第2話

文字数 6,254文字

 「……そう、これが私と彼の運命の出会いであったのだ」
 私は感慨深くなり、うんうんと頷く。
 ここは昼下がりの大学の食堂。そこそこ人のいるスペースの隅の方で、私は彼と向かい合わせに座って昼食をとっていた。私は目の前のカツカレーを頬張る。さっくりと揚がったチキンカツの衣が、口内ではじける。
 「……何度その話をすれば気が済む。もう二回生の十月だ。……これまでに五回以上は聞いた」
 私が運命の出会いを果たした相手――朝永孝宏(ともなが たかひろ)は、「生物学的にあり得ないとしても、俺の耳に蛸が複数生まれそうだ」と言って、顔を大仰にしかめる。自分の前にある味噌ラーメンのもやしを丁寧にそろえてから、彼はそれを一度に口に運んだ。
 「何をいう。あの一瞬会っただけにも関わらず、その後こうして再会を果たし、同じ釜の飯を食らう仲になったのだぞ! これを! 運命と言わずになんという!?」
 「……俺が食っているのはラーメンだ。釜の飯は食っていない」
 「……」
 私は無言でチキンカツを食らった。私はめげない。例え友人ではなく、名前も知らない学生と同じ電気釜の飯を食らおうとも。
 「お前だってどっかのサークルの新歓で再会したとき、私の顔を覚えていたではないか!」
 「そりゃぁ、あんな時間にあんな場所にいる変わり者だったからな。……嫌でも印象に残る」
 「……あの場にいたお前も、相当な変わり者ということになるがな」
 「俺は人を待っていたんだよ。お前以上の変わり者のな」
 あぁ、あの人のことを言っているのか、と私はすんなりと納得した。
 カツカレーを食べ終えた私は、野菜ジュースをごきゅごきゅと飲み干す。これで野菜を摂取したこととしておく。
 「今日は行くのか?」
 私は朝永に訊ねた。
 「あぁ、いつも通りに」
 「加世氏は?」
 「あいつは来ないって言っていた」
 アルバイトが忙しいらしい、と朝永も野菜ジュースを飲み干す。
 「成程」
 納得した私は、野菜ジュースの入っていた紙パックを丁寧に開いてたたんだ。
 我々は返却口に食器を返し、食堂を後にする。
 そのまま朝永と別れた私は、大学の附属図書館へと向かった。自習スペースへと行き、そそくさと溜まっていた課題を終わらせると、棚から持ってきていた本を広げる。
 大学生は自由な時間が多い。それに気づいてから、私は毎日、少しでも自学の時間をとるようにと心がけている。私が大学入学前、お会いしたこともない西田先生と心に決め、今も続けている唯一の約束かもしれない。
 それを言うと朝永は「クソ真面目な奴だな」と訝しそうにしていたが、彼も人のことを言える立場ではない。
 理学部理学科の彼はまだ研究室配属も行われていない二回生だというのに、もういくつかの研究室に入り浸ってはゼミに参加するときもあるという。数学、物理、化学と今は幅広く興味があるらしく、時間を見つけてはそうして勉強を怠らないのだから、彼こそ大学生の鏡ともいうべき変態である。
 私も彼も、惰性的に過ごすことが嫌いなわけではないのだ。意味もなくだらだらとしたり、刹那的に行動したりするのも大学生らしい行動だと思っている。しかし、それだけではつまらないとも感じているのだ。この四年間で何かを成し遂げたという、長期的な達成感が欲しいのだ。本来、それはサークルや部活動、アルバイトといったものでその欲求が満たされるのであろうが、私はあまりそれらに打ち込む性分ではない。短期でのアルバイトもたまにしているし、考古学研究会というサークルにも所属しているが、それらが生活の中心となることは、私にとってはなかったのだ。
 私は黙々と本を読んだ。時間を思い出したのは、時計塔の鐘が鳴り、一日の講義の終わりを告げた時であった。
