17
文字数 3,561文字
当日までにどれだけ証拠を揃えられるか。
いや、物的証拠はほぼないから、僕がすべきは、いかに先輩を説得するだけの論理を組み立てられるか、という点に尽きる。
相手は先輩だ。生半可な屁理屈では勝負にならない。
長門さんはとうくんの為に盗みを行い、猫沖氏は婚約者の長門さんを庇った。
口にすればシンプルな話だ。
しかし一個一個の事象の背景にある、それぞれの心の動きは重く複雑だ。
心の動きは動機という言葉に置き換えることができるだろう。
動機というものは突然発生するものではない。それぞれの人生経験を経たその人間が、何かに直面した時に生まれるものだ。同じことに直面したとしても、人によって何を思うかは異なる。
シンプルな行動の裏になる、登場人物の心の動きを追うべきだ。
猫沖氏の相談が始まって、今に至るまで全てのことを思い出せ……
一番怪しいのはあの一瞬 だ。あそこで何かが起きたはずなのだ。
携帯電話で猫沖氏の相談メールやロザリオの画像を見返す。
うーん。
向かいの炬燵を見ると、まるで凪のような平静な顔をしたマリアがみかんを食べている。
僕がイエス・キリストに似ている、とマリアは言ったそうだ。戯言過ぎる。
しかし彼女の意図は決して何となくではないはずだ。きっと理由がある。マリアの中にある彼女自身の心の動きがあったからの発言だ。
まさか僕が救いをもたらすメシアの要素があるとは思えない。
彼女に奇跡を起こさせるなら、キーは僕。金髪グラサンはそう言う。
ならば彼女が僕をどう見ているか、というのは重要な要素だ。
考えたくないのは”子供”の要素だ。自分の子供らしさが、幼い頃のイエスに似ているというだけの話。これは傷つく。
今、幼いのは目の前のマリアの方なのに…
ロザリオに彫られた聖母の顔は幼く、やはりマリアにそっくりだ。マリアがもう少し憂いを帯びた表情をして、それっぽい格好をすれば生き写しだ。
なぜ聖母の顔は憂いを帯びているのだろう?
ミケランジェロのピエタ像も実に哀しい顔をしている。マリア像に関わるオカルトは涙を流すのが定番だ。
もっと景気のいい……神の栄光の喜びを喧伝するような笑顔でもいいんじゃないのか?
いや、待て。
そんなわけないだろう。
彼女の息子は十字架に磔にされ刑死 したのだ。かつ、それを目撃しているのだ。笑顔のわけがない。
ふとテレビを見ると第九をやっている。もうそういう時期なのか。ドイツ語は分からないからBGMとして邪魔にはならなかった。ベートーヴェン 交響曲第9番。”歓喜の歌”と画面の右上に表示されている。
おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な歓喜の聖所に入る
誰が訳したかは知らないが歌詞がテロップで表示されている。
うん、タイトルどおり滅茶苦茶喜んでいる。
ここで言う喜びはキリスト教の宗教的喜悦なのだろうが、ピエタに始まる聖母の顔はいずれも憂い、哀しみの表情を持っている。
集中して考え事をすると、すぐに脱線しても気付かない癖があった。
中学時代、インプレッサのプラモを造っていたのだが、いつの間にか四式戦闘機疾風が完成していた。何で車を造ったつもりが飛行機になっているんだ?と混乱したが、父親がいつの間にかランナーと説明書をすり替えていたらしい。
さて、イエスの刑死がつまり召命と復活が、キリスト教の教義において中核を成しているならば、なぜ聖母マリアは喜ばない? ここからキリストの栄光が始まるんだぞ。
妊娠中から彼女は、イエス・キリストが神の子だと知っていたじゃないか。天国へと帰っただけで真の意味で死んだわけではないのだ。
「なあ、マリア。凄く聞きにくいことなんだが」
「なーに」
「何でピエタ像のマリアって、あんな哀しい顔しているの?」
いきなり何を訊くんだ、とマリアは渋い顔をして
「……造った人に聞けば?」
と答えた。
確かに。そのとおりだ。
ぐうの音もでないほどの正論だ。
……ならば実際に君はどういう表情をしていたんだい?
