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文字数 2,566文字
もうもうと湯気が立ち込めている。
僕が風呂場でも眼鏡を外さないように、彼もサングラスを外さないようだ。
単純に視力が絶望的であるのが僕の理由だが、この神父がサングラスを外さない理由はちょっと想像ができない。
「今日も水風呂に阿呆みたいに浮かぶのかね。そのうち心臓麻痺でぽっくりいってしまうぞ」
「習慣だから大丈夫じゃないの。おっさんこそ試してみたら。イエス・キリストが現れるかもしれない」
あなたが落としたのは金のキリストですか、銀のキリストですか。
「御出現の奇跡がそんなにパカパカ起きてたまるもんかね」
白いタイルの大湯船に浸かる二人。
そして、この男湯にある湯船のうち一番小さい水風呂は、僕とマリアの邂逅の場所でもある。
「しかし、クリスチャンの大将よ。本当にイエス・キリストが出現したら、現代日本で親子の対面ということになるよ」
「そうだね」
「マリアがいないから、ちょっと聞いてみたいことがあるんだけどさ」
「下半身の話題ならNGだ」
僕は、ていと頭に乗せた濡れタオルを金髪頭に向けて投げつけたのだが、見事にキャッチされてしまった。
「もっとまともな話題だよ。非クリスチャンが、神父様に真面目に聞いているんだから真面目に答えてくれよ」
「google先生に聞きたまえ。……というのは冗談だが、聞くだけ聞いてあげよう」
「ぶっちゃけ、あの炬燵で猫のようになっているマリアが、あのイエス・キリストの母親であるというのが分からん。納得できん」
「……」
「聖母マリアが顕現するって話を疑ってるわけじゃないんだ。ネットで調べたけど、本当に佃煮にするほど大量に目撃例があるんだな。そういう奇跡は、カトリック業界ではあり得る話なんだろう。だから、普通の高校生である僕が今更声高に否定するつもりはない」
「普通の高校生ねえ」
「なんだよ、意地悪い眼で見ちゃって」
サングラスをかけた彼に対しての冗談はそのまま受け流された。
僕は話を続ける。
「仮に聖母マリアが僕の前に現れたとして、だ。気配もなく男湯にいきなり現れたのも、できないことじゃないだろうが、超常現象として……まあ、起こり得てしまったと仮定する。だけどさ―――」
グラサンを曇らせた彼は返事をしない。
言葉を挟まないということは聞いているのだろう。
彼女が僕の前に現れた時の話は、既に事細かにカトリック司祭である彼に話している。
それを聞いた上でも、彼はその少女を聖母マリアだと扱っていた。
「奇跡として出現したあの女の子は、本当に聖母マリアなのか? ”無原罪の御宿り”だっけ? 当時の結婚年齢だっけ? そういう理由で14歳前後の女子であるってことも、まあ、説明できる理由を用意することはできるとして。でもさ、聖人なんだろう? 聖書の登場人物で世界宗教キリスト教の教祖イエス・キリストの母親なんだろう? あんな炬燵に潜り込んでクマさん抱いてお菓子をばりばりやってる女の子でいいの? オーラっつーのかな、そういうもんが感じられん」
グラサン神父は、僕が投げつけたタオルを自分の頭の上に乗せた。
「君にはほとほと呆れ返る」
冗談ともとれない抑揚のない口調だ。
しょうがないじゃないか。僕の親族にもクリスチャンはいない。海外生活をしていた中学までの間にそういった知識も手に入れられてない。
「が、しかし、君の度胸には恐れ入るものがある。先輩さんとやらが、君に惚れ込むのもそこらへんかもしれないね」
「何を言いたいのか分からないぞ」
マリアの話なのに、何故僕のキャラクターの話になるのだろう。
「……いやあ、君、気持ち悪いよ」
ざばり、と彼は立ち上がり僕の方へ向く。
見下ろすサングラス奥の視線がちらりと見える。
この男―――こんなに目つきが鋭かったのか。
「君の度胸、理屈っぽさ、頭の良さが実に気持ち悪い」
「何を―――」
「自称”聖母マリア”だぞ。妖しいに決っているじゃないか。普通の無信心な男子高校生ならこう考える。『この女は頭がおかしいぞ』と。好意的に考えても現役で羅患している中二病患者だよ。でも、そんなことはない、可能性としてはあり得る、と
「……!」
「何も考えずに”非科学的”の一言で済ますはずだ。そう、何も考えずに。何も考えずに決断するというのは非科学的過ぎる態度だろう? 地球平面説と地球球体説と構造は逆だが同じ仕組みだね。教会で教えるか、理科の授業で習うかの違いだけだ。
そして、人間は世界を不安定なままでは認識できない。得体の知れない状態しておくとことができない。常識に基づいた善悪だとか色眼鏡をかけないと世界を認識できないんだ。神が七日かかって創った世界か、マントルと岩と海水でできた惑星か、『どっちの可能性もある』なんて状態のまま日常を過ごすことはできないんだ。自分が分裂してしまう。
実に
「何て物言いだ。あんたは……本当はあの子を聖母マリアだと思っていないのか」
僕は絞り出すように言った。
射抜くような視線に僕は身体を動かせない。
「いやいや、俺は今更ハシゴを外したりしないよ。敬虔なキリスト教世界側の人間だからね、信じている。聖母の出現の奇跡にあやかりたいのは間違いなく本心だ。そして俺は
「……」
ふと、サングラスの奥の目つきが緩む。
「すまん、脅かしすぎたな、水風呂に入る前に震えているんじゃないのか」
口元にいつもの胡散臭い笑みを浮かべた。
僕にタオルを放った後、彼は鼻歌を歌いながらシャワーを浴び始めた。
「頼むよ、おっさん……」
僕は水風呂に入っても落ち着くことはできなかった。