 私は鐘の音に反応するように、ふと顔をあげる。その頃には、初めに私の周りに座っていた学生たちの姿はなく、見知らぬ人たちが私の周りで勉強をしていた。
 私は本を閉じ、席を立つ。貸し出し手続きを終えると、私はそのまま図書館を出て、正門の方へと歩いて向かった。
 十月も後半になると、十八時にはもう辺りは薄暗くなっていた。私は、ジーンズとパーカーという昼間の装いに薄手のコートが加わった朝永を見つけ、手を挙げる。
 「……おう」
 朝永は私に応じるように手を挙げ、我々は大学の外へと歩いて出かけた。
 白川通を南へと下り、御蔭通と呼ばれる東西に通る比較的大きな通りで、西に入る。大学からは十分ほど歩いただろうか。曲がってすぐに見えるその建物に、私は初め、非常に驚いたものであった。
 二階建ての建物の壁に大きく書かれた浮世絵は、日本史の教科書で見たことある、東洲斎写楽の「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」である。軒先の赤提灯よりもその絵の方が目立っており、初めそこが居酒屋であることになかなか気づかなかった。
 居酒屋「しゃらく」の扉をくぐった我々は、軋んだ階段をのぼって迷わず二階席へと移動する。一階はカウンター、二階は座敷となっており、座敷には既に人がいた。
 「やぁ! 先に始めているよ!」
 「どうも、つばくろさん」
 前を歩いていた朝永が礼をするのに合わせて、私も一礼する。
 燕昇司麻琴(つばくろしょうじ まこと)――通称つばくろさんは、しゃらくの常連だ。我々が訪れるといつも、二階の奥座敷、角の机に座っている。いつものように着物姿で、腰まである髪はゆるく一つに束ねられていた。
 つばくろさんについては、もう一年以上の付き合いがあるが、正直なところあまりよくは知らない。私と朝永は基本的にしゃらくに訪れるのは金曜の夜くらいであるが、その日以外にもつばくろさんは頻繁にここにいるらしい。我々と同じ大学の六回生であるそうだが、女性に対して年齢をきけるほどの勇気はない。それ故、我々よりも年上であることくらいの認識でそっと蓋をしていた。
 「つばくろさんは、随分前から来られていたようで」
 私はつばくろさんの隣に並ぶ酒瓶を見た。まだ日は暮れ終わったばかりだというのに、既に三本も空になっている。
 「まあね。でも安心して。今日はこれを一人で空けたわけではないんだ」
 空けようと思えば空けられるといわんばかりの口調のつばくろさんは、隣にいる男性を手で示した。
 「新宮大先生、私の飲み友達よ」
 我々は隣にいる男性を見た。
 百五十センチほどであろうか、小さな背のその老人は、作務衣に身を包み、座敷につきそうなほど長い白髭をたくわえていた。胡坐をかいて煙管を片手に机に肘をついている格好が、妙に様になっていた。
 「ふぉっふぉっふぉ! そなたたちが、つばくろ殿がおっしゃっていた男子学生たちか。新宮を申す」
 新宮と名乗り、どこかの賢者のような口調をしている老人は頭を下げる。あわてて我々も頭を下げた。
 「京都錦林大学理学部理学科二回生の朝永孝宏です」
 「同じく、錦林大学文学部地理学専攻の櫻井和昌(さくらい まさひろ)です」
 「二人とも、真面目ね。私なんてまだちゃんと自己紹介していない気がするわ」
 つばくろさんはそういって、少しだけ姿勢を正した。
 「えー、彼らと同じ大学の文学部西洋古典専攻六回生の燕昇司です。しゃらくにはほぼ毎日のようにいます」
 「わしは金曜日にはあまり来ないがね。それ以外の日には、よくつばくろ殿に話し相手になってもらっているんじゃよ」
 ふぉっふぉっ、と新宮大先生は愉快そうに声をあげて笑う。
 「あら、こちらこそ先生にお酌していただけて光栄ですよ」
