第112話 ジョハリの窓 ~秘密の窓~ Bパート
文字数 7,008文字
ただ程なくして雪野さんの交渉の時間になったのか、元気自体は無かったけれど落ち着いた雪野さんに若干の不安を残しつつ見送った優希君との二人路。さっきの事があるから少しだけ気まずかったりする。
でも私は倉本君と雪野さんの事について喋っている時に、そんな事を考えているなんて思いもしなかった。
それに考えてみれば男の人も女の人も、好きな相手が目の前で他の異性と仲良さげにしているのを見てしまうと、行動は違っても邪魔をしたくなると言うのはそう言うものかもしれない。
「愛美さんに“空木”って呼ばれたのは納得いかない」
私が逃避思考をしているとやっぱり優希君が不満を口にしてくれる。
「……
愛美
の僕への気持ちは雪野さんに負けるの?」「え? い、いや、それは絶対にないけれど……」
当然優希君への想いに対してやましい気持ちがあるからどもったわけじゃない。
「……じゃあ何で僕の名前い直したの?」
そう言って私の意思なんてお構いなく、今度は優希君から私の手を取ってそのまま久しぶりの恋人繋ぎをしてくれる。
「……えっと、もしかして優希君怒ってくれてる?」
「僕は愛美と付き合ってから名字で呼んだ事は無い」
怒られるのを喜ぶって言うのもなんか変な感じはするけど、私の質問には答えずに心の内を開けてくれる優希君の機嫌が明らかに悪い。
なのに私の心臓はドキドキしっぱなしになっている。
「ごめん。でもあの時私も言いようがないくらいに悔しかったし、どうしたら良いのか分からなくなるくらいには身動きが取れなくなっていたんだよ。それに心の中でも私自身、何かが弾けそうだった」
何の感情かは言葉には出来ないけれど、何かが私の中で爆ぜた感覚だけは今でも鮮明に覚えている。
その気持ちだけでも何とか優希君に分かって貰おうとしたのだけれど、分かってくれるどころかますます機嫌が悪くなっている気がする……けれど、恋人繋ぎをしている手は痛みを感じるくらいには深く絡ませてくれている。
「愛美からの呼称を耳にした時、すごく寂しかったしショックだった。僕が雪野さんにしてしまった事で自信とか信頼を失ったのは仕方がないけど、名字で呼ばれるのは本当に堪えるからこれっきりにして欲しい」
かと思いきや力なく項垂れる優希君。優希君が雪野さんとしたことに対して罪悪感を覚えている事は分かったけれど、私は当て付けたわけじゃない。
あの気持ちを言葉にするのはちょっと難しいけれど、優希君との勘違いで話がおかしくなるのは嫌だからと、何とか説明する事にする。
「違うよ。優希君に雪野さんとの事を当てつけたわけじゃない。うまく説明できないんだけれど雪野さんは優希君の事が好きで優希君に全力で飛び込みたいんだと思う。ただそれ以上に雪野さん自身も不安なんだとも思う。優希君の機嫌が悪くなりそうで嫌なんだけれど、私も倉本君もみんな同じ意見なんだろうけれど雪野さん自身やり方はマズくても、間違った事はしていない。なのに交代であるとか理不尽な事が自分の身に降りかかって来た時、常に冷静でいるなんて私なら無理だと思う。ましてや今日は単独で雪野さんが教頭先生と話をするんだからそのプレッシャーもすごいと思う」
あのまじめな雪野さんなら、以前倉本君が言っていた通り学校自体を辞めてしまいかねないと言うのも、今となっては頷けるし理解も出来てしまう。本当にそう言うところでは倉本君がちゃんと人の事を見ているって分かる。
「だったらさ。やっぱり駄目なの。そう言う雪野さんの気持ちを垣間見てしまったら、人の笑顔が好きな私としては雪野さんが元気になれるように勇気を持てるようにって動いてしまうの。その相手が優希君だって言うんなら私は――」
「――分かった。ありがとう、愛美さんの気持ちを教えてくれて。そして勝手に誤解してごめん」
私の声音が変わってしまったからか、私の言葉を止めるようにして再び頭の上に置いた手を動かしてくれる。
しばらくこう言うのはナシって言った上に、今日の優希君の手は雪野さんにたくさん触れたのだから嫌なはずなのに動けない、動きたくない。
