文字数 4,285文字


 
 マリアが出現した直後。
 
 僕がこの前の日曜日に、買い物をするために外出しようとした時のことだ。玄関を出る時に横にはマリアもいて、彼女の日用品購入が主な目的だった。

「人のために安息日はあるけど、聖母マリアのために僕の安息日はあるんだなあ」

 と、僕がくだらない冗談を吐いた時に、この金髪グラサン神父が通りかかった。
 スーツケースやらの旅グッズをガバッと放り出し、

「今、何と言いました? 聖母? マリア?」

 と言いながらこちらにやって来たのだ。そして僕が所在なさげにマリアの方に視線を流した。それがいけなかったのかもしれない。
 マリアを一瞥するなり、再びガバッと持っている手荷物を放り出し、サングラスを外し彼女の前に跪いたのである。僕がおろおろしている間に、彼は外国語でぶつぶつと祈り始めた。
 僕がとりあえず買い物に行かねばならぬ、この怪しげな男からマリアを引き離さねばならぬ、と思い彼女を連れて逃げるようにその場を立ち去った。
 その後、ビニール袋を両手に帰宅してみると、この安アパートでウィークリーマンション契約を済ませたというこの金髪グラサン男が、笑顔で玄関に出迎えに来ていた。

「クリスチャンとして、この奇跡の相伴に預からないわけにはいかんね」

 今は、炬燵の上に、持ってきた個包装の煎餅を積み重ねている。
 態度だけはいっぱしの客である。マリアのために、と言ってクマのぬいぐるみを買ってきて勝手に炬燵に寝かせているのも彼だ。

 神父であるという彼が、目の前の少女をマリアだと認めた以上、僕はそれを否定する機会も気概も理屈(、、)も失ってしまったのである。そして、そのまま今に至る。
 
 僕も炬燵に足を突っ込み、お土産の煎餅をばりぼり食べ始める。なかなか美味い醤油味だ。彼のお菓子やらお土産に釣られて、イタリアの話や聖母マリアの話を交わしているうちに、数日程で自室にあげるほどの仲になっていた。
 向こうはどう思っているのかは分からないが「お前は変なヤツに好かれるからなあ。あたし自身も含めて」とアカネ先輩が言っていたのを思い出す。

「二人して、僕を騙そうとしてるんじゃなよな?」
「騙すメリットがないし、騙すならもっと現実的な方法を考えるよ」

 ぴしゃり、と言われてしまった。

「ところでさあ」

 マリアがようやく上半身を炬燵から出現させた。四角形の炬燵の、僕の対面にマリアがいる。左横がグラサン神父である。右横にはクマのぬいぐるみがいる。

「今日、X氏って人と会ったんでしょ。どうだった?」

 エセ告解室案を捻出したのはマリアであるが、事情は金髪グラサンも知っていた。彼の方は話半分に聞いていたようであるが。
 
 僕は簡単にあらましを説明する。一度、先輩にメールで報告していたから、頭の中で整理する必要もなくささっと説明し終わった。

「変な話だねえ」
「何から何まで変な話だよ」
「やっぱり、猫沖X氏の眼の前で、先輩さんのロザリオが消えたってことになるけどさ、やっぱおかしい(、、、、)
「モノがそう簡単に消える筈ないもんなあ」

 マリアは炬燵に手先もつっこんで、顎を机の上に置く。

「消えてないとしたら?」
「え?」
「どういうことですかね……マリア殿」
「猫沖X次郎氏がさ、ロザリオを壊しちゃったとしたら? 実は彼自身が盗んでいたとしたら?」

 眼は眠りかけの猫のように薄くなっているが、口調は滑らかである。
 確かに、彼の目の前で消えてなくなった、という事自体が一番非科学的で疑わしい。

「まず”消えて無くなる”ってことが一番妖しいじゃない。だから、本当は犬沖氏が、壊しちゃって持って帰った、あるいは何かの事情で盗んだとしたらどうだろう―――って考えただけ。で、そうすると―――これは窃盗。だから(、、、)おかしい」
「―――まあ、そうだよな」
「当たり前だね」
「うん、窃盗の犯人が猫Xさんであるならば、自分からこんな相談を持ちかけてくるわけがない」

