§30 11月01日(火) 22時頃 ある秋の夜半の上戸瑛太

文字数 7,208文字

 日付が変わった午前一時に八・五℃の最高気温を観測したあと、日付が変わる二十四時に三・五℃の最低気温を観測するまで、朝方にみぞれの混じった一日は時間の経過とともに冷え込んで行った。最高気温が十℃を超えないこの秋の終わりの最初の日であり、北からの冷たい風が吹き続けた。
 ベランダ側の窓も明るかったし、玄関に並ぶ外廊下に面した窓からも灯りが窺えたので、留守にしているとは思えなかった。それはどう考えても平生の人となりと相容れない所業である。もちろん私生活が職場での顔とまったく違うのは珍しい話ではないだろう。しかしあの人に限ってそれはないと断言できる根拠のない確信もあった。そうやって二十分ほどが経ち、恐らく十数回目のドアチャイムがようやくその確信に応えてくれた。瑛太の体は芯から冷え切っていた。
 ユニットバスには窓がなくシャワーを出しっ放しにしていた里村は、そのためにドアチャイムの音に気づかなかった。瑛太にとって不運なことに、彼が里村の賃貸マンションに着いてエレベーターに乗り込むのと、里村がユニットバスの扉を閉めるタイミングとが重なったのである。瑛太がドアチャイムを押したときにはすでにシャワーの栓は開かれていた。
 ドアを開けた里村多江はそこに本当に上戸瑛太の姿を認め驚くとともに呆れ果てた。インターホンに「上戸です」と応じた声は確かに彼の声であったのだが、まさかこの時間に自宅を訪問される事態など脳裡のどこを探しても想定がない。ともあれ今夜の表の寒さは尋常でなく里村は慌てて瑛太を中に引き入れてドアを閉めた。瑛太は気の毒なほどにガタガタと震えていた。
 そう、里村はこの生徒の姿を見て酷く気の毒に思ったのである。
「頭からシャワーを浴びてきなさい。風邪ひくから」
「……シャワー?」
「いま私が出たばかりだからまだ暖かいよ」
「なるほどそれで僕は二十分余りも外に立たされたというわけか」
「いいから、ほら、さっさと上がる」
 付けたばかりの換気のスイッチを止め、新しいバスタオルを出すと洗面所の扉を閉めて部屋に戻った。まもなくシャワーの音が聴こえてきた。里村はドライヤーを生乾きの髪に当てながら俄かに困惑と混乱の渦に引き摺り込まれた頭の中の収拾に取り掛かった。なにをしにきたのか? そもそもどうやってここを知ったのか? 風呂上がりにふたたびきちんとした身なり(たとえばブラジャーをつける)をしなければならない腹立たしさに、里村はいくども舌打ちを繰り返しながらざっと部屋を見回した。が、慌てて片付けるようなものも見当たらない。
 そう言えば脱衣カゴに昨日今日の衣類がそのまま放り込んである。しかし上戸瑛太という少年がそこから里村のショーツなりブラジャーなりを拾い上げ顔を埋めるとは考えにくい。しかし仮にそれが起こるとしてもそれくらいなら容認できるかとも考えた。今からそれを回収しに行ってどこかに隠すのもみっともないと思った。
 里村の部屋は1SDKで狭いSにベッドがピッタリと収まっている。カプセルホテルのような密閉空間で眠るのは気分がいい。遠方に出かけた際に泊まるのは駅近の裏通りにあるフロントマンが一人しか立っていないようなシティホテルと決めている。コンパクトで無駄のない空間が好きなのだ。このときはさっと遮光カーテンを引き、そこにそんなものがあるとはわからないようにした。
 やがてシャワーの音がやんだ。里村は改めて部屋を見回し服装をチェックした。厚手のニットシャツにたっぷりとしたセーターを被り、下はジーンズである。風呂上がりのこの時間における「きちんとした身なり」とは、里村に於いては「ブラジャーをつける」までで完遂していた。冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを出しグラスをふたつ用意すると、里村はのんびりした顔を作って炬燵に入り瑛太が風呂から出てくるのを待った。
「なにしにきた? いやその前にどうやってここを知った?」
 炬燵の向かい側に瑛太が収まると同時に尋ねた。
「僕が保健室に遊びに行った際に里村さんはいくどか席を外したことがあります。あるときふと机の上に封筒が置きっ放しになっていた。見ればここの住所が記されている。いつかなにかの折りに役に立つかもしれないと考え控えておきました」
「私が不用心だったということか」