それに雪野さんの事にしてもそうだ。雪野さんから好きな人にしてもらったらどういう気持ちになるのかを聞いて、涙を流しながら優希君への想いを口にしてくれたのを聞いて、そこに今日の教頭先生との話し合いを連想しただけで……。
そもそもこの考え方自体が大間違いかも知れない。独りよがりに近い考え方だから私の心の中だけで留めておこうと思ったのだけれど、優希君にはどう伝わったのかな。
「……さっきの雪野さんの質問に応える形になるんだけど――」
私との恋人繋ぎを解いた優希君が私の正面に立ち位置を変える。
「――僕は愛美さんのその優しさが好きだから。僕の気持ちが雪野さんに揺れるって言う事は無いし、今日みたいに僕や雪野さんに遠慮するような事は辞めて欲しい」
そして全部じゃ無かったとしても私の気持ちを少しでも理解しようとしてくれた事は伝わった。
人は分からない所があるから楽しい、全てが一回で伝わり切らないからもどかしい。だから相手の事を知ろうと思い続けられるし、興味を持ち続けることも出来る。
逆に私の方も相手に少しでも自分の事を知ってもらおうと、“秘密の窓”を開けようと自分の事を伝え続けられるのかもしれない。
「分かった。今日はごめんね。それからありがとう。私は優希君の事好き――?!」
「――愛美さん違う。僕
も
愛美さんの事が好きだよ」一番初めの告白の時を彷彿とさせるような、優希君の人差し指の動き。
「……私
は
優希君の事が大好きなんだからっ!」それでも私の方が好きって言う気持ちが強いって事を分かって貰おうと思って、敢えて同じ言葉で少しだけその先を変えて言葉にする。
「……僕もこんなに積極的な愛美さんを好きになって良かった」
それに合わせるような形で、優希君もまた私に向かってはにかみながら返してくれるけれど、
「ちょっと待って優希君。積極的ってどういう意味? まさかはしたないって意味じゃ無いよね?」
さっきまでは全くそんなニアンスも言葉も無かったはずなのに。
今日は優希君に可愛くない顔も見せてしまっているのだから、これ以上の下手な減点は避けたい。
見かけが関係ないと言っても、そこは私も女の子。好きな人からは可愛いって思われたいに決まってる。
「そう言うのはナシって愛美さん自分で言ってたのに、今日は愛美さんの方から僕に寄って来てくれたし、僕が触れようとしても逃げも避けもしなかったからつい嬉しくて」
そう言って再び私の手を握って、恋人繋ぎをするつもりだったのだろうけれど、よく言うよ。私の頭に置いてくれた手から逃れようとしたら、私の腰に手を回して、逃げられないようにしてくれたくせに。
「優希君がそんなイジワル言うんだったら、もう明日からは繋がない」
私はその手をひらりと躱す。
「ちょっと何で? 僕はちゃんと愛美さんに本心で全部話してるのに」
「好きな女の子にイジワルする優希君の事なんで知らない……優希君のエッチ」
「ちょっと愛美さん?!」
優希君と久々にする恋人らしいやり取り。
さっきまでのドキドキとは打って変わって、体全体に嬉しさがじんわりと広がって行く。
二人路の時間をもっと楽しみたかったのだけれど、お互い家の事もしないといけないからと久々に良い雰囲気を纏ったまま途中スーパーに寄って家に帰って来ると、
「……おかえり。ねーちゃん」
気まずそうに私を出迎える慶。
「はいはい。すぐにご飯の準備するから、買って来た総菜パンでも食べて少し待ってなよ」
私は一度部屋着に着替えるため一度自室へ戻る。
洗濯物を回しながらお風呂を沸かして、ゴハンの準備をしている間も慶は動かずに気まずげにリビングに座っている。
「出来たら呼ぶから好きな事してなって」
何か分からない分、慶の事が気になって仕方なかった私が追い払おうとしたら、慶がお弁当箱を――そう言えば今日はお母さんが朝いたんだっけ。
「……ねーちゃん、もう元気なのか?」
てっきりその空のお弁当箱を皮切りに、またお弁当を作って欲しいって言って来るのかと思っていたのだけれど、どうも気まずい雰囲気はその理由じゃ無かったみたいだ。
そう言えば姿は見せていなくても、いや……逆に週末に全く姿を見せていなかったから心配をかけたのかもしれない。
「もう大丈夫だって。金曜日に大喧嘩をして土日の間にちゃんと仲直りは出来たから元気だって」