 「またまた! こうして友人を紹介してくださったのじゃって、今日が初めてじゃろうが」
 ニヤリとした表情で、つばくろさんの方を見上げる。つばくろさんはそれににこりと微笑んで応えた。
 「当たり前です。新宮先生に女の子なんて危なくて紹介できませんからね」
 「なにをいう! 男なんぞ揉めるものも何もないじゃろうが!」 
 「相変わらず、最低の発言をしますね……」
 つばくろさんはこめかみに手を置く。どうやら、この作務衣に身を包んだ老人は、高尚さなどどこにも持ち合わせてはおらず、とんだ不良仙人のようである。
 「考えてもみぃ。たわわに実った果実が目の前に? あるというのにぃ? 放っておく奴など、男ではないわ!」
 新宮大先生は片膝を立てて捲し上げる。そこまで潔く言われると、私と朝永は同じ男性として何も言い返せない。
 「先生、それ以上言ったら分かりますよね? 既に貸しが何個もあるんですからね」
 今なら酔っぱらいの戯言で聞き流してあげますよ、とつばくろさんにこりと微笑む。
 「…………今日のお勧めの酒一本で許してくれんかのぅ?」
 「良いでしょう。手を打ちましょう」
 何の弱みを握られているのかは分からないが、大先生はおとなしくつばくろさんに従った。
 女好きであろう大先生が、つばくろさんには手を出していないのであるから相当尻に敷かれているようである。半世紀も長く生きた人間の威厳など、どこにも感じられない。
 「……ということで、君らは安心して。先生は男性に対しては無害だから」
 「はぁ……」
 何ともひどい言われようであるが、料理と酒を追加し我々もようやく宴に加わる。新宮大先生は、つばくろさんほどではないといっても酒に強いのか、日本酒を平気な顔でぐびりとあおる。
 これはペースに気を付けなければ潰れるな、と私と朝永は互いに青い顔を見合わせた。
 「なるほど。櫻井さんと朝永さんは、もともと知り合いだったんじゃね」
 「はい、非常に気心知れた仲でして」
 「……何が気心知れた仲、だ。俺はお前の気持ちを理解できたことなど一度もない」
 私の答えに、朝永は冷ややかな目を送った。
 「加世氏がいないから、今日はあなたの奇妙さが際立ちそうね」
 つばくろさんは私を温かい目で見ながら、自分のグラスに日本酒を注ぎ、瓶を空にした。
 その様子を、大先生は「ふぉっふぉっふぉ!」と、面白そうに声を上げて笑う。
 「元気があっていい。自分の若いころを思い出して血がたぎるわい」
 「……そう言っていただけて何よりです」
 私は出汁巻き卵を一口頬張った。幾層にもなった卵の隙間から出汁が染み出し、口中に広がる。
 「先生が学生の頃は、どのようなお方だったんです?」
 つばくろさんはちりめん山椒をつまむ。ものの数十分の間に、からの酒瓶は二本追加され、つばくろさんの横に鎮座していた。
 新宮大先生は、少し目を細める。遠い記憶をたどるように穏やかな表情になった。
 「わしが大学にいたころは、もっと学生運動が盛んでな……。よくあの時計塔に学生が上がっていたもんじゃよ」
 「それは確かに、血がたぎる思い出ですね」
 つばくろさんは愉快そうに微笑む。
 それから大先生は多くのことを話してくれた。長い間この地に住んでおられるのか、安保闘争から全共闘運動と大学をずっと見続けているようであった。血気盛んな時代であったからであろうか、時計塔に上って叫ぶのは国の未来への憂いだけでなく、未来への夢を語る者、想い人への愛を叫ぶ者と様々だったという。
 大先生の話が十年前の祇園祭の話へと差し掛かったとき、階段を上る音がどしんどしんと聞こえた。大柄な店員は、つばくろさんと大先生の方を少し見た後、瓶を丁寧に机の上に置く。
 「今日のお勧め、どうぞ」
 それだけ言い残すと、のっそりと再び階段を下りていった。
 「……これはまた」
