第5話
文字数 2,745文字
放課後。私はいつものように図書館での思索の後、正門へと向かう。我々はこうして、金曜の昼には食堂で昼食をとり、夜には再び集まって飲みに出かけるのだ。初めのうちは祇園の方まで足を延ばしたりしたこともあったが、今は「しゃらく」に落ち着いている。
私が正門へ着くと、既に二人はいた。
朝永はジーンズとパーカーに前と同じ薄手のコートを、加世氏は白のブラウスにグレーのプリーツスカート、その上に濃い緑のロングカーディガンを羽織っている。
私はいつもと同じように黒のパンツに白のシャツ、紺のカーディガンである。パンツとシャツは同じものを五着持っており、迷うことはない。同じ服ではあるがその上に合わせるニットやコートによって印象は多少変わるのだから、私にとってお洒落はその程度で十分である。
我々は徒歩で、しゃらくへと向かった。
いつものように二階の奥座敷へと行くと、つばくろさんは既に酒瓶を四本空にしていた。
「今日は新宮大先生はおられないんですね」
私はそう呟きながら、つばくろさんの方へと近寄った。もうすでに出来上がっている人たちの熱気を前にして、カーディガンを脱ぐ。
「あの方は金曜日にはあまり来られないんだよ」
今までも君たちが来る金曜日に、見かけたことはなかっただろう? とつばくろは杯をかかげながら言う。微かに赤くなった肌が、黒地に萩野模様の着物に映えている。
「残念です。その大先生たる方にお会いしてみたかったのですが」
私と朝永の影からひょいっと顔を出した加世氏は、つばくろさんに向かっていった。
「おや、加世氏! 久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「はい! お久しぶりです!」
加世氏はつばくろさんの方へぴょんぴょんと向かっていき、手を合わせる。
「もう忙しくはないのかい?」
「はい!」
「じゃぁ、今日は思いっきり飲めるね」
「はい!」
加世氏は満面の笑みで言った。
その横では、
「節度さえ持っていれば……節度さえ持っていれば何も問題は……」
と、朝永がぶつぶつと呟いている。
その声は加世氏には届かなかったのか、宴会はつつがなく始まった。我々の分のグラスも運ばれる。腹の減った私は、ひとまず豚の角煮や野菜の天ぷらといったボリュームのあるものをつまむ。
その間にも女性陣は粛々と飲み進めていた。
二階の奥座敷には、我々以外にも飲んでいる団体は多くある。つばくろさんのようにいつも見かける常連組もいれば、大学のサークルのコンパか何かであろう賑やかな集団までいる。常連同士ではたまに一緒に飲むこともあるのだが、必ず一緒に飲むのはつばくろさんくらいだ。
飲むペースやつまみの好み、騒ぎ方の違いもあり、自然とそのようになった。つばくろさんは我々が来る金曜日以外は、新宮大先生といった他の人と一緒に飲んでいるようであるが詳しい話を聞いたことはなかった。
「……つまりですね、宗教学と音楽は密接に関わりがあるんです。例えば『アーメン終止』と呼ばれる言葉があります。これは(ファ・ラ・ド)の和音から(ド・ミ・ソ)の和音に移行し、音楽が終わるものをさします。讃美歌の最後に『アーメン』という時によくこの和音の進行が使われるからなんです。音楽を勉強していると、こうした宗教と関わることはよくあります」
加世氏はうんうんと頷き、手に持っていた焼酎のロックを一気飲みした。十五度ほどの酒であるが、そんなことを彼女は気にしない。
「なるほどね。でも加世氏がやっているのってピアノだろう? 合唱の話になるなんて、珍しいね」
つばくろさんは相槌を打つ。私と朝永は、黙って鯖のミリン干しをつまんでいた。
「はい。今回、うちの大学の合唱団から依頼がありまして、その伴奏をすることになったんです」
加世氏は大学のジャズ研究会に所属しており、ピアノを弾いている。
「なんでもジャズ調のミサ曲だそうで、うちのサークルに依頼があったんです。私が担当することになったんですが、合唱は経験がないので勉強中です」
小さいころからピアノを習っていた加世氏。中学校などでの合唱コンクールの伴奏を務めたことはあるものの、こうした本格的な宗教曲は初めてだという。
「そっか。それで宗教曲か」
