位置から観察するのが適切であろう。
 「じゃぁ、先に行く」
 「あぁ、私もしばらくしてから会場に向かうさ」
 時刻は開演三十分前。既に開場している時刻である。
 我々はお互いの顔も見ずに、分かれた。
 その後、私は写真展を一通り見て回った。正直なところ時間が近づくにつれて落ち着かなくなってきているのだが、朝永とのタイミングをずらすために意識的にそうした。
 しかしながら、地層ほどの衝撃のある写真は残念ながら見つからなかった。
 私はそのまま教室を出て、演奏会場である講堂の方へと向かう。地下の階段を下りていくと、シックなレンガ調の雰囲気に包まれる。
 私は入り口でチケットとパンフレットを購入した。ワンドリンク制ならしく、ジンジャーエールを受け取ると、ホールの中へと入る。
 そこそこ広いスペースには既に多くの人がいた。私は後ろの方の空席へと腰かける。鞄を自らの足元に置き、先程購入したパンフレットをめくる。
 どうやら、ジャズといってもビッグバンドという形式のものらしい。よく見かけるような三人から五人ほどの演奏とは違い、二十人近くの大所帯での演奏となる。ステージにはピアノが一台しか置かれていないから、そこが加世氏の立ち位置なのだと、私はぼんやりと考えた。
 辺りを見渡しても薄暗く、朝永の姿は見えない。きっとどこかに溶け込んでいるのであろう。
 開演五分前のブザーが鳴り、ホールの外にいた観客も、続々と入ってくる。三百席ほどの客席はほとんど埋まり、時間が来たのと同時に、ホールのライトは一斉に消えた。
 演者が舞台に上がる。全員黒を基調とした衣装で統一している。
 曲は、ジャズに詳しくない私でも聞いたことのあるものがほとんどであった。
 A列車で行こうにIn the Mood、Sing Sing Singといったジャズの名曲から、ポップスをジャズ調にアレンジしたものまで、ジャズに馴染みのない観客を意識した選曲であるようであった。
 加世氏は全曲でピアノを担当している。途中にはピアノのソロパートもあり、生き生きとした曲調から妖艶な雰囲気へと移り変わっていく様は照明の移り変わりと相まって、とても美しかった。
 開演から一時間半ほどが経った。最後の曲が終わると、ホール全体が盛大な拍手で包まれる。私もそれに負けないようにと目いっぱい拍手をした。
 演奏会が終わると、いくらかの観客はすぐにホールを出ていったが、ほとんどの人はその場に残っていた。そういうものなのであろうか、と疑問に思いながらも私は席を立ち、朝永の姿を探す。演奏会終わりに加世氏に話しかけるとのことであったからそろそろ動き出すはずだ。
 終演後には一度姿を消した演者たちが再びホールへと戻ってくるらしい。客席の方にまでやってきて、観客と今日の感想を語り合っていた。なるほど、そういう習慣があるのか、と納得した私は、観客や演者たちの波の中をぬって移動した。朝永と加世氏の姿を探す。
 最初に見つけたのは加世氏であった。演奏衣装の黒のパンツとブラウスの上に、淡いピンクのカーディガンを羽織っていた。私は彼女の視界に入らないようにしながら近づいた。
 どうやら大学の友人らしい女性二人と共に話している。チケットを手配してくれた礼や、今日の感想を述べる友人の話を、加世氏は嬉しそうに聞いていた。
 暫くして、他のメンバーと話に行くという彼女たちと別れる。
 「……。」
 加世氏はゆっくりと、会場全体を一人で歩いていた。それは演奏会後の高揚感のようなものが会場全体を包んでおり、それに浸っているかのようであった。
 私もそんな彼女の後ろを、ゆっくりとついていく。彼女に気付かれないように、そして不審者だと周りに思われないように。
 舞台の方へとゆっくりと歩みを進めていく加世氏にだけ、スポットライトが当たっているかのようであった。まるで映画の一場面だ。
 しかし、次から次へと私の前に演者や観客の姿が行き来し、万華鏡のようにその姿は見え隠れする。
 私は加世氏を必死で目で追う。眼前の移り変わりにくらくらとし始めた頃、彼女の傍に、背の高い男性の姿があった。
 「……!」
 成程、あいつはシークレットブーツを履いているから背が高くなったのか。私は遠目で見ることでようやくそれに気づいた。私は慌てて彼女たちの方へと向かう。
 丁度近くで話をしていたご婦人方の影に隠れるような位置につく。真横から見ることのできるベストポジションだ。
 しかし、朝永が加世氏に今にも声をかけそうな瞬間、同じように加世氏に声をかけそうな姿があった。上下ともに黒服であるからその男女はジャズサークルのメンバーであろう。
 ――これはまずい……!
