§22 10月04日(火) 21時頃 久瀬薫の計略

文字数 3,224文字

 母は間違いなく母校の制服だったと証言した。見覚えのある顔だったような気もすると、そちらのほうは断言しなかった。母のおぼろげな記憶のほうまで信用すれば西尾奈々かと思われる。しかしそちらを信用しないとなればもう誰だか見当がつかない。わざわざ僕の家を覗きにやってくる酔狂な女子などほかに存在しない。仮にもし彼女だったとして、いったいなにをしにきたのか。衛はひとりで首を捻っていたところでいっこうに埒が明かないと観念し、友香里に電話をかけた。
「西尾さんで合ってると思うけど」
「やっぱりそうかな?」
「お部屋を増やしてるって話をどこかで聞いたんじゃない?」
「なるほど、それを見に来たわけか。案外ああ見えて西尾さんも暇なんだな」
「あの子、部活は?」
「知らないけど、運動部じゃないのは確かだよ。いつだったか忘れたけど、でんぐり返しもまともにできないとか、なんかスゴイこと言ってたからね」
「似たり寄ったりじゃないの」
「バカにしてもらっちゃ困るな。でんぐり返しの二つ三つくらい朝飯前さ」
「でんぐり返しってひとつふたつって数えるもの?」
 衛はベッドに寝ころんだまま、このところ一日一回は必ず眺めている図面を拡げ、マイク付きイヤホンで話を続けた。その図面によれば――庭に面していたテラスタイプの引き違い窓の、左側の三分の一が車椅子に座った状態で開閉できる高さの片上げ窓に替わり(すでにそこは終わっている)、右側の三分の一が引き戸になる。そこを出ると左手が洗面所で右手がトイレだ。洗面所は友香里のために三面鏡になる。トイレは普通の家の倍の広さはあるだろう。西側の壁の窓がそれに伴って左から右に移動する(こちらはまだ終わっていない)。洗面所とトイレの先の引き戸を開けると友香里の部屋だ。左手、衛の肩上げ窓の前に表との出入り口が小さく張り出しており、四畳半ほどの間取りは少しいびつな形をしている。車椅子ではこの部屋の出入り口は使えない。表から開けてすぐ部屋の中が見えることのないように、友香里のための小さな玄関は、壁からわざと斜めに迫り出して作られるからだ。
「でも基礎が終わったところを見てもなんだかわからないよね?」
「そうかもね。形もちょっと歪んでるしね」
「あのさ、友香里さんはほんとにこんな部屋でいいの?」
「ベッドとクローゼットがあれば充分よ。小さなサイドラックも置けそうだし」
「隣りの部屋に友香里さんが寝てるなんて不思議な気分だろうなあ」
「これまでベッドのすぐ下に寝てたのに?」
「あれはあくまでも緊急措置で、例外的な扱いだったからね。ほかにどうしようもないから仕方なくそうしたわけだよ。でも今度は違う。そこにちゃんと友香里さんのベッドがある。友香里さんの名前が書いてある。あ、ドアに『ゆかりのへや』みたいなの下げとく?」
「そんな可愛らしいことしないわよ」
「マリア様ヴァージョンと般若ヴァージョンがあるとかね」
「般若が下がってたらどうするつもり?」
「小さくノックしてから、そっと細目に開けてみる」
「それで本当に般若が見えたら?」
「そっと閉める」
「バカねえ」
 ただ事でないことは当事者も重々承知している。衛の幻肢痛の発症が大義名分となっていることもよくわかっている。しかしそこを議論してみたところで誰かを納得させることはできても誰も幸せになることはない。痛みが消えてなくなるわけでもない。そうであれば『ゆかりのへや』みたいなオーナメントを吊り下げるのは、無用の議論を無効化するアイテムとなり得るだろう。なにしろ議論を吹っかけてくるのは外野ではない。家族でも病院でも学校でもない。友香里のドアは衛の部屋からしかアプローチできないのだ。だから議論は常に内側から立ち上がる。友香里と衛のあいだで立ち上がる。新しく扉がそこに現れるのだから、当然のことだ。
「僕ふと思ったんだけどさ、しばらく友香里さんの(つの)て見てない気がする」
(つの)なんてありません」
「いや、あったよ。僕は実は何度か見てるんだよねえ」