危うく口を開きかける。
落ち着け。だからお前は理性の怪物だと言われるんだ。気持ち悪い。
あなたの息子が刑死した時、あなたはどんな表情でしたか?
そんなことが訊けるか。
……しかし、金髪グラサンはこの少女のことを何と言ったっけ。
紀元前後の歴史的事実にも、教典である聖書にも矛盾しない完璧な存在。
……神の怪物。
一瞬のイメージが僕の頭の中に思い浮かぶ。
マリアが僕の質問に答えるのだ。
「うん、天国のお父さんの元へ帰るんだからね。笑顔で送り出したよ」
少女の眼は燦々として、口角が上がった笑顔だった。
これは……おぞましい怪物だ。
しかし一瞬考える。
いや、そうか?
これは怪物の笑顔か?
僕の身体の中の何かが、がちがちと震え鳴動する。
脳に清涼なものが流れ込み発熱する。
荒々しく、気高い何か。
マリアがイエス・キリストの磔刑に立ち会ったとする福音書がある。刑が行われ、イエス・キリストの身体が降ろされてそこに駆け寄る弟子とマリアたち。そういった絵画は見たことがある。マリアは磔刑中も近くにいた。近くにいなくともお互いに顔を見える状態だったろう。
その時、マリアはどういう顔だったか?
拷問の末、手足を杭で打ち付けられた息子の姿。弟子に裏切られた無残な死刑囚。
エリ、エリ、レマ、サバクタニ
苦渋のなか、絞り出されるようにイエスの口から漏れた言葉だ。
旧約聖書の詩篇の一説を唱えたという説もあるが、それはそれとしてなぜこの場で、こんなことを言った?
偏見や思い込みを捨てろ。
色眼鏡を外すんだ。
彼は神の子として死なねばならない。正確に言うならば、彼は自分を神の子として信じ込んで 死ななければならない。
当たり前だ。事実そうであるならば、そういう認識があったはずだし、そうでないのなら、ただの無駄死と分かって死ぬことになる。
恐らく、それは葛藤があったはずだ。葛藤があったということは迷いがあった。
自分は本当に神の子なのか? 無駄死にではないのか?
ゲッセマネ以前から十字架に付けられても続いてきた、その凄まじい葛藤があったからこそ漏れたのが、あの言葉だ。自分が神の子として死にきることができるか?という葛藤。
彼の顔は苦渋と悲壮と煩悶に満ちている。母を見つめる眼差しは重い。
本当に自分はあなたと神の子供なのか?
そこで聖母マリアならどういう顔をすべきか ?
