プロローグ

文字数 1,124文字

 僕には銭湯に通う習慣がある。夏であれ冬であれ眼を閉じて水風呂にぷかりと浮かんでいる瞬間が好きだ。雑念が洗い流され心が落ち着いていくのだ。

『女の子がいきなり現れることなんてよくあること(、、、、、)だよ。古今東西、そういった体験談は枚挙に暇がない。普通の高校生である君の眼の前に全裸(、、)の聖母マリアが顕現されたとしても、それは何の不思議もないのだ』

 その日も、最後の客らしき大人びた顔の少年が出口から足早に去っていく。男湯にはいつもどおり僕一人だけになった。

『どう見ても年下だった? まあ君より下とすると13歳か14歳といったところか。なに、これも問題ない。カトリックの教義に『無原罪の御宿り』というものがある。簡単に言ってしまうと、神の子イエス・キリストを孕んだ瞬間から原罪から開放されたという意味だな。つまりマリアという女性は老いと死から開放されたのだ』

 身体を洗い、暖かい湯が張った浴槽に浸かる。身体の芯まで温め、いざ水風呂へと向かう。

『当時、10代半ばというのは結婚、出産する年齢としては平均的だ。であるならば、君より数歳下の聖母マリアが、同じ水風呂に降臨なすったとてても、何も問題はないのではないかね?』

 ちゃぷん。足の指先が冷水により震えるものの、眼鏡を外し、えいと体全体を沈めると火照った身体が気持ちよく冷まされていく。

『絵画で見るイメージと違う? そんなものだよ。実在した聖母マリアの写真なんて残っているわけないのだからね。芸術家それぞれが持つイメージが絵画として彫刻として表現されたに過ぎないのさ。金髪碧眼の姿もそれのひとつだ。まあ、芸術家も君のように顕現した聖母マリアを見た可能性はゼロではないけどね』

 天井を見つめ、身体の力を抜いていく。弛緩した僕の肉体はゆっくりと風呂桶に浮かんでいく。頭の血管が冷やされ、リラックスしていく僕はまぶたを閉じる。

『そもそも芸術家であれ、君であれ、それが本当に聖母マリア本人だったのか?と確かめる術は持っちゃいないんだ。芸術家がその女性を聖母マリアだと思うならば、信じるならばその女性は聖母マリアなのだ。それはヴァチカンの公認と同じく、いやそれ以上に意味のあることだ』

 ぴちゃり、と額に水滴がひとつ落ちた気がした。
 眼を開くと、一人の少女がそこにいた――――僕はなぜ、彼女のことを聖母マリアだと信じたのだろう。
 そうだ、彼女は自らを”聖母マリア”だと名乗った。
 そして、冷たい水のように落ち着いた、端正な美をたたえた聖処女は僕の頭を抱えてこう言った。


「あなたのなかに眠るもの、それは全てを否定されても、荒々しく気高く、なお立ち上がる」
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