 私はあくまで傍観者である。しかし、この事態は私の老婆心が見過ごせない。そう思うと、自然と身体は動いていた。
 加世氏達から背を向けるようにして、彼らにぐいと勢いよく詰め寄り、
 「演奏、お疲れ様です! いやぁ、いい演奏でした。あちらにいるOBがあなた方のことを呼んでおりましたよ」
 「え……、あ、どうも……」
 私は彼らをステージの方へと追いやる。全員が、「誰だコイツ?」という怪訝な表情を浮かべていたが、その疑問を言葉にする隙を与えないようにしながら、私は彼らを加世氏達から引き離した。
 充分距離を離してから、私は慌てて再び元の定位置へと戻る。
 どうやら、朝永は無事に加世氏に声をかけられたらしい。私はホッと一息ついた。
 「先ほどは素敵な演奏をありがとうございます」
 加世氏は変装した朝永の言葉が、自分に向けられたものだとは一瞬気づかなかったようだ。
 きょとんとした表情のまま辺りをきょろきょろと見渡し、自分が話しかけられたと気づくと、にっこりと微笑んだ。
 「あ、ありがとうございます……! そう言ってもらえて光栄です。えっと……、誰か団員の知り合いの方ですか?」
 同じ世代の人だから、加世氏はそう思ったのだろう。
 「いえ、そういう訳ではないのですが。美術サークルの方に知り合いがいまして、今日はその人の作品を見に来ていたのです。そこでこの演奏会を知りまして、折角やから、と」
 朝永は穏やかに微笑む。いつものようなぶっきらぼうな話し方とは異なり、ゆっくりと落ち着いた声の中に、少しだけ関西弁の訛りが混じっている。伸びた背筋により、いつもよりも背中が大きく見えた
 「そうですか、ジャズはお好きなんですか?」
 「はい、昔サックスを吹いていたことがあったので。えっと……、ピアノを弾かれていた方、ですよね?」
 「はいっ、そうです」
 「ソロパートの部分、とても素晴らしかったです」
 「ありがとうございます……っ! 御世辞でも嬉しいです」
 加世氏は照れくさそうに微笑んだ。顔の前で両手を振り、照れ隠しをしている。
 そんな様子が微笑ましいのか
 「御世辞ではありませんよ。とても良い演奏でした。そうですね……」
 朝永はにこりと微笑んだ。
 「この曲をまた聴いたときに、あなたのことを思い出すくらいには」
 ――ぶはっ!
 私は必死に笑いをこらえる。朝永、それは臭い。普段と違うキャラなのは分かるが、それにしてもなんともキザな青年だ。
 加世氏は一瞬きょとんとしたようであった。その後に、ふふっと微笑む。
 「ありがとうございます、優しい方ですね。えっと……」
 「浅井です。浅井孝二(あさい こうじ)と申します」
 風岡加世です、と加世氏は頭を下げる。
 「風岡さん、また、演奏会に伺ってもいいですか」
 「はい、勿論ですっ。あ……、すいません。ちょっと待ってもらえませんか?」
 どうしたのだろう。加世氏は慌てて、舞台袖の方へと去っていった。
 私は朝永――いや、浅井に話しかけたくてうずうずしていた。しかし、加世氏がいつ帰ってくるのか分からない。
 案の定、加世氏はすぐに戻ってきた。
 「あの、チケットは団員から購入すると安く手に入るので、よろしければこれ、私の連絡先です」
 「よろしいんですか?」
 浅井は少し驚いたようであった。加世氏の方から連絡先の書かれた紙を差し出されたのだ。
 「はい、私のピアノを褒めてくださって、とても嬉しかったです」
 それに……、と言葉を続ける。
 「それに、団員もチケット代がそのまま収入になるから、少し助かるんですよっ」
 加世氏は照れくさそうに微笑んだ。その様子に、浅井も安心したように笑った。
 「……わかりました。では、また公演がある時にはご連絡させていただきます」
 そういって、加世氏からメモを受け取った。
 その後、二、三会話をして二人は別れる。再び彼らは万華鏡の中に姿を消していった。
 このころには観客の波も大分ひいていき、演者は舞台の後片付けを始めていた。
 そろそろ引き時であろうか、私もそそくさとホールを後にし、来た道を戻るように紅葉踏んで帰った。
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