文字数 2,262文字



 その日の夜、銭湯へと向かったのは僕とマリアだけだった。
 金髪グラサンは、猫沖氏の尾行で身体を冷やしきったらしく既に入浴済だ。今頃安アパートで眠りについていることだろう。
 僕も金髪美女への尾行によって、疲労困憊は極度に達してたが、炬燵の魔力により、この時刻まで部屋でぐだりぐだりとしていた。マリアの方も惰眠を貪っていたようだ。

 僕が浴場に入ると先客がいる。曇り眼鏡越しでも分かる小柄な肉体。最終客は僕で、その直前までは彼が利用していることが多い。
 近所に住むという大人びた小学生で、ちょっとした雑談を交わすこともあった。苗字からとったらしき渾名で「とうくん」と僕は呼称していた。

「とうくん、こんばんは」
「あ、こんばんは」

 湯船のなかで会釈したのだろうが、眼鏡が曇ってよく見えない。
 身体を洗った後、同舟の徒となった僕は彼に話しかける。

「ねえ、とうくん。あのさあ……」

 金髪眼鏡が、グラサンをつけたまま入浴していたことを思い出した。僕に対する聖母マリアに関する問いは、棘のように小さな違和感を生み出していた。しかし、マリアと、加えてイタリアからの旅行者との中途半端な生活に、僕はある種の心地よさを感じていたし、棘のような違和感は日に日に小さくなっていくような気すらしていた。

「はい、なんでしょう」

 少年らしい高い返答の声は、銭湯のような響く空間でも聞こえやすい。
 
「……聖母マリアって知ってる?」
「はい、知ってますよ」

 さすが最近の小学生はよく勉強している。

「その聖母マリアが、とうくんの目の前に現れたらどうする?」
「えっ」

 唐突すぎたか。
 雑談として処理してもらいたかったのだが。

「いや、ごめん。雑談として、例えば、みたいな感じの軽い質問だよ」

 僕は慌てて取り繕う。
 今後、怪しい目でこの少年から見られるのは辛い。

「うーん、実際にそんな奇跡が起きたら、祈っちゃいますね」
「祈っちゃう?」
「あ、実はボクはクリスチャンなんですよ」

 だから聖母マリアについて淀みなく答えられたのか。
 身近なところにクリスチャンはいるもんだなあ、と僕は感心した。

「ひいおじちゃんがブラジルに渡って、向こうで日系人同士で結婚して……お母さんが
僕が産まれる前に出稼ぎで日本に来たんです。そういう関係で、知識はあるんですよ」

 へえ、と僕は相槌を打つ。
 なるほど、ブラジルにはカトリックが多い。

「サンパウロのアパレシーダっていう有名な場所があるんですが、そこにマリア様が現れたっていう伝説をお母さんから聞いたことがあります。ま、ボクはブラジルには一度も行ったことがないんですけどね。でっかい教会になっているらしいですよ、そこ」
「クリスチャンにとっちゃあ、聖母マリアが現れたっていうのは大事件なんだね」
「日々、マリア様に祈ってますからね。それが目の前に現れたら………やっぱり感動しちゃうんじゃないでしょうか。ボクも」

 金髪グラサンも、マリアの前にいきなり傅いていたから、そういうものなのかもしれない。

「祈るっていうのは何を祈るの?」
 
 僕は素朴な疑問を投げかけた。

「アヴェ・マリアの祈りとかお祈りの文句とかは色々あるんですが、やっぱ日々幸せに生きられるよう天国に行けるよう……みたいなお願いをしてます」

 日々、適当に享楽的に生きている自分が恥ずかしくなってきた。
 そして、多分とうくんは僕に分かりやすいような言葉を選んでいる。

「やっぱ、聖母マリアやイエス・キリストには、世界を幸せにする力があるのか」

 金髪グラサンにしたら無知無学と、嫌味の冗談を畳み掛けられそうな質問をしてしまう。とうくん相手に気も緩んでいたのかもしれない。
 
「まあ、そう信じているからこそのクリスチャンですからね」

 ……実に明快な回答をいただいた僕は、阿呆な質問をしてしまった自分に後悔した。
 こういう変な質問してくる無神経な人間は、今までに何度もいたのかもしれない。
 
 僕は言葉を選んで、会話を続けた。
 何でそれを信じられるのか―――という問いをしたいのだが、何と言えばいいのか分からない。

「正確に言うと、天国に行けることは既に(、、)確定しているらしい……ですね」

 僕が訊く前に、彼が口を開いた。よけいに何でそれを信じられるのかと訊いてみたい。
 
「どういうこと?」
「辛いことがあっても、天国に行けるなら頑張れるじゃないですか……多分」

 その理屈は分かるのだが…… 
 と、僕は質問をしようとするが、踏みとどまる。
 ……うん、止めておこう。
 恐らく、これは本人の内面へと直結する可能性がある。僕の視力と湯船のせいで見えないが、あまり笑顔で話したい内容ではないように思えた。

 これは雑談なのだ。

「なるほどねえ」

 僕は適当な相槌で済ます。
 とうくんは湯船から立ち上がる。

「じゃ、聖母マリアの御加護を」
「……かっこいいな」
「ちょっと言ってみたかったんです、風邪をひかないでくださいね」

 何と優しい少年か。
 今夜は心置きなく水風呂に浮かぶことができそうだ。



 水風呂に大の字になって浮かぶ。
 ああ、気持ちいい………思考が整理されていくようだ。

 ところが、

「まだかっ 遅い!」

 女風呂の方から聖母マリアの声が聞こえた。
 そそくさと、僕は脱衣場の方へ向かうしかなかった。
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