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文字数 5,701文字

「あの時、猫沖氏だけじゃない。長門さんも仕切りの向こうにいたんです(、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。足音は一人分だったから、猫沖氏が抱えていたのでしょう。思えば力をいれているような吐息でしたし、ガサゴソ音が多かったのは2人いたからだったんでしょう」

 このカードは確実にアカネ先輩を揺さぶる。
 だから出しどころは効果が最大限に発揮されるところでなくてはならない。

 長門さんも抱えられながら、猫沖氏への返事の合図をしていたはずだ。あそこには長門さんの意思も介在した。不気味な緊張感はあそこから発せれていたのだ。
 
「猫沖氏の鍛えた肉体なら、人間一人抱えたまま歩行するのは簡単だ。もちろん仕切り越しの相談が終わった後も、長門さんを抱えて教室から出て行った。そして……屋上行き階段の影から覗き込んだアカネ先輩とお姫様抱っこされた長門さんは、眼があった(、、、)。きっと長門さんはニヤリと微笑んだ(、、、、、、、、)んじゃないでしょうか」

「………ぁぁ」

 アカネ先輩の目つきは燦々としたままで、ゆっくりと口角があがる。ああ、きっと長門さんのあの時の”微笑み”はこんな凶相をしていたのだろう。彼女の理性の怪物(、、、、、)が眼を覚まし姿を表した瞬間のはずだから。

 階段の上下で、アカネ先輩は長門さんを見下ろし、お姫さま抱っこされた長門さんはアカネ先輩を見上げる。猫沖氏は階段下を見て降りているだけなので、この一瞬に行われた壮絶なやりとりは見えていない。
 
「当然、お互い顔を見知っていたから故に起きた。何故フランスからの留学生とアカネ先輩が、お互いの顔を知っているのか。先輩の人脈なら誰が知り合いでも驚きませんが、恐らく、アカネ先輩の……お父上絡みでしょう」

 続けますか?
 これ以降は、数個のピースをはめ込んだだけのパズルだ。予想だ。

「続けろ」

 彼女の首肯した。僕の予想の確度が高いことを意味している。ネット上での知り合いでした、ということもあり得たからだ。お父上絡みが確かなら、僕の予想が真実に近い位置にいることの証左だ。
 なるほど。失敗できないな。このカードを無駄死にさせずに使い切ってやる。

「”人間は自由という刑に処されている”、”人間は自分で各々の道を創り出さなくちゃいけない”。この言葉はお父上から聞いた、と言っていましたよね。また、とうくんはブラジルに行くことについて。”僕の行動が、僕を決める”、”すべての答えは出ている。どう生きるかということを除いて。”と言ってしました。長門さんから聞いたそうです。これらは、ある人物の言葉です」

 お互いにカードを1枚チェンジ。レイズ(釣り上げ)を行っていく。

「ジャン=ポール、サルトル。1980年に死んだフランスの哲学者の言葉です。彼の実存主義者としての著作、実践的行動はフランスだけでなく世界に大きな影響を与えました。そして、お父上は実際に影響を受けた……と僕は推察します。先輩のお父上もヨーロッパ、確かフランスに留学していた時代がありましたよね。つまりお父上はサルトルとボーヴォワールの契約結婚(、、、、)を現実に行っていたのではないでしょうか」

 今時知らない人はいないよね、という前置きのもとに金髪グラサンから聞いた話だ。

 宇都宮なる人物が、当時パリで何を行っていたのか父に調べてもらおうとしたが、時間的にも内容としても無理があったがしょうがない。外交官に本当にスパイまがいのことをさせてはいけない。しかし宇都宮氏がソルボンヌ大学に在籍していたことまでは確認できた。サルトルとボーヴォワールが出会った場所だ。

「”実存は本質に先立つ”。これが一番有名な言葉でしょう。夫、妻、父、母、男、女等々の肩書がその人物を規定するのではない。お父さんのことを名前で呼ぶのもそういう理由があるんでしょう。一人の人間と一人の人間が好き合って生活を送るために、結婚というシステム、夫、妻といった肩書は必要ない。それらのものは個人の精神の自由を束縛するから枷に過ぎない。だから”契約結婚”においては、お互い自由恋愛を認め合う(、、、、、、、、、)んです。信頼関係を保つために、嘘偽りなく共有しあうという契約です。長門さんはお父上の契約結婚の契約相手との間に産まれた子供でしょう。留学している間に、お互いに奔放な自由恋愛があったかは分かりませんが、結果的にお父上は帰国した後に、アカネ先輩が産まれたわけですね」

