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文字数 2,288文字
僕が自宅の安アパートに着くと、ちょうどアカネ先輩からメールが来た。
「3年A組 猫沖三次郎 これで十分だろう」
簡潔過ぎる文面だ。
華美な外見とは正反対なこのメールに今更驚くことはない。
ただ、アカネ先輩が彼を視認してからも、僕が相談内容のメールを送信してからも、1時間以上経過している。「これで十分だろう」というコメントは、全て僕に任せるという意思の表れなのだろうか。
築40年を越える安アパートの自室に戻った。
向かいの部屋には
僕が高校生の身分でありながらひとり暮らしをしているのには、大した理由はない。
父親が外務省職員……いわゆる外交官であるためだ。母はそれに付いていっている。大抵どの国でも、夫妻で他国の大使館家族と付き合う習慣(情報収集等)があるため、いわゆる製造業の会社のように伴侶なしの単身赴任のケースは少ない。中学生までは僕も一緒に世界を回ったものだが、高校に受かって以降は、ひとり暮らしをしながら通学することにした。外交官家庭では大学生からそうするパターンが多いそうなので、他より3年早いだけだ。
そこで、これも勉強と思って安いアパートを探し、節約生活をしている。仕送り額は一定だからやりくり上手なほど可処分所得が増える。
思った以上に安いアパートを見つけたということをパリにいる両親に報告すると、同じアパートで僕の向かいにもう一部屋借りて、そこに両親の私物を置くことになった。赴任の先々で怪しげなものを買うので段々と増えていき、福岡の祖父母の実家も手狭になってきたので、こういうことになった。
「貸倉庫じゃ不安なものもあるからなぁ」と父は言う。
それは外交官特権による税関未通過の、いわゆる条約違反の怪しげなブツではないか、と僕としては不安でしょうがない。
―――つまり何が言いたいかというと、聖母マリアはその倉庫部屋を住まいとしている。
僕の向かいの部屋で、今も何かをしているのだ。
簡単な掃除をして片付ければ、元々ただのワンルームだ。何も困ることはない。
先日の銭湯での邂逅以来、朝飯を一緒にかっ喰らい、倉庫部屋の彼女に行ってきますと言ってから登校するのが習慣になっている。
自分の部屋に入った瞬間、人影が僕の脇を通り過ぎた。
「さむっ、さむい、お帰り!」
マリアである。転がり込むようにして、僕の部屋の暖房のスイッチを勝手に入れる。
「わたしの部屋には暖房がないんだからさあ……日が落ちてからはツラいよ」
「マリアの部屋じゃないだろ。僕の部屋でもないけどさ」
前述のとおり僕の部屋もマリアが転がり込んだ部屋も、家賃を払っているの我が親である。
マリアは猫のように丸くなって温かい空気の前に座り込んでいる。
次にまたもや勝手に炬燵の電源を入れて首から下まで潜り込んだ。
「ひゃー温かい」
こうして見ると普通の女の子と変わらない。
”聖母マリア”と名乗ったのだって何かの間違いか冗談ではないか、と思ってしまう。
むしろ、
かのイエス・キリストの母であり、カトリック世界においては彼女自身も信仰対象として崇拝されている聖人。想像上の人物ではない。実際に約2000年前に実在した人物である。
銭湯の水風呂というアブノーマルな場所での邂逅はさて置いても信じがたい―――のだが、僕が
それには理由がある。
―――と、コンコンとノックの音の後にガチャリとドアが開く音がした。
「よろしいかな」
顔を出したのはボサボサの金髪に、ブランド物のサングラス―――派手なマフラーをつけた細身の男であった。ひと目見ても胡散臭い風貌である。三十路は超えているかいないかも分からない怪しさ。年齢不詳、ついでに言うなら職業不詳、住所不詳でも納得するレベルの風来坊的な外見である。顔貌は悪くないので、良く言えば遊び人風である。
「OKって言ってないぞ」
「あ、ベル君いらっしゃい」
彼はぺこりと頭を下げると、またもや僕に何を言うまでもなく炬燵に足を突っ込んだ。
―――どうも最近、変な知り合いが増えて困る。
自称イタリアからの旅行者の日系人。そしてカトリックの司祭―――神父でもある。洗礼名をベルナルドだか何だかと名乗った。
「おや、やっぱり俺の住む1階より暖かいねえ」
そして―――先日のマリア出現の直後に来日し、僕らと同じアパートに住んでいるというわけだ。僕とマリアは2階、彼は1階だ。たいてい、日中はどこかに観光しており、たまにマリアも付いていくそうだ。
「観光ビザでいつまで居座るつもりだよ」
「イタリア人が日本観光するのに観光ビザなんていらないよ。ビザなしで90日滞在できる。日本人がイタリア観光する時もビザなしで90日はいける」
この金髪グラサンは、ちゃらんぽらんなファッションセンスとは反対にインテリを匂わせる話し方をする。慇懃な日本語のせいかもしれない。しかし、この男の知識、判断のせいで、マリアの正体を
ハワイでナンパするために髪を染めた顔が濃いめの日本人のお兄さん、という僕の第一印象はやはりアテにならないようだ。