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文字数 3,545文字
「いやあ、良い少年だねえ」
ふと、湯船に腰掛けた男から声がかかる。
濡れてペタリとついた金髪。
「そこにいたのか」
「これがないと眩しくて眩しくて」
薄紫のサングラスをかける。元々、僕も眼鏡をしていないので、今ようやく彼がそこにいることを視認できたのだ。僕も眼鏡を下ろす。幼い頃はケニアのトゥルカナ族並の視力があったのに今やこのざまだ。
金髪グラサンはいつものいやらしい笑みを抑えて、本当に感心しているようだった。
「『それだけで幸せじゃないですか』だそうだ。今時、こんな真っ直ぐな少年がいるかね。年上の女性に恋い焦がれ、そして外国へ去らねばならぬ、足が不自由な薄幸の美少年だ」
「茶化さずに言えないのかね」
「茶化してなんかいないさ。ただ世の中ままならぬものだとは思わないかね」
「ままならぬ?」
「世の中の不幸というのはどこかしこにも転がっているということさ。大きい不幸、小さな不幸、数も種類も多すぎて、相対化も絶対化もできない」
ざぶりと彼は湯船に入る。
反対に何人かの客は湯船に出ていくようだった。
「その不幸を何とかするのが、宗教だろう」
僕は無愛想にそう言った。疲れていたのかもしれない。
しかし、専門家である彼の前でこうした語義が難しい言葉を使うのは危険だ。さらに大量の言葉の奔流でもってやり込められる。暇つぶしとしては問題ないが、僕の今の頭は、それを受け入れる容量がない。
しかし……
「事実、そのとおりだ」
彼はあっさりと認めた。
「教義でもって人間を不幸から救う。宗教はそれ以上でもそれ以下でもない。君はよく分かっているな」
「そうかね、ありがとう」
正直に喜ぶ気になれない。嫌味くさい彼が手放しで褒めるのは不気味だ。
「あの少年は
「……」
「長門某が、餞別として与える小さなロザリオこそが、今回彼を救う」
そのとおりだ。
それだけで救われるというなら安いものじゃないか……
「先輩さんから盗まれた、盗品のロザリオが彼を救う」
金髪グラサンの言い方は穏やかだ。そこに非難めいたものはない。
「アカネ先輩に、もちろんこのことを含めて報告する。彼女はモノそのものに大きな執着はないから……」
見逃してくれるだろう、と僕は予想している。
先輩は苛烈で過激だが、鬼ではない。僕が事件の解答を出すことが目的のはずだから。
「そこらへんは君と先輩さんにまるっとお任せなんだがね。問題は君がどう思っているかが、俺は気になる」
彼はこちらを向き、嫌な笑みを浮かべる。
この表情こそ悪魔だ。
この前、僕達と一緒にいるマリアは本当に聖母マリアか?と彼は揺さぶりをかけた。
それはここ男湯において行われ、僕は手玉にとられ”理性の怪物”と呼ばれた。
「また僕を理性の怪物とか呼んで、脅すんだろう。無礼な男だ」
「なに、言い得て妙な例えだったんじゃないかい。言い方が気に入らなかったなら謝るさ」
「その胡散臭いツラで謝られてもね……」
彼は頭に置いたタオルで、サングラスの曇りを拭いた。
鼻梁がすっと通り彫りが深い。年齢不詳と言えども身体は締り、無駄がない。
わざとくさい笑みも、きっと見る人が見れば魅力的なのだろう。
彼はサングラスをかけて、僕の方を向く。
「ロザリオの本来の持ち主は先輩さんだ。だから先輩さんが良いといえば、それが東肇少年の手に渡ることに問題はない、と君が判断したのは理屈が通る。しかし、その判断を君に委ねられたとしたらどうする?」
「どうするって……」
「先輩さんがロザリオ自体にそれなりのこだわりがあり、東少年はロザリオなしには救われない。あるいは
その仮定は無意味だ……
でも、僕は考えてしまう。元々、僕の予想も仮定に仮定を重ねたものだった。それが、とうくんの証言により、運良く答えが合っていたと確認できただけなのだから。
「ロザリオという物体が不幸を産み出している、と思わないかね?」
「……」
それは……考えたことはなかった。
「今回、東少年を救うのはキリスト教の父なる神ではない、とさっき俺は言ったね。しかし東少年がどう認識しているかは分からない。恋する長門某からロザリオを譲り受けることを父なる神の恵みによるものと考えているかもしれない。彼はそのロザリオを今後心の支えとしていくことだろう。だがね、これは
僕は金髪グラサンが次に何を話すのか、予想できる気がした。
このくらいの知識は僕も持っている。
「そう”偶像崇拝”だ。東少年が陥りつつあるのは、これだ。『神の姿を写し取ってはならない』。旧約聖書、新約聖書の基本法則だ。今、言ったように分かるね。偶像を作り出した瞬間に、意図するしないに関わらず、本来の教えとは違う何かが付加される。そして換骨奪胎される。それによって人は本来の教えを失い、振り回され不幸になる」
「だが……」
「なんだ?」
「それはキリスト教徒の……あんたととうくんの間だけで通じる理屈だろう。とうくんが教義に反する偶像崇拝に陥りつつあることを、僕が心配すべきだって言うのか? それは……さすがに責任外だ」
「そういう意味で言ったんじゃない。落ち着きたまえよ、
「……!」
何でその言葉を今使うんだ。
「東少年が
サングラスの奥にある彼の目つきは凶暴だ。
それは僕を捉えて離さない。
「十中八九、先輩さんはそういう方法をとらない、と君も確信しているんだろう。東少年を傷つけることになるからな。だから、君に問いたいんだ。長門某を、東少年にとっての女神のままにしておく、というのは
大人びたとはいえ、とうくんは小学生だ。
だから僕は、長門某の犯行は伏せるべきだと思っていた。
だが、その判断は正しいのか? アカネ先輩なら恐らく伏せたままにするだろう。そして、きっと僕が「伏せておきたい」と言うならばアカネ先輩はそのとおりにするだろう。うやむやのまま、終わらせるという決断をするだろう。アカネ先輩の目的も、猫沖氏の目的も、犯人の特定ではない。ここで、長門さんの犯行を葬ることは、果たしてとうくんのためになるのか?
とうくんだけではない。自分が庇っている以上、猫沖氏は許嫁の犯行を知っているだろうが、この動機は知らない可能性が高い。この隠し事を抱えたまま、結婚に及ぶことになる。
いずれにしても―――欺瞞だ。安い言い方をしても理性な判断に基づいた結果ではない。
なら僕は―――
「欺瞞のままに留めておくかね? 皆をペテンにかけたままにしておくかね?」
それは、
神様が望むことなんて……余計に僕は分からない。
真実を明らかにすることが幸せとは限らない。よく聞くセリフだ。
だが、全てをペテンにかけても、全てを幸せにしたいならば……
もはや理性の怪物すらも超えた、恐ろしい
僕は一瞬身震いした。