「実際こうして役に立ったのですから構わないでしょう?」
「そいつはまだわからないな。で、こんなくそ寒い日になにしにきた?」
「こんなくそ寒い日なら追い返されないだろうと思ったんですよ」
「だから、用件は?」
「里村さんとベッドに入りたい」
 躊躇いもなくそう口にして、穏やかに笑った。里村は顔色ひとつ変えずに応じた。
「なるほど。それならまずシャワーを勧めたのは正解だったわけだ」
「さすがの受け答えですね」
「もう西尾に飽きたって?」
「最近どこかで彼女と交錯したことがありますか?」
「ないね」
「もしかすると専門家のケアが必要かもしれません」
「西尾に?」
「僕にはとても無理だと観念しました」
「なんでそうなった?」
「久瀬衛が非常識なことを始めたからですね」
「あゝ……」
 正直、脱力した。炬燵に頬杖をついていた里村は、そこで天を仰ぎ、床に突っ張った腕で上体を支えた。仰け反った里村の首や顎を瑛太が黙って眺めている。思いがけないことにボルダリングをしているという隠された事実をつい最近になって知った。この夏の陽焼けを残した薄い褐色の肌に、すっきりと無駄のない筋が走っている。ややあって里村もその視線に気づいたけれど、この少年の眼差しには不快な粘り気がなく、それを放置してなおしばらく西尾奈々のイメージの想起を続けてから、ゆっくりと顔を戻し炬燵に片肘をついた。瑛太はなにごともなかったように穏やかな笑みのままだ。
「ナイーブだねえ」
「実を言えば、里村さん、先に潰されかけたのは僕のほうだったんですよ」
「あら、なんでまた?」
「それはまあ潰れなかったのでいいでしょう。問題は西尾奈々のほうです」
「あんたは要するにここに西尾を捨てに来たわけだな」
「まあ、そう言われてしまえば、否定するのは難しいですね」
「心やさしい上戸くんとしては西尾のほうからフッてくれるように仕向けたい。たとえば本来であれば争うべくもないはずの女と関係を持ってしまったといった類のつまらない事件を用意してあげることによって。そこで校内でも随一との呼び声高いセクシーな学校保健師の慈悲に縋るべく寒風吹き荒ぶ夜の街をやってきた。――とまあ、そんな状況設定で合ってる?」
「途中いくらか不適切な形容が散見されましたが、おおよそ間違ってはいません」
「ふむ。しかし上戸くん、この私があんたなんぞと寝ると思うかね?」
「こう見えて僕けっこう精力はあるほうだと思うんですが」
「そりゃ十七歳のバスケ部員なんだから一晩に三発やそこら軽いもんだろうさ。だけどネジだかバネだかの弾け飛んだエンジンみたいに突き上げられるのは御免だ。例のあの久瀬衛の美女も同じだろう。つまり久瀬衛はそんなセックスをしないと考えていい。そうであれば三十半ばの熟れ切った女としては久瀬衛の誘いには乗っても上戸瑛太の誘いには乗りたくない。そういうことだ」
「はっきり言うなあ……」
「だってあんたが聴きたかったのはそうした現実なんだろう? 久瀬衛にできて自分にできないのはなぜか? 久瀬衛にあって自分にないのはなぜか? そもそも招待状も持たずにやってきてさあ。いや他人様の招待状を盗み見たのだっけ。こんなに寒い夜でなければ門前払いしてるところだよ」
「そこは違いますね。僕のこれは久瀬とは関係がない。紺野友香里と関係している」
「ん? もしかして丸ちゃんの言ってた話?」
「紺野友香里は周を殺したんですよ」
 里村は片肘に顎を乗せたまま、視線を瑛太から外した。
「どんな字を書く?」
「え? あゝ、周ですか。周るという字を書きます」
「それで上戸、あんたはその〈周〉とかいう子供のために、紺野友香里を断罪しようとしたわけ?」
「彼女はまだ罪を償っていない。そればかりか久瀬との快楽に耽ってすらいる」
「要するにあんたは失敗したんだな」
「……なぜ、そう思うんです?」
「失敗するに決まってるからさ。そういうやつは必ず失敗するんだよ」
「いや、でも俺は知って――」
「〈周〉という名の少年は絶対に久瀬衛には勝てない。なぜだかわかるか?」
「わかりません」
「私たちは存在と忘却の狭間に生きているからだよ」
 里村はいかにも億劫そうに腰を上げると、炬燵の上からスポーツドリンクのペットボトルをつかみ冷蔵庫に入れ、食器棚のガラス扉からコーヒーカップをふたつ手に取った。ウォーターサーバーの上でインスタントコーヒーをスプーンに二杯分放り込むと熱水を注ぎ、背中から瑛太の前にひとつを置いてその横に――恐らくいくらか賞味期限を過ぎているかと想像される――ポーションミルクとシュガースティックを添えた。自分はブラックのままのカップを手にふたたび炬燵の中、瑛太の向かい側に潜り込んだ。