そう言って慶にも笑顔を向けてやる。普段はホンっとに腹立つことも多いけれど、なんだかんだ言っても私の弟。
こういう一面を見てしまうと可愛いなって思ってしまうあたり私も大概だったりする。
「それなら良いけど、なんかあったら俺の事も頼れよな」
私の笑顔に対してモゴモゴと照れながら何かを口にする慶。
前にも言った通り、私たち四人全員が揃うのは基本的には週末しかないから、伝える時に相手にしっかりと気持ちを伝える癖は付いている方だと思う。
まあ、私も慶もまだまだ照れくさい気持ちがあるから、今みたいにモゴモゴになる事も多々あるけれど。
「はいはいありがとうね。今日は生姜焼きにするからもう少し待ってて」
そう。今の私みたいに。
「分かった。出来たら呼んでくれ。今日はねーちゃんと一緒に食う……おにぎり美味かった」
なのに驚いた事に、今日は慶の方から照れながらでも私に対して素直になっている気がする。
そうさせるほどにこの週末慶にも心配をかけたのだと遅ればせながら気づく。
「分かった。出来たら呼ぶから先にお風呂に入って来なよ」
だったらたまには慶の話をゆっくりと聞いてやっても良いのかもしれない。
私も慶もお風呂を済ませた夜ご飯中、本当に私と一緒にご飯が食べたかったのか、私の方の準備が終わるまで慶がおとなしくなっていた。
「俺は今週一杯って言っても、23日木曜日から連休だから水曜までだけど、ねーちゃんはいつまで?」
夕食中、慶が私の予定を聞いてくる。
もちろんテレビはあるけれど真っ暗なままだ。
「お姉ちゃんも同じ22日まで。ただその次の週から夏季講習が始まるから実質は学校があるのと変わらないね」
そして家族相手に隠すものでも無し、そのまま私の予定を口にすると
「夏休みにまで勉強すんのかよ」
勉強嫌いはそう簡単には治らないのか、勉強と言う言葉に露骨に顔をしかめる慶。
「もし慶に進学するつもりがあるんなら、三年になったら夏休みも勉強付けになると思うよ」
だから先に教えておいてやる。
「うへぇ……ってそうじゃなくて、じゃあねーちゃんの成績表と一緒になるんだよな」
何を考えているのか分からないけれど、ほっとしている慶には教えておいた方が良いのかもしれない。
「今回お姉ちゃんの成績表はまだ帰って来ないよ。八月の三日だって言ってたから今週は慶の分だけだね」
初めは何を考えているのか分からなかったけれど、私の話を聞いているうちに慶の目からハイライトって言うんだっけ……が消えて行くのを見て、ようやく何を考えているのかが分かる。
「そんな顔をしているけれど、期末試験では赤点なかったじゃない」
あのリビングに広げて置いてあった答案を見た限りでは赤点自体は無かったと思ったのだけれど、
「でも中間と小テストが……」
そう言えば中間の時も蒼ちゃん一色だったっけ。しかもあの時慶と喧嘩もしていたから正確な点数も何も知らないし、
「じゃあ久しぶりに親からの高説だね。今回は二人とも帰って来てくれるみたいな事言ってたよ」
言うと同時に食べ終わった私が食器を台所に運んだ時に、
「今日の洗い物は俺がするから、あのババァの話『ババァ?』……オカンの説教をどうにかしてくれ」
また都合の良い事を言い出す慶。
「まあ今回の期末。慶が頑張ったのは分かっているから、言うだけは言ってあげるけれどあんまりにもひどい成績なら、お姉ちゃんもどうしようもないからね」
まあ、それでも私の事を慶なりに心配してくれたんだし、洗い物もしてくれるって言うんなら、お母さんに口添えするくらいは良い気がする。
私は慶の言葉に甘える形で洗い物を任せて自室に戻って来た時、
「着信? 咲夜さんから?」
私はそのまま折り返す。
『ごめん。毎日電話して』
『別に良いって。私と咲夜さんは友達なんだから変な遠慮はいらないって』
固定電話ならまだしも、携帯なんだからそんな事気にしなくて良いのに。
『……明日……副会長に告白する事になった。それでその時に――』
『――良いよ。無理に言わなくて。それはもう咲夜さんの本心じゃない事も分かっているし、それにそれが咲夜さんの本心だったとしても、人の心は強制できないのだから。何よりもう優希君にはお願いしてあるから』