 つばくろさんはヒュウと息を鳴らす。
 「あぁ、この店のマスターはいい仕事をなさる」
 新宮大先生も嬉しそうな表情で、瓶をしげしげと眺めた。
 「お二人とも、この酒、そんなに良いものなのですか?」
 こういったことに知識の乏しい私は、素直に二人に訊ねた。隣で朝永も首を捻っている。
 「ふふん」
 つばくろさんは、そんな我々に対して、もったいぶったように間をおいてから説明をした。
 「魔王。幻の焼酎といわれているものよ」
 言うより先に、飲んでみた方が早いかもしれないわね、とつばくろさんは手早く四人に注ぐ。
 私は自分のグラスに注がれた液体をしげしげと眺めた。色は透明で、見てもよくわからない私は、グラスに顔を近づける。
 「……芋ですか?」
 つばくろさんは頷く。私は恐る恐る口につけた。
 「ほう……、これは確かに」
 常温の液体を一口、口に含むとすっきりとした果実のような香りが広がる。『魔王』という名前からもっと濃く重々しいものを想像していたが、風味は非常に穏やかである。
 「すっきりしていますね」
 酒の味を形容する言葉をうまく持ち合わせていない私は、素直に感じたままを口にする。
 「熟成中に樽で蒸発してしまう水分やアルコール分を、『天使の取り分』といってね。縁起の良い酒とされてきたのよ。その天使を誘惑し、魔界へ酒をもたらす悪魔にちなんでその名前がついたとされているわ」
 つばくろさんはうっとりとグラスを眺める。
 なるほど、この飲みやすさは悪魔をも魅了するのか。私は納得してもう一口飲んだ。
 「でも、度数が高いから櫻井君はその一杯だけよ」
 つばくろさんが見せた酒瓶には、「アルコール度数二十五度」とある。あまり酒に強くない私は、神妙な面持ちで頷いた。
 文字通り、ざるのようなつばくろさんと新宮大先生は度数など気にせずに味わっていく。
 私よりは強いといえど、ざるほどの無限性はない朝永は、私とともにさつま揚げをもしゃもしゃとつまんだ。
 宴は日付が超えても続いた。大先生による興味深い話を聞き、私が代わりに考古学研究会で行った発掘現場の話をし、つばくろさんが宗教学の話を始めた。
 気が付いた時には窓から朝日が差し込み、私は畳の上に大の字になって寝転がっていた。
 私はむくりと起き上がる。つばくろさんはグラスを持ったままこくり、こくりと転寝をしており、大先生と朝永は私と同じように横になって眠っていた。
 私は再び横になる。イグサの香りに誘われるように、畳の目をそっと指でなぞった。
 こうした時間もいい。机に向かって本を読む時間も好きであるが、後先考えずに人と時間を過ごすのも大学生になってから覚えた楽しみだ。
 朝も七時となったころ、全員がゆっくりと起き出した。一階から例のマスターがのっそりとやってきて、出汁巻き卵にごはん、壬生菜の漬物、そしてヤカンに入ったほうじ茶を持ってくる。
 私たちは無言でそれを食らった。この店は朝方まで営業しており、こうして時々朝食をだしてもらう。ご飯にほうじ茶を注ぎ、漬物と共にさらさらといただいた。
 その後、店の前で大先生とつばくろさんと別れ、私と朝永はそれぞれ、下宿先へと歩いて行った。
 「今日はこれからどうするんだ?」
 もう既に土曜日は始まっている。私は朝永に訊ねた。
 「予定がないからこのまま寝る」
 お前は? と朝永に返され、私も無言で頷いた。
 私は自室に戻る。
 部屋は入学当初に比べると、随分と物が増えた。八畳ほどの部屋には、棚に入りきらなかった本が、テレビ台や床まで侵食して積まれている。私はそれらにぶつからないようにしながら、昨日朝起きたままの布団にそのままなだれ込んだ。

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