 ばりぼりと煎餅をかじる音がする。
 いつの間にかマリアが煎餅に手を出している。
 
「どうすんの?」

 煎餅を頬張りながら言うマリアも、いつの間にか緑茶を湯呑みに注いでいる金髪グラサンも、態度は他人事である。実際、他人事なのであるが。

「どうするって言ってもなあ。元々はこの相談の解決が、先輩から指示された事項だ」
「じゃ、ロザリオを見つけるってこと?」
「そうなる……のかなあ」

 僕の気分としては4次元空間に飛ばされた煎餅1枚を探してこい、と言われているようなものだ。
 まあ、今回の場合はロザリオである。煎餅1枚より小さい。



「そういや、神父だからロザリオって持ってるんだよね?」

 僕は左横のいるグラサン神父に話しかけた。

「持ってるよ。習慣になってるからね」

 胸ポケットから小さい皮袋を取り出し、その中からじゃらじゃらとした紐状のものが出てくる。

「いいだろう。この革袋はカンガルーの陰嚢(、、)なんだ」
「どういいのかが分からない」
「インノウってなーに」

 僕は「カンガルー 陰嚢」と携帯電話の検索エンジンで画像検索を行い、その画面をマリアに黙って見せる。

「ひゃー それのことか」

 と言って炬燵に深く潜り込んだ。

「下半身がひゃーとするね」

 聖母マリアの口から「下半身」と聞いて、何かしらを思い浮かべるのは僕が下衆だからであろう。

「触っていい?」

 僕はグラサン神父に聞く。

「俺の下半身に触りたいのかい?」
「おっさん、そういう冗談は、彼女がいないところで頼むよ」
「?」

 僕は禁止はされていないと判断し、つんつんとロザリオを指先でつついてみる。

「持ってみてもいいよ」

 木でできている角の丸い小さな立方体が、金属のチェーンで結合され輪になっている。その一部分は薄い金属板で結合している。金属板からももう1本同じようにチェーンが伸びており、その先には銀色の十字架が付属している。   
 僕の手から垂れた十字架部分を、マリアがつつく。

「香木のビーズがお洒落だろう」
「そういうもんなの?」
「個人の趣味さ」
「あ、そう言えば」

 煎餅のカスが付かないよう、僕はカンガルー袋の上にロザリオを置いた。
 十字架部分やチェーンの金属が、煎餅の塩分で錆びてはよくない、と思ったのだ。

「ロザリオって一周した輪から、さらに1本伸びて十字架が先っぽについているよな。十字架がついたネックレスぐらいに思ってた」
「……うむ、神父である俺と数日の付き合いがありながら、無学な君に教えてあげよう」
 
 グラサン神父は十字架部分を持ち上げる。
 
「ロザリオの起源は詳しいことは分かっていないが、日本には16世紀にイエズス会士によって持ち込まれたが……元々は重要なのは先にどんなものが付いているか、じゃないんだ。これ、木のサイコロ部分だ。これを祈りの際にカウンターとして使う。つまり何回祈りの言葉を唱えたか―――をこうやって手繰りながらカウントするんだ」

 慣れた仕草で、親指と人差し指を使いロザリオを手繰っていく。

「仏教徒が使う数珠も同様の使い方をする。イスラム教徒も同様の目的の輪を持っているね。隠れキリシタンたちはロザリオのことを”コンタツ”と呼んでいた。ポルトガル語で”数える”という意味だね。つまりそのまんまだ。ロザリオの起源の説のひとつである”コンボスキニオン”。4世紀にエジプトの修道士が天使から編み方(、、、)を教わったという。この例においても先っぽに何がついているかは関係ないことが分かる。これはギリシャ語なんだが、意味は”縄”だ。
 まあ、この数珠状の紐(ロザリオ)を使うのは主にカトリックなんだがね。日本にキリスト教をもたらしたイエズス会もカトリック修道会の一派だね」

 朗々と説明する金髪神父に僕は、無意識に頷いていた。
 マリアは眼を閉じている。寝てはいないはずだ。

「おっさん、さすがだね」
「普通、日本人が”ロザリオ”と聞くと、思い浮かべるのは”十字架のついたネックレス”なんだろうな。現状、それで通じるなら間違いではないのかもしれない。ロザリオという種類のアクセサリーという意味で、ね。」

 わざとらしく鼻をフンーと鳴らしているが気に入らないが、この知識は暗中模索の現状ではありがたい。

「後、センターの金属版には聖人が描かれている場合が多いね。ここにおわすマリア殿もよく描かれる。描かれていないとしてもロザリオの聖母信仰はセットだと考えていいかもしれないね。絵画の題材としても有名だ。カラヴァッジョとか」

 ふとメールが着ているのに気付く。メールは2通。いずれもこちらからの依頼に対する返信だ。
 ひとつはアカネ先輩からのメール。例のロザリオの画像が添付されている。全体の写真、十字架だけアップされた写真、アップした十字架の裏側の写真、金属板のアップの写真の4枚だった。猫沖氏に関する追加情報はない。
 もうひとつは、放送部の3年生の先輩からの猫沖氏に関する情報。アカネ先輩から押し付けられたような形とはいえ、僕の仕事だ。口をぽかんと開けてアカネ先輩に甘えるわけにはいかない。
「猫沖氏の情報を集めていることを猫沖氏本人に気取られないようにお願いします」と、僕はその場で返信した。

 盗品疑惑のロザリオ画像を拡大して見てみる。ロザリオの裏面には何やら文字が彫り込まれている。中央の金属板にはやはり聖母マリアがいた。

「本当にマリアがいるんだな」

 そしてこの炬燵にいる少女マリアと面影が似ている。

「かなり幼い顔の聖母のメダイだね。珍しい」

 グラサンが感想を漏らした。

「ふえ?」

 起きてはいたようだ。

「寝てた?」
「もうそろそろ寝るかも」

 むくりとマリアが起き上がる。炬燵で身体が温まり、煎餅でお腹を満たしたから眠くなったのだ。そして、このまま向かいの倉庫部屋に戻る気らしい。

「お風呂は夕方入ったし、もう寝る」
「早いな。歯は磨けよ」

 炬燵から這い出る勇気を奮い立たせ、彼女は僕の部屋を出ていった。

「……ひとっ風呂行くかね、少年」
「炬燵から出る勇気をおくれ」

 我々にも大いなる勇気が必要であった。何せ、これから銭湯へ向かって寒空の中を歩き出さなければならない。
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