挨拶も無しで感じた電話口での重さは予想通りの内容だった。
でもさっきの雪野さんに対する優希君の対応と言い、私の事を思ってくれる優希君の気持ちと言い、私の友達の事。
大切にしてくれるに決まっている。
『愛美さんごめん。あたし、本当にこんな事になるなんて思ってなくて……今日実祝さんは一回で断ってたのに、何であたしには出来ないんだろう』
程なくして電話口で涙声に変わってしまう咲夜さん。
今日の事、今までの事、私には言えない蒼ちゃんの事、もう一言では言い表せないくらい色々な感情を持て余しているのはよく分かる。
それで蒼ちゃんがあの日の夜に公園で言ってくれたように、今日実祝さんが一言弾いたように、最後の一言は自分の口から、自分の言葉で言わないといけないのだ。
『それは咲夜さんがあのグループ、友達の事を心から信用していたからだよ』
だからって一言そうしろなんて私は、言わない。それが出来るのなら咲夜さんもこんなに苦しんではいないだろうし、世の中の被圧者だってこんなに辛い思いはしていないはずなのだ。
それに恋愛と同じで相手との信頼が深ければ深い程、相手の事を想っていれば想っているほど、そこに介在する情もまた厚くなるのだから、一言で気持ちを切り替えられる訳がないのだ。
『そうなのかな。あたしが心の中のどこかでこのままでも良いって気持ちがあるからじゃないのかな』
『それは無いよ。心の中のどこかでそう言う気持ちがあったなら、咲夜さんは今みたいに……ううん。ずっとこの事で悩んでないよ』
だって人間は何でもそうだけれど、楽な方へと流される生き物なんだから、真剣に懊悩していないとこんな事にはならないと思うのだ。
『じゃあ実祝さんは? 何ですぐ今日断れたの?』
『そりゃ実祝さんの場合は初めからあのグループに標的にされていたし、この期に及んで“姫……スカした姫”なんて言ってたんだからああなるよ。だから実祝さんがどうだからとか、考えなくても良いから。咲夜さんは咲夜さんだって』
そんなの一人ずつそこに至るまでの背景が違うんだから一緒くたに出来るわけがない。
『その実祝さんも喜んでたけど、朝の事――』
『――ごめん咲夜さん。昨日の電話では今日喋ってみるって言ったけれど、このタイミングであれは無いよ。私ももう二度と優希君と喧嘩するのは嫌だからね』
でも、その事と今朝の事は全く別の話なのだ。せっかく優希君と仲直りが出来たところにあれはちょっと無理だ。
『分かった。愛美さんが“頑固”なのは知ってるから、今日はこれ以上は言わないけど、週末の話をさっき実祝さんに電話した時、声を震わせていたって事だけは覚えておいて欲しい』
『……分かった。心の整理だけは付けてみるよ。それと初めの件だけれど、優希君にはある程度話してあるから、本当に気にしなくて良いから、咲夜さんにとっていい思い出になるような告白にしてね』
『……』
私の念押しに対して鼻を啜る音だけを残して通話を終える。
そのまま明日の事を優希君にメッセージで伝えようとしたら、
題名:愛美さんを怒らせると怖い
本文:愛美さんが怒ると口調が変わる事は分かった。それでもあれだけ雪野さんに
優しく出来るんだから僕は愛美さんを好きになって良かった。追伸……愛美
さんを怒らせないように僕も気を付けるよ。
今の私からの気持ちなんて知る由もない優希君からのメッセージ。
腹立つにも好きって打ってくれているのだから、腹立つことも出来ないこの気持ちを返信に乗せる事にする。
題名:明日
本文:私の友達。前に言ってた咲夜さんが優希君に告白するって。私を怒らせるの
が怖いんだったら私の友達を傷つけないように優しくかつ、素敵な思い出に
なるようにフッてあげてね。
私の無理難題に慌ててくれる優希君を想像しながら。
―――――――――――――――――次回予告―――――――――――――――――
『彼氏……私も好きだよ』
そして人は同じ失敗を繰り返す
「それで愛美さん……昨日のメッセージの事だけど……」
優希君も失敗して
「おい岡本! お前のせいで親にバレた責任、どうしてくれるんだよ」
追い詰められているのはどっちの方なのか
「月森と防は昼休みに職員室まで来てくれ。解散!」
113話 断ち切れない鎖6 ~揺れる鎖・立つ音~