天使ガブリエルによる受胎告知。
おめでとう、めぐまれた方。
神の子というアイデンティティは、実母の妊娠の真実から発する。
ならば………
彼女は笑顔でいなければならない 。
息子イエスを一片たりとも不安にさせてはならない。
−−−あなたは確かに神の子である。
それを全身全霊を持って示さなければならないのだ。
十字架の上の息子と眼があった一瞬 で彼女はそれを理解し実行した。
彼はそれを見て安堵したに違いない。ああ、良かった。自分は確かに神の子であった、と。
凄まじい理性と情動。
実はあの子は神との子ではないんです、人間と交わって産まれた子なんです、これが嘘であれ真実であれ、マリアがどこかで申告したら、イエスは刑死を免れたかもしれない。マリア自身は嘘つきと冒涜の罪で罰せられるかもしれないが、息子は助かる。
子供のためなら命をも捨てるのが母親という巷説の逆を行った。彼女もできるならその選択をしたかったはずだ。
しかし、彼女はそれをしなかった。何よりも息子イエスのために。
ぼろぼろになった血だるまの息子を笑顔で見つめる一人の女。
母性と理性が究極まで磨き上げられた聖母マリア。
列聖されるにふさわしい傑物……
眼があった一瞬で理解できる理性。
あの時 、同じことが起きていたのかもしれない。
僕は炬燵にばたんと倒れ、論理を組み立て始めた。
いや、物的証拠はほぼないから、僕がすべきは、いかに先輩を説得するだけの論理を組み立てられるか、という点に尽きる。
相手は先輩だ。生半可な屁理屈では勝負にならない。
長門さんはとうくんの為に盗みを行い、猫沖氏は婚約者の長門さんを庇った。
口にすればシンプルな話だ。
しかし一個一個の事象の背景にある、それぞれの心の動きは重く複雑だ。
心の動きは動機という言葉に置き換えることができるだろう。
動機というものは突然発生するものではない。それぞれの人生経験を経たその人間が、何かに直面した時に生まれるものだ。同じことに直面したとしても、人によって何を思うかは異なる。
シンプルな行動の裏になる、登場人物の心の動きを追うべきだ。
猫沖氏の相談が始まって、今に至るまで全てのことを思い出せ……
一番怪しいのは
携帯電話で猫沖氏の相談メールやロザリオの画像を見返す。
うーん。
向かいの炬燵を見ると、まるで凪のような平静な顔をしたマリアがみかんを食べている。
僕がイエス・キリストに似ている、とマリアは言ったそうだ。戯言過ぎる。
しかし彼女の意図は決して何となくではないはずだ。きっと理由がある。マリアの中にある彼女自身の心の動きがあったからの発言だ。
まさか僕が救いをもたらすメシアの要素があるとは思えない。
彼女に奇跡を起こさせるなら、キーは僕。金髪グラサンはそう言う。
ならば彼女が僕をどう見ているか、というのは重要な要素だ。
考えたくないのは”子供”の要素だ。自分の子供らしさが、幼い頃のイエスに似ているというだけの話。これは傷つく。
今、幼いのは目の前のマリアの方なのに…
ロザリオに彫られた聖母の顔は幼く、やはりマリアにそっくりだ。マリアがもう少し憂いを帯びた表情をして、それっぽい格好をすれば生き写しだ。
なぜ聖母の顔は憂いを帯びているのだろう?
ミケランジェロのピエタ像も実に哀しい顔をしている。マリア像に関わるオカルトは涙を流すのが定番だ。
もっと景気のいい……神の栄光の喜びを喧伝するような笑顔でもいいんじゃないのか?
いや、待て。
そんなわけないだろう。
彼女の息子は十字架に磔にされ
ふとテレビを見ると第九をやっている。もうそういう時期なのか。ドイツ語は分からないからBGMとして邪魔にはならなかった。ベートーヴェン 交響曲第9番。”歓喜の歌”と画面の右上に表示されている。
おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な歓喜の聖所に入る
誰が訳したかは知らないが歌詞がテロップで表示されている。
うん、タイトルどおり滅茶苦茶喜んでいる。
ここで言う喜びはキリスト教の宗教的喜悦なのだろうが、ピエタに始まる聖母の顔はいずれも憂い、哀しみの表情を持っている。
集中して考え事をすると、すぐに脱線しても気付かない癖があった。
中学時代、インプレッサのプラモを造っていたのだが、いつの間にか四式戦闘機疾風が完成していた。何で車を造ったつもりが飛行機になっているんだ?と混乱したが、父親がいつの間にかランナーと説明書をすり替えていたらしい。
さて、イエスの刑死がつまり召命と復活が、キリスト教の教義において中核を成しているならば、なぜ聖母マリアは喜ばない? ここからキリストの栄光が始まるんだぞ。
妊娠中から彼女は、イエス・キリストが神の子だと知っていたじゃないか。天国へと帰っただけで真の意味で死んだわけではないのだ。
「なあ、マリア。凄く聞きにくいことなんだが」
「なーに」
「何でピエタ像のマリアって、あんな哀しい顔しているの?」
いきなり何を訊くんだ、とマリアは渋い顔をして
「……造った人に聞けば?」
と答えた。
確かに。そのとおりだ。
ぐうの音もでないほどの正論だ。
……ならば実際に君はどういう表情をしていたんだい?