「どんな(つの)なの?」
「晴れの日は青色で雨の日は灰色になるんだよ」
「またいい加減なことを」
「でも最近ほんと見てない。どうしてだろう? どうしてだと思う?」
「衛がいい子にしてるからじゃないの?」
「そうか。こいつが始まってから僕は身動きとれなくなってるから――」
「そんなこと疑ってないわよ」
「ほんとうに?」
「本当です」
「そう言えばさ、友香里さん、どうして髪を伸ばしてるの?」
「え、髪?」
「最初に会ったときはすごく短かったのに、いまもう背中まで届いてるよね?」
「あゝ、そうね。あれから切ってないのよ。揃えてはもらってるけど」
「どうして切らないの?」
「衛は短いほうが好き?」
「もしかして願掛けみたいなやつ?」
「教えて。衛の好きな長さにするわ」
 この夜も、薫が計った通り、幻肢痛には襲われないはずだった。正確に言えば薫は「図った」のであり、あるいは「謀った」のである。前触れもなく襲いかかる痛みを恐れて寝つけなくなるような、そんな事態になどそもそも衛は陥っていない。むしろ、だから厄介なのだとも言える。だから「(はかりごと)」が必要なのだと言い直してもいい。しかし友香里のほうは違っていた。スマートフォンの音に反射的に跳ね起きるくらい、眠りは明らかに浅くなっている。衛の家に車を走らせることなく朝を迎えられた日中にも、唐突に激しい眠気に襲われることがある。
 里村が木之下に紐解いてみせた薫の計略は概ね当たっていた。薫が謀るべく図った相手は、言うまでもなく、衛と友香里だけだ。二人のあいだでそれが成りさえすればいい。しかし二人だけを(たばか)るのは難しい。そこだけを狙っては、いずれか一方を落とすかもしれない。二人を取り巻く人間をすべて同じ船に乗せてしまうべきだ。同じ夢を見させるのだ。そしてこうした事柄はやはり徹底してやらなければ、成るはずのものも成らない。
 衛の中にいる「悪いやつ」は恐らくほくそ笑んでいることだろう。薫が企み里村が喝破した出来事が本当に起きているのであれば。しかし実際のところは誰も知らなかった。衛に痛む脚はないのだから痛みは脳内にしかない。それがそんなわかりやすい絡繰りで働いているものか誰も知らない。誰にもわからない。この二週間ばかり幸運な偶然が重なっただけかもしれないし、ひょっとすると衛の幻肢痛は治まってきているのかもしれない。
 薫はこの夜、うまく寝つけずにいた。母と父に関しては最初から心配していない。リハビリテーションセンターの人間も驚いてはいたが怪しんでいるようには見えなかった。油断できないのは木之下と里村である。木之下は衛が事故に遭ったときからもう一年もずっと折りにつけ寄り添ってきた。里村のほうは日中の衛をほぼ支配下に置いている。あのとき、リハビリテーションセンターから帰るとき、彼らはなにを話していたのだろう?
 明日、古澤に時間はあるだろうか。この不安をぶつける相手は古澤しかいないのだから、なんとしてでも時間をつくってもらわなければ。東京へ行けと言ったのは古澤である。なにを勉強してもいいとは言ったけれど、どんな学校でもいいとは言っていない。だから「これでもう安心だ」と言ってくれる役割はおのずと古澤になる。決してDNA上の父親であるからではなく、これまで私たちに対してとってきた態度に古澤は責任を持つ必要がある。
 生来、薫は「眠い子」だ。こんなことを考えているうちに眠ってしまうのが常である。だけどこの日はちょっと違った。このひと月余り入念に準備してきたはずの大芝居を打ったのだ。その成否に不安を憶えるのは至極当然かもしれない。二十三時過ぎに衛の部屋をそっと覗き見た。衛のドアはスライド式で新しいから静かにそっと開く。衛は灯りを消して眠っていた。微かだが寝息も聴き取れた。今日は対外的には平穏な火曜の夜、実体としては不安な夜。
 紺野友香里を深夜にたたき起こすことはしたくない。
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