 長門さんの母、アカネ先輩の母と同時期に付き合いがあったかどうかは分からない。

 コール。アカネ先輩がストレート、僕がフラッシュ。チップが僕の陣地へと移動していく。

「問題はここからです。長門さんの母上と先輩のお父上の破局が、納得と同意の上に至ったのであれば森鴎外の舞姫みたいにはならない。いや、そもそも破局しているのでしょうか? 破局していないとしたらアカネ先輩のお母上も、覚悟を持った契約者ということになる」

 今度は僕がカードをシャッフルして配る。
 怪物の笑みは奥へと去っていき、今は小さな笑みとともにカードに触れている。
 ここまで、僕は踏み込んでいいのだろうか? アカネ先輩は何も遮らない。
 
「先輩のお父上とお母上、長門さんのお母上が納得と同意をしているなら、この時点でもまだ問題はない。いや、アカネ先輩は問題ないと思っていたと推測します。先輩の理性はまだ揺らいじゃいない。実存主義者のお父上から、フランスに異父姉がいることを知らされても写真を見せられても、先輩は揺らいじゃいなかったはずだ」

 高校生の娘にも隠し立てもせずに伝えるその父親の態度は凄まじい、と矮小な常識な僕は思ってしまう。いや、高校生の時点で知らされていたとは限らない。もっと前の可能性の方が大きい。

 それがアカネ先輩を理性の怪物へと変貌させていった、と考えるのは明らかに早計だ。逆に彼女がそういった資質を持っていたからこそ、秀作氏は後継者の彼女に隠すことなく伝えたに違いない。

「しかし、あのアカネ先輩が長門さんを視認した時、猫沖氏に抱えられた彼女を見た時すなわち、犯人が長門さんであることが分かった瞬間、あなたは揺らいだ(、、、、)。フランスにいるはずの異母姉が犯人だったからだけじゃない。それだけならアカネ先輩は揺らがない」

 あの時、彼女の中の怪物とそれ以外の何かがぶつかった。

「長門さんは宇都宮商店からモノを盗むという行為の意味を分かっていた。動機はとうくんへのプレゼントだろうけど、自分の父と異父妹の店からものを盗み、犯人が自分だと発覚することが、何を意味することになるのかを認識した上で、盗みを行ったんです」

 僕はここで長門さんのキャラクターの想像を話す。

「長門さん自身も自らの母親から、先輩と同じように当初は鉄人の教育を受けていたことは予想できます。しかし、それは幸せなことなのか? アカネ先輩にはその教育を受け入れる才能があったが、異母姉にはそれがなかったら? 逆に長門さんは被害者です。そのなかで自らの出生を告白し実父と再会するのは、どんなに長門さん自身と母親が傷つくことでしょうか。長門さんは母娘で13歳で受洗しています。生まれてすぐじゃない。サルトルの実存主義はキリスト教と結びつくのは難しい。ということは13歳時点では長門さんは折れて(、、、)いたんじゃないでしょうか。アカネ先輩はここで揺らいだんです。お父上の教育方針に対してアカネ先輩は客観的な視線をお持ちのはずです。良いところは取り入れ、悪いところは流して……のような感じでしょうか」

「……」

「だからこそ、その被害者になった長門さんを犯人として引きずり出すことに躊躇した、違いますか。これがあながたの揺らぎです。先輩は身内に異様に優しから」

 僕の語り口とカードさばきは淡々として、感情は混じらない。そう努力している。
 アカネ先輩は黙々として語らない。それこそが肯定の証であり、むしろ口を開いて僕の話の腰を折ることすらためらっているようだった。

「アカネ先輩と長門さんの一瞬の邂逅です。彼女の存在を視認した瞬間に、アカネ先輩は全てを理解してしまった。犯人は長門さんであること、婚約者の猫沖氏をスケープゴートにしようとしていること、もし真実が発覚した時に何が起きるか、ということ。一瞬で(、、、)です。恐ろしいですよ、やはりアカネ先輩は只者じゃない」

 しかし、長門さんも只者じゃない。僕はさっきそう言った。

「長門さんは、アカネ先輩が一瞬で理解することも分かっていた」

 これは怪物同士の食い合いだ。

「その結果、アカネ先輩は、その場で長門さんを告発しなかった。猫沖氏の幸せな婚約は崩れ去り、異母姉が晒されるというリスクを恐れて一歩踏みとどまってしまった」

 13歳で受洗したという情報は、父親によって隠さずアカネ先輩に伝えられたことだろう。
 自らを犠牲にした勝負は一瞬で仕掛けられ、一瞬で決着がついた。あの瞬間アカネ先輩の理性の怪物は喉元を食いつかれ、沈黙した。