危うく口を開きかける。
落ち着け。だからお前は理性の怪物だと言われるんだ。気持ち悪い。
あなたの息子が刑死した時、あなたはどんな表情でしたか?
そんなことが訊けるか。
……しかし、金髪グラサンはこの少女のことを何と言ったっけ。
紀元前後の歴史的事実にも、教典である聖書にも矛盾しない完璧な存在。
……神の怪物。
一瞬のイメージが僕の頭の中に思い浮かぶ。
マリアが僕の質問に答えるのだ。
「うん、天国のお父さんの元へ帰るんだからね。笑顔で送り出したよ」
少女の眼は燦々として、口角が上がった笑顔だった。
これは……おぞましい怪物だ。
しかし一瞬考える。
いや、そうか?
これは怪物の笑顔か?
僕の身体の中の何かが、がちがちと震え鳴動する。
脳に清涼なものが流れ込み発熱する。
荒々しく、気高い何か。
マリアがイエス・キリストの磔刑に立ち会ったとする福音書がある。刑が行われ、イエス・キリストの身体が降ろされてそこに駆け寄る弟子とマリアたち。そういった絵画は見たことがある。マリアは磔刑中も近くにいた。近くにいなくともお互いに顔を見える状態だったろう。
その時、マリアはどういう顔だったか?
拷問の末、手足を杭で打ち付けられた息子の姿。弟子に裏切られた無残な死刑囚。
苦渋のなか、絞り出されるようにイエスの口から漏れた言葉だ。
旧約聖書の詩篇の一説を唱えたという説もあるが、それはそれとしてなぜこの場で、こんなことを言った?
偏見や思い込みを捨てろ。
色眼鏡を外すんだ。
彼は神の子として死なねばならない。正確に言うならば、彼は自分を神の子として
当たり前だ。事実そうであるならば、そういう認識があったはずだし、そうでないのなら、ただの無駄死と分かって死ぬことになる。
恐らく、それは葛藤があったはずだ。葛藤があったということは迷いがあった。
自分は本当に神の子なのか? 無駄死にではないのか?
ゲッセマネ以前から十字架に付けられても続いてきた、その凄まじい葛藤があったからこそ漏れたのが、あの言葉だ。自分が神の子として死にきることができるか?という葛藤。
彼の顔は苦渋と悲壮と煩悶に満ちている。母を見つめる眼差しは重い。
本当に自分はあなたと神の子供なのか?
そこで
天使ガブリエルによる受胎告知。
おめでとう、めぐまれた方。
神の子というアイデンティティは、実母の妊娠の真実から発する。
ならば………
彼女は笑顔で
息子イエスを一片たりとも不安にさせてはならない。
−−−あなたは確かに神の子である。
それを全身全霊を持って示さなければならないのだ。
十字架の上の息子と眼があった
彼はそれを見て安堵したに違いない。ああ、良かった。自分は確かに神の子であった、と。
凄まじい理性と情動。
実はあの子は神との子ではないんです、人間と交わって産まれた子なんです、これが嘘であれ真実であれ、マリアがどこかで申告したら、イエスは刑死を免れたかもしれない。マリア自身は嘘つきと冒涜の罪で罰せられるかもしれないが、息子は助かる。
子供のためなら命をも捨てるのが母親という巷説の逆を行った。彼女もできるならその選択をしたかったはずだ。
しかし、彼女はそれをしなかった。何よりも息子イエスのために。
ぼろぼろになった血だるまの息子を笑顔で見つめる一人の女。
母性と理性が究極まで磨き上げられた聖母マリア。
列聖されるにふさわしい傑物……
眼があった一瞬で理解できる理性。
僕は炬燵にばたんと倒れ、論理を組み立て始めた。