「はい。調べてみると思った以上に奥が深くて。例えばミサのテキストは……」
加世氏はそのまま、数十分話し続けた。
つばくろさんは時々相槌を打っており、返せる言葉のない私と朝永は、ただただ机の上の料理を綺麗にしていった。
そう、加世氏の厄介な酔い方とは、このことである。
飲むと普段以上に語りたい、人が語っているのを聴きたい、という衝動に駆られるらしく、こうしてテーマも様々に議論を始めるのであった。
博学なつばくろさんはどんな内容にも議論に応じているが、知識の偏りが激しい私と朝永は、口閉する場面も多いのである。
しかも、つばくろさん並みにザルである加世氏が酔いつぶれるところを、私は見たことがない。
「宗教曲について知りたいのなら、この辺りの本を見てみると面白いかもしれないね」
そう言って、つばくろさんは割りばしの入っていた袋に、いくつかのタイトルを書きならべた。
「……ありがとうございます! 折角引き受けた依頼なので、私もできる限りのことをやろうと思います」
加世氏は両手をぎゅっと握り、気合を入れた。
私はふと、朝永の方を見た。
「……朝永?」
「……ん? どうした?」
「水、滴っているぞ」
朝永のグラスについた水滴は、彼の手を伝って落ちていっていた。近くにあった布巾を渡してやる。朝永は畳の目に沿うように、丁寧にふき取った。
加世氏が語りだすと、対照的に無言になるのはいつものことであるが、
「どうかしたか?」
「……いや、別に」
朝永は私に布巾を返した。その表情はもう、いつものように飄々とした朝永であり、私の気のせいであったようだった。
そこからまた、加世氏はするすると語り続けた。よくここまで語れるほどの内容があるなと、こちらが感心するほどである。彼女の音楽に対する愛情や責任感は大したものであった。生き生きとして語る加世氏は本当に楽しそうである。
日付が変わるころ、お開きとなった。
朝永が加世氏を家まで送っていき、私は一人でそのまま下宿先へと戻ったのであった。
ケサラさんは酔って帰ってきた私を呆れたように見ていたが、私は彼女の夜ご飯を皿の上に乗せると、すぐに自分の布団にしがみつく。
朝永の表情が浮かないことだけが少し気がかりであったが、酔った私の頭で感じたことだ。杞憂であろうと考えていた。
私が正門へ着くと、既に二人はいた。
朝永はジーンズとパーカーに前と同じ薄手のコートを、加世氏は白のブラウスにグレーのプリーツスカート、その上に濃い緑のロングカーディガンを羽織っている。
私はいつもと同じように黒のパンツに白のシャツ、紺のカーディガンである。パンツとシャツは同じものを五着持っており、迷うことはない。同じ服ではあるがその上に合わせるニットやコートによって印象は多少変わるのだから、私にとってお洒落はその程度で十分である。
我々は徒歩で、しゃらくへと向かった。
いつものように二階の奥座敷へと行くと、つばくろさんは既に酒瓶を四本空にしていた。
「今日は新宮大先生はおられないんですね」
私はそう呟きながら、つばくろさんの方へと近寄った。もうすでに出来上がっている人たちの熱気を前にして、カーディガンを脱ぐ。
「あの方は金曜日にはあまり来られないんだよ」
今までも君たちが来る金曜日に、見かけたことはなかっただろう? とつばくろは杯をかかげながら言う。微かに赤くなった肌が、黒地に萩野模様の着物に映えている。
「残念です。その大先生たる方にお会いしてみたかったのですが」
私と朝永の影からひょいっと顔を出した加世氏は、つばくろさんに向かっていった。
「おや、加世氏! 久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「はい! お久しぶりです!」
加世氏はつばくろさんの方へぴょんぴょんと向かっていき、手を合わせる。
「もう忙しくはないのかい?」
「はい!」
「じゃぁ、今日は思いっきり飲めるね」
「はい!」
加世氏は満面の笑みで言った。
その横では、
「節度さえ持っていれば……節度さえ持っていれば何も問題は……」
と、朝永がぶつぶつと呟いている。
その声は加世氏には届かなかったのか、宴会はつつがなく始まった。我々の分のグラスも運ばれる。腹の減った私は、ひとまず豚の角煮や野菜の天ぷらといったボリュームのあるものをつまむ。
