§18 08月29日(月) 23時頃 キスが素敵だったから?

文字数 1,963文字

 今時の高校生にとって二十三時の電話は決して非常識なものではないと思う。そもそも「非常識」とは「常識」に「非ず」なのであり、「常識」は時代ともに流動するのだから、あくまでも「今時」を基準として評価されるべきだろう。でも、けれども、二階の窓を開けて家の前の道路を見下ろしたところに相手が立っているという事態は、やはり非常識との誹りを免れないのではないかと思う。だから私は床に膝をつき窓枠から首だけを覗かせて、声をかければ届く距離に立つ人間と電話を通じてひそひそと話しているのだった。
「どうしてそこにいるの?」
「奈々の顔が見たくなったから」
「非常識な欲動」
「降りてきて欲しいなんて言わないよ。そうやって顔出してくれていればいい」
「それだけでいいとか言われても、パジャマだから立てないし」
「パジャマは見られたくないんだね?」
「なんとなく」
「すでにあそこもあそこもあそこも見ているというのに」
「え、三つ? 三つってどことどことどこ?」
「三は『いっぱい』という意味だよ」
「なんだ、ビックリした。でもなにがあったの? なにかあったんでしょ?」
「確かになにもなくてこんなことはしないよね」
「ふつうは」
「俺にはふつうじゃないところがたくさんある」
「あ! ちょっと待って。庭からお風呂のほうに回れる? 右側の奥」
「途中に落とし穴が掘ってあるのかな?」
 私はずっと頭の中で考えていた。家族はみんな二階で寝ている。けれどもトイレやキッチンの近くは避けるべきだ。そうなると階段を挟んだ反対側にお風呂があった。この時間に階段を降りる人間はみんな右側に曲がる。正面から見ると左側に曲がる。トイレとキッチンがそちら側にあるからだ。お風呂のほうに曲がることは絶対にない。それならお風呂の窓を開ければ手が届く。こんなふうに見えているのにひそひそ話さなくてもいい。違う。ひそひそ話さなくてはいけないけれど、電話を通す必要はなくなる。
 瑛太がそっと門扉を開き、開けたままにして庭を右手に向かうのを見届けてから、私も部屋を出てそっと階段を下りた。陸上部に命を張っている妹はいつも疲れ切ってすぐに眠ってしまう。母も寝つきのいい人だ。父は起きていたとしてもヘッドホンで音楽を聴いている。スティング、ジャミロクワイ、シェリル・クロウ、スタイル・カウンシル、ドナルド・フェイゲン。なんとなく憶えてしまった。ドアの下から灯りは漏れていない。風呂場の窓は小さくて、なにかを蹴飛ばして音を立てないよう慎重に、足元を探りながら近づいた。
 換気のためだけに用意された磨りガラスの窓は、それでも人の顔をちょうど通してくれる。瑛太が表に立って私が中に立つと二人の高さはほとんど同じだった。唇の先を触れるところから始まったキスはあっという間にどんどん広く深くなった。このまま空が白んでくるまで続けられそうな気がした。だけどそのうち体が痺れるようになってくるからきっと立っていられない。後ろに向かって引き剥がすように離れるのは難しかったので、私は顔を下に向けて唇を離した。空は晴れていたけれど月は出ていなかった。
「……もしかして、瑛太、『さよなら』を言いにきたの?」
「そのつもりだったんだけど、いま取り下げることにした」
「キスが素敵だったから?」
「それもある。いやそれがいちばんかもしれない」
「じゃあ二番は?」
「間違いだったと気づいたからだよ。――ねえ、奈々。君にお願いしたいことがあるんだけど」
「なに?」
「明日一緒に久瀬と話をして、彼のリハビリの様子を見せてもらえるように交渉してくれないかな?」
「いいけど、多田くんはどうする? 声かけない?」
「多田は、そうだな、あいつにも声かけるか」
「久瀬くん、いいって言ってくれるかな?」
「……あ、いや、ごめん。今のは忘れて。久瀬のリハビリなんて見たくない。そんなもの見たいなんて俺は思ってない。違うんだ。そうなじゃくて俺はただ――」
「瑛太、私を見て」
「え……?」
「私を見て」
「あゝ……」
「お願い。私を見て」
「……奈々、もう一度キスをしても?」
「うん、あと二回は大丈夫」
 そんな根拠など、もちろんどこにもない。もう一度と言われたら、あと二回と返すのが決まり事だから、私はそれに従った。そして二回が三回になり、けれども四度目を始めてしまう前に私たちは離れた。これも決まり事だ。階段を上ってふたたび窓辺に寄った。今度は私は膝をつくことはせずふつうに窓辺に立った。月がまだ出ていなかったから。しばらくそうして互いを見つめ合い、私は窓を閉めカーテンを引いた。私がそうしないことには瑛太はいつまでも帰れない。これも決まり事だ。ずっと昔からの。――あゝ、上戸くんでよかった。久瀬くんとはこんなことできないもの。車椅子であそこに忍び込むことなんて絶対にできないもの。
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