§02 07月08日(金) 10時頃 逢瀬(1)

文字数 3,914文字

「二日もサボって大丈夫なの?」
「どうせ弱小バスケ部だ」
「そういう問題じゃないと思う」
「今日は行きたいところがあってね。付き合ってくれる?」
「もちろんどこへでも付き合うけど……」
 昨日と同じく奈々の卒業した小学校の校門の前で待ち合わせた。昨日も今日も、あの夕暮れのカフェやバス停のようには、瑛太はあまり口を開かなかった。元々が口数の少ないほうであり、奈々のおしゃべりに打つ相槌も頷いたり微笑んだり首を振ったりで、「うん」も「あゝ」も「いや」も発しなかったりする。だから奈々は勢い瑛太の顔を見て話すことになる。路を曲がったり信号に止まったり段差を跨いだりする際には、瑛太が奈々の手を引いて注意を促す。
 昨日、丸一日一緒に過ごしてみて、奈々も瑛太も自分たちが間違った選択をしたのではないことを確認した。むろん奈々は前夜に襲われた抑え難い衝動については胸に秘めた。瑛太もきっとそうであったら嬉しいとは思ったけれど、確かめるのはさすがに気後れがする。現実の瑛太はまだ奈々の手のひらをしか知らない。恐らく今日もそうして終わるだろうし、現実に於いてはそれで充分だと奈々は思った。それだけでさえ現実の持つ力は強大だった。
 昨日は見知った顔には出会わなかった。少なくとも二人のほうでは認識しなかった。わざわざ雅臣や麻央に伝えるようなこともしていない。二人の関係はそうした社会性を求めるには早過ぎたし、そんなことをして雑味が混ざってしまうのも惜しい。いまは互いに相手しか見ていない。よそを見る考えなど浮かびもしない。むろんそうあるのが当たり前なのであり、そうあろうと努めることなくそうあってしまうのが、恋が真正であることの証だとすら言える。
 昨日までと違うところを敢えて探そうとするのも愚かな話だろう。仮に誰かが見れば明らかに違っているところがあったとして、それを拾い上げることになんの意味があると言うのか。たとえば七月のこの日、夏至を過ぎているからには昨日よりも確実に日は短くなっているはずだが、暮れるまで表で遊ぶ子供がそれを計ることなどしないように、この二人にもまた、昨日と今日とでなにがどれほど近づいたかを計って確かめる必要などあるはずがない。
「歩いて行けるとこ?」
「そう。俺が通った小学校のすぐそばだよ」
「よく遊んだ公園とか?」
「なかなかいい線をついてくるね」
「ほかに思いつかないけど」
「いつか君のような女の子が現れたら紹介しなければいけないと思ってたんだ」
「ふ~ん。なんだろう?」
 かつて城下町として碁盤目に整備された路地を、あれこれと取り留めもなく言葉を交わしつつ、二人はまだそうして手をつないで歩くだけでも充分に幸せだったから、急ぐでもなくそぞろ歩くうちに、瑛太が通った小学校にたどり着いた。ひとしきり学校の話があったあと、校舎の裏側に校庭に沿ってつながる曲がりくねった細い路を抜けると、そこが瑛太の目指していた場所であり、奈々に紹介したいという建物だった。
「表札は変わってしまったし、たぶん壁も塗り替えられているようだけど、構造は変わってない」
「この家が、どうしたの?」
「いちばん仲の良かった友達が住んでいたんだよ」
「引っ越しちゃったのね」
「引っ越しはしていない。彼はここで消えてしまった」
 奈々は首を傾げた。
「厳密に言えば消えたのはここじゃない。ここで消えたと考えるのは俺の都合だ」
「ごめん。ちょっとわからない」
「死んじゃったんだよ、交通事故で。東京のどこかで」
「……そう、なんだ」
「ごめんね。こんな話」
「うゝん」
「でも君を紹介したい、彼に」
「うん」
「そういう友達だった。きっと間違いなく君を紹介する。しないはずがない。彼が俺を冷やかすのが見える。――あゝ、頭がおかしくなったわけじゃないよ。これはあくまでも俺の空想だから」
「わかるよ。大丈夫」
「もう少しだけおかしなことをするよ」
 そう言うと瑛太は空を仰ぎ、ゆっくりと語りかけた。
(しゆう)、この人は西尾さん。西尾奈々さん。なんと俺の彼女だ。驚いたか? 可愛いだろう? 羨ましいだろう? 俺のほうが先に彼女をつくったりして、悪く思うなよ。――あ、ちょっ、西尾さん! ごめん、泣かないでくれ」
「だって……」
「ごめん。変なことして悪かった。もうしない。もう終わりだ。ここには二度とこない」
 ぽろぽろとアニメの描写でも見るかのように涙の粒が零れ落ちた。それを両手の甲で拾う奈々の肩を瑛太は慌てふためきながらつかんだ。奈々は額を瑛太の胸に押しつけて、止められなくなってしまった涙に溺れて行った。瑛太は片方の手を肩から頭へ、他方の手を背中へと動かし、同時にふたたび天を仰いだ。くだならいことをした。彼女にはなんの関係もないことなのに。ずっと胸の中にしまっておくはずだったのに。やさしくて可愛いから、可愛くてやさしいから、周に会わせたくなった。会ってほしくなった。会ってくれそうな気がした。魔が差した。周はもうここにはいないのに。周はもうどこにもいないのに。会えるはずなどないのに。
