§21 10月04日(火) 17時頃 増築現場

文字数 4,510文字

 なにが起きているのかは聞いていた。突然、早退や欠席が増えれば心配になる。朝、今日は来るだろうかと思いながら登校し、来ていれば、今度は早退するのかどうかを確かめた。火曜と木曜に早退するときは必ず校門に車が待っており、月曜・水曜・金曜に早退するときは保健室で本を読みながら車を待っていた。火曜と木曜に早退するときは昼休み中、月・水・金のお迎えは三時半から四時のあいだと決まっている。曜日の問題も時間の問題もあの人の仕事と関係することは間もなく教えてもらえた。けれども廊下の窓辺から二人を見送る情景は胸が締めつけられるほどに苦しい。目の前で起きていることへの哀切さと、それに手を貸すことができない悔しさと――いや、どんな言葉を持ってきても奈々にはそれを言い当てるのは難しかった。
 二週間ほど前から曜日が固定された。月曜・水曜・金曜の午後は保健室、火曜と金曜は最後まで授業を受ける。そのころから教室で苦しむ姿を見なくなったものだから、思わず痛みはなくなったのかと尋ねてみたところ、外に逃がしたと言うので、どこに逃がしたのかと尋ねると、夜の自室だと答えた。そこにあの人がいるのだということは答えてもらうまでもなく奈々には察しがついた。やはり衛はただの甘えん坊なのだ。とにかく無条件に甘えさせてくれる人を常に求めている。あの人の前では今でもきっと子犬か子猫のように見えるのだろう。
 この日、茶道部兼華道部の部室で少しおしゃべりをしてから、みんなつまらない話ばかりするもので、奈々は二学期になって時おり気紛れにしてきたように、予告なく体育館の片側に三列ほどある狭い観覧席の端に腰掛けた。バレー部とバスケ部が分け合っているコートを見下ろす、バスケ部のほうの端の席の上段である。下段、中段に数名の先客がいた。なんの練習をしているのか知識のない奈々にはまったくわからないし、瑛太もなかなか気づいてくれなかった。先に他の部員が奈々を見つけて瑛太に教えた。瑛太が軽く手を挙げるのに応えると先客の何人かが奈々を振り返った。
 覚悟はしていたけれど、二学期からクラスの空気は想像以上に奈々に冷たくなっていた。麻央の一方的な片恋で瑛太にはまったくその気がなく、しかし麻央の顕示的な振る舞いを瑛太たちが容認してしまっていたことで、西尾奈々が蓑田麻央から上戸瑛太を寝取ったという噂が立った。それに加えて恐らく麻央が意図して正誤を濁したために、架空の物語が定着した。
 しかし上戸瑛太と、なによりも多田雅臣が態度を変えなかったものだから、少女たちは奈々に対して積極的な行動を起こすことまではできずにいる。雅臣は意図的に、これと言った用事もなく頻繁に、奈々に声をかけた。誰も雅臣を恐れてはいないけれど、誰も雅臣から嫌われたくはない。雅臣に睨みつけられるようなことをすれば、きっと学校で居心地が悪くなる。衛の幻肢痛の際に見せる険しい顔つきが、雅臣をいつしかそのようなポジションに置いた。
 それでも奈々の周辺は凍りついたように静まり返った。おかしな言い方かもしれないけれど、衛の幻肢痛の発現が奈々を救った。生徒たちの視線が、そして奈々の視線も、神経質に衛の上に注がれることになったからだ。
 コート上の瑛太はいつものようにそのあとはもう奈々に顔を向けることはなかった。だから奈々は目では瑛太の姿を追いながらも、頭の中では昼休みの情景を思い起こしていた。いつもの薄いグリーンの車からあの人と一緒に見知らぬ少女が降りた。小柄で年下のように見えるが衛の姉であることは顔を見ればすぐにわかる。秀でた額が同じ血を分けている明らかな印を示していた。校舎からは衛の車椅子を押して里村が現れた。三人の女は軽く会釈し少し言葉を交わしてから、あの人が里村に車のキーを手渡し、車椅子を引き取った。後ろからあの人が上体を屈めると、衛は人目も憚らず頬か唇の端にキスをした。あの人もキスを返してから車椅子を押して歩き出した。里村が運転席に、衛の姉が助手席に、衛がその後ろに、そして車椅子と義足をトランクに収めたあの人が衛の隣りに座った。車はなかなか動き出さなかった。桜の樹とフェンスが邪魔をして車内の様子ははっきりとは見えなかった。しかしこちら側に座る姉が窓の外を見ているのはわかった。視線は一階の昇降口の辺りを向いている。しばらくして校舎から国語教師の丸谷が姿を見せ車に駆け寄った。丸谷は助手席に取りついて、姉か里村と話していた。程なく、走り去った車を見送って、丸谷が校舎に戻った。その間、衛の顔がこちらを向いたことは恐らく一瞬もない。ずっとあの人と話をしていたのだろう。
 でも、あれはなんだったのか? 奈々は観覧席から腰を上げた。体育館を出るときにコートに目を向けると、珍しく瑛太が気づいてこちらを見上げた。奈々が小さく手を振ると瑛太も軽く手を振り返してくれた。観覧席の先客がまた何人か奈々を振り返った。
「助手席の人ってお姉さんですよね?」
「薫ちゃんね。私担任だったのよ、去年」
「あゝ、それで丸谷先生のこと待ってたのか」
「弟くんみたいに際立ってはいなかったけど、真面目でいい子だったわあ」
「どうして今日、里村先生とかも一緒に行ったんですか?」
「学校での過ごし方を話し合うんですって。いろいろ試してみてたのを報告するみたい」
「最近あれですよね、一日おきに半日休んでますよね、保健室で」
「そう、そう。それがいちばんうまく行くみたいね。あれも薫ちゃんがいろいろ試行錯誤してたらしいわよ」
「あ、そうなんだ」