「私の言った意味、わかった?」
「ええ、わかります。……でも、参ったな。……こんな簡単に痛めつけられて、あっさり慰められてしまうなんて、ちょっと想定外でした」
「ケアが必要なのは残念なことに相変わらずあんたのほうなんだね?」
「僕はこのままでは西尾奈々を致命的、不可逆的に傷つけてしまう」
「そうした感覚についてはちょっとばかり久瀬に似通ったところも持ってるんだな。でもあいつは最初からそうした顔をして現れるよ。あんたにはそれができないわけだ。性格にいささか難があるとか言ってたけどさ、いささかどころの騒ぎじゃない。相談されたのが西尾のほうからだったら、さっさと別れてしまえと一刀両断してるところだ」
「そこは間違った選択はしなかったわけですね。じゃあ里村さん、僕はどうすればいいですか?」
「ん~、そうだなあ……」
 そこでなんとはなしに部屋を見回した里村の目に、先ほど閉じた遮光カーテンがとまり、ふと苦いものを噛んだような顔をした。目をつむり、目を開けると、笑みを失った瑛太の顔があった。里村は頬杖をついていた手を左から右に替え、首を傾けた。
「ちょっとそこのカーテン引いてみ?」
 里村が顎で示す左手の先に確かに真っ白で重たそうな遮光カーテンが下がっていた。瑛太は立ち上がり躊躇いなくさっとカーテンを引いた。すると、ちょうど畳一畳分ほどの寝室空間が現れたものだから、驚いて思わず振り返った。
「残念ながら男と女が一緒に寝られるサイズになってないんだわ、うちのベッド」
「でもこれなら落っこちる心配も皆無ですね」
「確かに。あるとすれば足元から蹴り出されるくらいだな」
「チャレンジしてみても?」
「う~む。どうするかなあ……」
「そこで保留してみせるのはちょっとズルい」
「しかし言っても私ら同じ学校の教師と生徒だからねえ……」
「むろんだからこそ西尾奈々を傷つけないための手解きをしてくれるという話でしょう?」
「初めに私言ったよね? あんたみたいなのは年上の女にしておくべきだ、て。憶えてる?」
「憶えていたからこそ恥を忍んでこうしてやってきたんです」
「ん? もしかしてあんたらまだやってないの?」
「やってません。ペッティングまでです」
「あら、そうなんだ」
「だからまだ僕には救いの余地がある。つまらない考え方かもしれないけれど」
「いや、つまらなくもない。女の子というやつは大事に扱うべき厄介な代物だ」
「里村さん、そろそろ腰を上げてくれませんか? さっきからもう勃起しています」
「うん、見ればわかるよ」
 里村のベッドにはクリップで留める小さな読書用のライトがついていた。部屋のほかの灯りをすべて落とし遮光カーテンを引くと、世界はあっという間にベッドの上だけに縮小した。壁とカーテンの向こう側にはなにもない。あるいは手掛かりのない虚空が広がっている。しかしこのベッドは左右がピッタリと壁に吸い付いており、落下する恐れはない。微かに推せば揺れる遮光カーテンの心許なさが、世界が決してこの狭いベッドルームに閉じてはいないのだという現実を示唆している。
 中は狭いから裸になって先に入れと言われ、瑛太はまだ灯りを落とす前に衣服を脱いだ。ずいぶんとまあ立派な持ち物だねえと里村が揶揄うように瑛太の屹立したペニスの先を指先で触れた。それだけで瑛太の体は電気が走ったのように震え、慌ててベッドへと逃げ込んだ。クリップライトを点けろと言われたのはそのときで、瑛太がスイッチを入れると同時に部屋の灯りが落とされた。一度、目の前で遮光カーテンが閉じ、次に開いたときに褐色の肌の里村がするりと入り込んできた。
 そうしてみると確かに二人の人間が一緒に寝るには、そのベッドは狭すぎた。里村は標準サイズの女性だったが、瑛太は平均を大きく超えているもので、それもまた狭さを強調して感じさせる要因だったろう。従って二人は上下になり、里村の上から瑛太が跨る体勢に、スタートポジションを定めた。クリップライトに照らされる里村の引き締まった体は、ふんわりと柔らかな西尾奈々の肌とはまったく印象が違って見えた。瑛太がそう口にすると、気持ちがいい場所は一緒だよと里村は笑った。