「……上戸くん」
「ん?」
「もう、大丈夫」
 奈々の額が胸から離れていることに気づかなかった。それでも奈々は瑛太の腕の外側には出ていなかった。頭の後ろと背中の後ろにある腕の中で、体を小さくし俯き加減に立っていた。
「ごめん。俺がバカだった」
「そんなことない」
「行こう。もうここには用がない」
「待って。そういう言い方しないで。用事が済んだ、て言って」
「いや、でも……」
「また来たくなったら言って。今度は泣かないから。泣くかもしれないけど、大丈夫だから」
 瑛太は手を奈々の両肩に戻した。それはむろん顔を上げて見せてくれというサインだ。奈々は顔を上げた。ピエロのように涙の痕が残っている。瑛太の瞳の動きが奈々にそれを教えた。奈々は慌てて背中を向けた。小さなリュックからハンカチを取り出すのを見て、瑛太はそこでいま奈々がなにを始めたのかを理解したし、じっとその後ろ姿を見ているのは具合がよくないような気がした。しかし振り返れば周の家の門に向き合ってしまう。だから斜め右のほうへ、左でもよかったのだが、遠くを眺めるように目を向けた。
 狭い路を挟んだ斜向かいの家の庭が見えた。車を縦に二台並べられるスペースがあるようだが今は奥に一台だけ置いてある。だから車の出入り口から庭がよく見えた。縁側の先に広がる小綺麗な庭だ。しかしどこかおかしなところがある。瑛太は目を凝らした。おかしなところはすぐにわかった。駐車スペースから庭を抜けて縁側に至る道がある。細かい砂を固く敷き詰めたような道だ。そこに二本の轍が通っていた。なんだろう、と瑛太は首を捻った。どうしてあんなところに轍が二本通るのだ。縁側と駐車場を繋ぐ道があってもいい。けれども轍はおかしい。そんなものはふつうはつかない。想像しても思いつかない。さらに目を凝らした瑛太の隣りに奈々が近寄った。
「なに?」
「うわ、ビックリした」
「ビックリしないでよ」
「急に現れるから」
「急じゃないよ。朝からずっと一緒にいるよ。なに見てたの?」
「あゝ、あれさ、なんだと思う?」
「どれ?」
「あの家の庭。轍が二本走ってる。なんだろう?」
 はッと息を呑む気配に瑛太が顔を向けると、奈々が目を見開いて片手を口元にあてていた。
「なに? なにかわかった?」
「そうじゃなくて。あれ、あの車。あれ『ゆかりさん』の車だ」
「ゆかりさんて誰だっけ?」
「久瀬くんの、綺麗なお姉さん」
「あゝ。確かに見た記憶がある。あの薄いグリーンだね」
「そう。グリーンとシルバーがあるの。最近はグリーンが多かった。でもグリーンの車なんていっぱいあるよね。ゆかりさんの車かなんてわからないね」
「いや、わかるよ。たぶん君は正解を言い当てている。あの轍は久瀬の車椅子がつけた。そういう幅と太さだろう?」
「そっか。そうかも」
「ちょっと表札を見てみよう」
 けれども残念なことに、表札には家族の名前までは記されていなかった。
「なにか手掛かりになるものがないかなあ」
「あんまりおかしなことすると不審者扱いされるよ」
「考えてみれば久瀬の手術って今日だな」
「うん、今日。え、じゃあなんで車あるの? あ、今日はシルバーのほうなのか」
「西尾さん、あの人っていくつくらい?」
「さあ。でもまだ二十代じゃない? 三十には見えないよね」
「十個くらい上、てことか」
「なに?」
「いや。周がなにか言ってたような気がする」
「ゆかりさんのこと?」
「あ~、なんだろう。なんだっけなあ」
「上戸くん――」
「う~ん、思い出せない」
「上戸くん――」
「クソッ、出てこない!」
「上戸くん、いいよ。そうでもあっても、なくても、どっちでもいい」
「……ん、まあ」
「私たちは『しゅうくん』に会いに来たんでしょ? ご挨拶は済んだんだから、どっか違うとこ行こうよ。ね? そうしよう? 校門のほうにバス停あったよね。今日これから晴れるみたいだから、私、海行きたいな」
 ふたたび校庭の周囲をぐるりと回って校門前に出ると、バス停はそこから少し離れたところにあり、時刻表を見ればいくらか待たされるようだったので、二人はベンチに座った。ここを走るバスはターミナル駅に向かう。海へ出るには駅で乗り換える。ランチを買って行こうと奈々が言った。瑛太はむろん賛同した。小学校には試験休みがないからこの日も普通に授業が行われている。バスを待っている途中、休み時間になって子供たちの声が建物から溢れ出てきた。二人はふと校舎を振り返り、顔を戻す際に奈々が座り直した。肩が触れ、瑛太が奈々の手を取った。だから奈々は躊躇うことなく肩を預けた。
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