「薫ちゃん東京行っちゃうからさ。春までにあれこれ片付けておかなくちゃいけないのよ。受験もあるから大変よねえ。あ、そうだ。これ内緒よ? いまお部屋を増築してるんだって、衛くんの隣りに。そうすればいつでも出入りできるじゃない? さすがにお風呂まではないけどトイレと洗面はつけるみたい。大胆なことするわよねえ」
「……それって、あの、ゆかりさんの部屋、てこと?」
「あ、『ゆかりさん』て言うんだ、あの人。あの美女」
「……え、でも、増築? そこから家に入れるんですか?」
「うん、そうみたいよ」
「なんかおかしくありません?」
「そうかな? 簡易的な二世帯みたいなものよ。嫁と姑が顔を合わせる機会を減らす工夫よね。薫ちゃんもなかなかよく考えてる。家族の中のことって外からは見えにくいからね」
 たぶんこれは、これまで西尾奈々に投げかけられた無数の情報の中でも、最大級の衝撃を持って受け止められた。奈々は時計を見た。十六時四十四分。バスがすぐにやってきて電車との乗り継ぎもうまく行けば、十七時半には久瀬衛の家に着く。遅くても十八時。衛は午後から病院に行っており、そのままあの人の部屋に立ち寄るだろうから鉢合わせる可能性は低い。帰りもきっと車で送ってもらうはずだから駅に向かう道で姿を見られる可能性もやはり低い。
 奈々は図書室を飛び出した。バスは校門の先で待っていたというほどジャストタイミングではなかったけれど、さほど待たされることなくやってきた。ここで約七分の超過。その間に瑛太に今日は一緒に帰れないとメッセージを入れておいた。電車はやはり十五分ほど待たされた。田舎の電車だから仕方がない。これで二十二分の超過。日の入りを過ぎ、夕暮れが濃くなって行く中を駅から小走りになって、超過時間を挽回した。久瀬衛の家に着いたのは十七時三十八分だった。
 門扉の正面に玄関があり、右手がリビング、左手すぐが衛の部屋であることは、すでに承知している。いずれも道路に面して庭がある。格子になったフェンスに沿って左手に向かうと建築現場が正面に見えた。衛の部屋には玄関と並ぶ南側と、西側に窓があった。庭に出られるサイズだった南側の窓が三分の一ほどになり、持ち上げて開くタイプの窓に替わっている。基礎工事は終わっているようで、恐らく四畳半くらいの小部屋が衛の隣りに並ぶ。間に一畳半ほどの区画があるが、そこがトイレと洗面になるのかもしれない。しかしまだ柱も壁もなく、基礎工事は終わっているようだけれど、それもいびつな形をしていて、完成図をイメージするのは難しかった。
 それでも、要するに、門扉から入って正面の玄関ではなく庭を左手に向かえば、小さくなった衛の窓を右手に見つつ増築される部屋にたどり着く。きっとそこに出入り口が用意されるのだろう。きっとあの人は玄関を使うことなく部屋に上がり、そこは衛の家族の生活空間とは逆側にあって、衛の部屋とつながっているわけだ。リビングやキッチンなどからは遠いところで、衛の家族とまったく顔を合わせることなく自由に出入りができる。衛のすぐ隣りで寝泊まりができる。――でも、それってなに?
 リビングの窓でレースが揺れた。本当に揺れたのかわからないけれど、そんな気がした奈々は顔を背けリビングとは反対側に向かって路を歩き出した。どこかで回らないと駅から離れてしまう。この路が行き止まりになっていないことを祈りつつ、奈々は衛の家を離れた。すっかり日が暮れてしまい方向感覚を失った。充分に離れたと思ったところで立ち止まり地図アプリを開いてみると、路はこの周辺の街区をぐるりと取り囲むように走る広い道路に出て、かなり遠回りにはなるものの、駅に連れて行ってくれるようだ。
 交通量の多い道路だった。六時過ぎの混み合う時間帯である。歩道を歩く人の姿はほとんどない。向かってくるヘッドライトに制服姿を照らされるたびに、奈々は下を向いた。走り去る車がプリーツスカートを揺らし、素足が冷たい空気に怯えた。歩いている方向が間違っていないか奈々は何度も確かめた。どうしてこんなところを歩いているのか忘れそうになった。いや、目的を忘れてはいない。ただ、そこで目にしたものが理解できなかった。むろん説明はつく。完成予想図を正確に描くのは難しかったけれど、誰がなにを目的に使うものなのか、それこそ固有名を挙げて説明することができる。けれども、それがそもそもなんなのか、よくわからない。
 よくわからない、とは、理解の深度が足りないという意味ではない。そのための情報が不足しているというのでもない。情報は充分にそろっているし、理解も確かだと自信を持って言える。しかし、それを収める場所がない。物理的なスペースの話ではなく、物理的には無限とも言い得る胸の中の場所だ。子猫であればケージとトイレとお皿が必要で、熱帯魚であれば水槽と水と水温・水質を維持する装置が必要だが、ここではいったいなにを揃えればいいのか。
 しかし不足しているのはそれを取り巻くそうした環境ではなく、それそのものの意味の理解だった。子猫なのか熱帯魚なのか判然としない。あるいはなぜ子猫や熱帯魚がいるのかが理解できない。もっと言ってしまえば、子猫や熱帯魚がなんなのかすらわからない。いや、子猫と熱帯魚であればペットだとわかる。家族だと言い張ってもいい。しかし、紺野友香里とあの増築される部屋は違う。むろんペットではない。しかし家族でもない。あの人は同級生である久瀬衛の恋人だ。
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