 圧倒的な体格差があり、初めから脱衣をめぐる面倒なプロセスも端折られて、狭いベッドルームではあたかも男が女を組み敷いているかの如く見えていたとしても、現実は、男が遅疑逡巡している一方で、女は余裕綽々たるものだった。それを揶揄い愉しむかのように、どこからでも好きにしていいだとか、女がそんなセリフを口するものだから、ここは世界からほぼ完全に隔離された空間であるのにも関わらず、男は誰のどんな眼差しを恐れるのか、じっと女の胸を見つめたまま動けなくなった。
 女の腰の左右に膝をつき、女の顔の左右に腕をつき、そうして硬直した男の下から女の片方の手が男の頬を撫で、首を撫で、胸を撫で、女のもう一方の手が男の腿を這い、尻を這い、ペニスを包み込んだ。私たちは恋人の真似事をするんでしょう?と囁かれ、ようやく男は躊躇いながらも女の薄い唇を食み、女の細い首筋を食み、女の小さな乳首を食んだ。そこから男が暴走してもなんら不思議はなかったのだが、女はそれを許さず、抑圧の配下で欲情を敢えて募らせるべく導いた。
 その甲斐あってと言うべきか、そんなのは御免だと女は先ほどそう嘯いたはずだったのに、やがていざ解き放たれた男がまるでネジだかバネだかが弾け飛んだエンジンのように女を突き上げると、手解きもへったくれもなく貪欲に己の快楽の中枢で暴れさせるべく、女は首を仰け反らせ胸を張り巧に腰を同調させた。西尾奈々がいきなり同じことをするとは考えられない。しかし恐らくそれで構わない。相手を知ると同時に自身をも見出すプロセスを共に積み上げて行くほかないのだから。
「自転車? バイク?」
「自転車です」
「それは寒かったねえ」
 体の大きな瑛太のほうが胸に里村の背中を受け止める形で、狭いベッドルームの奥に腰掛けながら、二人はそんなふうに後語りを始めた。日付はまだ変わっていない。しかし表の気温はすでに五℃を下回っている。里村が胸の前で互いの両手を抱き締めるように重ね、瑛太が目の前の肩や首筋にキスを続けている。瑛太のペニスはすでにふたたび里村を求めている。しかしふたたびそれが里村のヴァギナに受け入れられる可能性はない。まったくないと言っていい。
「帰りも大変だ」
「まさかこんな夜に僕を表に放り出そうとしてる?」
「だって明日は学校だよ? 休みなら朝まで続けてもいいけどさ」
「僕が少し前にこの部屋を出るというのはどうですか?」
「あんたの恋人はあくまでも西尾奈々なんだろう?」
「まあ、確かに」
「じゃあいつまでもチンコおっ勃ててないでさっさと服を着る」
 寒いから玄関までは見送らないと言われてしまった瑛太は、それでもなんとか粘り込み、靴を履いたところでもう一度だけ濃密なキスをさせてもらった。毛布にくるまった格好で立つ里村の姿に激しい未練を抱きながらも、瑛太はドアの外に出た。氷点下にまで冷えているのではないかと疑うほどの風に首をすくめたとき、背中でカチッとカギの閉まる音を聞いた。
 外廊下を遠ざかる足音が聴こえてくる前に、里村は玄関を離れベッドの上に戻った。久しぶりにやってしまったという悔恨が、足元から一気に立ち昇ってくる。こないだはいつだったか、相手は誰だったか、もう記憶にない。それはとどめておく必要のない記憶だから消えてしまう。恐らく上戸瑛太とのこの夜も同じように、気づかないうちに消えていることだろう。
 結局のところ彼がなにを恐れ、なぜ潰されそうになっていたのか、そこはわからずに終わった。久瀬衛の非常識なあれこれが西尾奈々を揺さぶったのは事実に違いないにしても、上戸瑛太のそれはきっとまったく異質な姿をしているようだ。しかし、六年前に事故で亡くなった気の毒な少年と、あのおかしな久瀬衛とのあいだに、紺野友香里を通じてどんな交錯があったかなんて、上戸瑛太になんの関係がある? けれどもどうやらこれであれこれとお終いになるらしいとの予感がするのも確かだった。むろん久瀬衛の変則的な登校は間違いなく卒業するまで続くものの、彼はこの夏から冬を迎える前にすっかりステージを入れ替えてしまったのだ。
 なるほど、それで振り落とされそうになった人間が出たという話なのかもしれない。西尾奈々も、上戸瑛太も、たぶんこの自分も。必死にしがみつくための誰かを探し求めている。この当たり前の世界にとどめてくれる誰かの手を、体を。まったく酷い話もあったものだ。つまらないことだったとは思わないけど、もっとスマートなやり方があったんじゃないの?
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