「長門さんが悪意のある方なら、契約結婚云々をもっと下世話なゴシップ話に変換して、世間や学校、お父上の会社に噂を流すことも考えていたでしょう」

 恐らくこのリスクもアカネ先輩は、あの一瞬で分かっていた。
 で、あるならば、彼女がリスクを理解した一瞬を長門さんは見逃さなかっただろう。

「だから、アカネ先輩は脅されていたとも言えるし、長門さんを庇っていたとも言える。それすらを見越した、長門さんはやはり只者じゃあないですね」

 眼は口程にものを言う、というのは陳腐な表現だ。
 しかし両者の間で共有ができているならば、それは恐ろしいほど雄弁になる。
 
 かつて同じことをやり遂げた2人を僕は知っている。
 あの2人の雄弁な沈黙が、天国の存在と復活を示してみせた。鞭で肉を抉られ杭で身体を貫かれ、裏切られ嘲笑されながら死んだとしても、神を信じたまま死にきる(、、、、)。その生き様を見せつけることで救済があると示し、見事3日後に復活した。復活したという記録を残すことに成功した。
 
「僕は恐ろしいです。人間(、、)がこんなことをできるなんて」

 ()は人間の域を脱し、文字通り神の領域へと達した。
 彼女(、、)の方は聖人として神に等しい信仰を受けるに至った。

「……恐ろしいのはこっちだ。頭ン中覗かれたみたいだ」

 僕も先輩も磨り減った。満身創痍だ。
 
「間違ってましたか?」
「いや、ほとんど合っている。十分に及第点だ」

 猫沖氏にコンタクトをとった時に、起きた事実については答え合わせをすることができた。確かに実行犯は長門氏だった。後はアカネ先輩の行動の転向が起きたタイミングが、例の瞬間であるならば、と推論を重ねただけだ。
 次は、アカネ先輩と長門さんがお父さん絡みの知り合いであることは確認できたので、予め考えていたアカネ先輩ならこうするだろう、こう考えるだろう、という材料を料理した。長門さんの人格は伝聞しかないので不安な賭けだった。

 ……少女マリアが何故、僕とイエスが似ていると言ったのか。
 彼の救世主としての属性を差し引いていって最後に残るもの。
 仮に名付けるなら”同志”だろうか。沈黙の一瞬のうちに、神の奇跡を証明するための論理を理解した両者は間違いなく同志だ。だからアカネ部長と長門さんの沈黙の一瞬の邂逅を理解できた僕は、もしゴルゴダの丘の十字架の上にいたならば僕も”同志”となり得る(、、、、)ことができただろう。そういう意味だとしたら彼女もやはり怪物だ。

「……ふっ」

 アカネ先輩も表情を緩ませる。よくここまで成長したな、と言っているのだ。
 だが、安堵してばかりではいられない。

「本当に合格できるかどうかは、まだこれからだからな。油断すんな」
「……うへぇ」

 手の油分を拭いた後に、トランプをシャッフルし直す。

 僕が犯人であるという虚構を、先程導き出した推論とすり替えなければいけない。それを認めさせなければいけない。
 これから、僕はこの地獄のポーカー勝負を勝利しなければならない。
 

「応援しているよ」
「ありがとうございます」
「ここまで辿り着いたお前に無礼かもしれないが、ここで引き下がってもいいんだぞ」
「いえ、大丈夫です。アカネ先輩の処女はまたの機会にいただきます」

 ことの次第がアカネ先輩の父上が知ることになったら、あの瞬間のアカネ先輩の逡巡は全くの無駄になる。長門さんはお父さんと再会することになる。だから家人にバレた時の、アカネ先輩の激しい怒りは恐らく自分自身へと向けられたものだ。きっとお父上は、盗みを働いた長門さんを迷いなく理性的に処断するだろう。そこに何かを公表されるとかされないだとかの恐れは一切ない。自らの責任として全て受け入れるだろう。
  
 人間はあなたみたいに強い人ばかりじゃないと思うんですがね。アカネ先輩だって迷うことはあるんだから。とうくんっていう美少年も悲しむことになるんですよ。
 会ったこともない、アカネ先輩のお父さんに語りかけてみる。

”本当に黙することのできる者だけが、本当に語ることができ、本当に黙することのできる者だけが、本当に行動することができる”

 先立つ実存は無限の青天井。自由という名の牢獄。その方向性にロザリオなり神なりがいても許される世界であると思う。
 
 
 カーテンの向こうから光が漏れる。
 月光が雪に反射しているのか。それとも朝日がもう昇ってきたのか。

 目の奥の痛みをこらえつつ、僕はカードを切る。
 
 さあ、僕はここであなたを超えなければいけないんだ。
 聖母マリアに愛されたペテン師(同志)として。


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