その間にも女性陣は粛々と飲み進めていた。
二階の奥座敷には、我々以外にも飲んでいる団体は多くある。つばくろさんのようにいつも見かける常連組もいれば、大学のサークルのコンパか何かであろう賑やかな集団までいる。常連同士ではたまに一緒に飲むこともあるのだが、必ず一緒に飲むのはつばくろさんくらいだ。
飲むペースやつまみの好み、騒ぎ方の違いもあり、自然とそのようになった。つばくろさんは我々が来る金曜日以外は、新宮大先生といった他の人と一緒に飲んでいるようであるが詳しい話を聞いたことはなかった。
「……つまりですね、宗教学と音楽は密接に関わりがあるんです。例えば『アーメン終止』と呼ばれる言葉があります。これは(ファ・ラ・ド)の和音から(ド・ミ・ソ)の和音に移行し、音楽が終わるものをさします。讃美歌の最後に『アーメン』という時によくこの和音の進行が使われるからなんです。音楽を勉強していると、こうした宗教と関わることはよくあります」
加世氏はうんうんと頷き、手に持っていた焼酎のロックを一気飲みした。十五度ほどの酒であるが、そんなことを彼女は気にしない。
「なるほどね。でも加世氏がやっているのってピアノだろう? 合唱の話になるなんて、珍しいね」
つばくろさんは相槌を打つ。私と朝永は、黙って鯖のミリン干しをつまんでいた。
「はい。今回、うちの大学の合唱団から依頼がありまして、その伴奏をすることになったんです」
加世氏は大学のジャズ研究会に所属しており、ピアノを弾いている。
「なんでもジャズ調のミサ曲だそうで、うちのサークルに依頼があったんです。私が担当することになったんですが、合唱は経験がないので勉強中です」
小さいころからピアノを習っていた加世氏。中学校などでの合唱コンクールの伴奏を務めたことはあるものの、こうした本格的な宗教曲は初めてだという。
「そっか。それで宗教曲か」
「はい。調べてみると思った以上に奥が深くて。例えばミサのテキストは……」
加世氏はそのまま、数十分話し続けた。
つばくろさんは時々相槌を打っており、返せる言葉のない私と朝永は、ただただ机の上の料理を綺麗にしていった。
そう、加世氏の厄介な酔い方とは、このことである。
飲むと普段以上に語りたい、人が語っているのを聴きたい、という衝動に駆られるらしく、こうしてテーマも様々に議論を始めるのであった。
博学なつばくろさんはどんな内容にも議論に応じているが、知識の偏りが激しい私と朝永は、口閉する場面も多いのである。
しかも、つばくろさん並みにザルである加世氏が酔いつぶれるところを、私は見たことがない。
「宗教曲について知りたいのなら、この辺りの本を見てみると面白いかもしれないね」
そう言って、つばくろさんは割りばしの入っていた袋に、いくつかのタイトルを書きならべた。
「……ありがとうございます! 折角引き受けた依頼なので、私もできる限りのことをやろうと思います」
加世氏は両手をぎゅっと握り、気合を入れた。
私はふと、朝永の方を見た。
「……朝永?」
「……ん? どうした?」
「水、滴っているぞ」
朝永のグラスについた水滴は、彼の手を伝って落ちていっていた。近くにあった布巾を渡してやる。朝永は畳の目に沿うように、丁寧にふき取った。
加世氏が語りだすと、対照的に無言になるのはいつものことであるが、
「どうかしたか?」
「……いや、別に」
朝永は私に布巾を返した。その表情はもう、いつものように飄々とした朝永であり、私の気のせいであったようだった。
そこからまた、加世氏はするすると語り続けた。よくここまで語れるほどの内容があるなと、こちらが感心するほどである。彼女の音楽に対する愛情や責任感は大したものであった。生き生きとして語る加世氏は本当に楽しそうである。
日付が変わるころ、お開きとなった。
朝永が加世氏を家まで送っていき、私は一人でそのまま下宿先へと戻ったのであった。
ケサラさんは酔って帰ってきた私を呆れたように見ていたが、私は彼女の夜ご飯を皿の上に乗せると、すぐに自分の布団にしがみつく。
朝永の表情が浮かないことだけが少し気がかりであったが、酔った私の頭で感じたことだ。杞憂であろうと考えていた。