§16 08月29日(月) 16時頃 一介の保健室の先生

文字数 5,047文字

 最終時限の終了後すぐに扉が開いて上戸瑛太が顔を覗かせた。
「里村さん、今日って暇です?」
「お、デートのお誘いかな?」
「まあ、そんな感じ」
「いいよ。ただし紅茶とチョコしか出ない」
「いつもと変わりませんね。では十分ほどしたら」
 里村は電気ケトルをセットすると、机の上を少し片づけた。二学期になって初めての来訪である。上戸瑛太はなぜか久瀬衛に強い関心を抱いている。いや、なぜかの理由は里村も聞いた。六年前の夏に失った友達に面影が似ているからだと言う。しかし里村はその程度の話を真に受けるタイプの人間ではない。とは言え敢えて詮索しようとも思わない。が、聞いて欲しいと言われれば真剣に耳を傾ける。卒業までにそれがやってくるのか、ひとつ楽しみができたと思っている。
 高校でも部活に入ってバスケットボールを続けようと考えるくらいだから、瑛太も長身だった。しかしビックリするほどではない。それに熱心でもない。事実こうしてぽつぽつとサボっている。どうせ進学校の弱小バスケ部だと嘯いている。体を動かしたいという抑え難い衝動がどこか内側にあって、それに応えてやるための部活動だと当人もそう口にする。学業成績のほうはかなりいいらしい。東京まではわからないが、きっと仙台には行くのだろう。
「適切な表現かわかりませんが、機密情報を盗むために城郭に忍び込んだはずなのに、帰りに姫君を抱えて帰ってきてしまった。そんな事故が起きました」
「なんの話?」
「ただいま西尾奈々と恋愛関係にあります」
「マジかよ?」
「珍しくかれこれひと月半ほど続いておりましてね」
「へえ、そうなの。なに、これまで三日と続かなかったとか?」
「まさにそれ、三日と続かなかった」
「まあ西尾は久瀬に惚れるくらいだから、いわゆるゲテモノ食いなんだろう」
「ゲテモノは酷い。少なくとも久瀬と俺なんですから、面食いなのは確かでしょう?」
「久瀬のほうがあんたよりぜんぜん綺麗な少年だよ」
「そこは承知していますよ。――ところで久瀬には今なにが起きているんです?」
「幻肢痛」
「はい。ネットで調べました。実際それに苦しんでいる人のブログなども。しかしわからない」
「まあ、わからないよね。私だって本当のところはわかってないよ。脚が落っこちそうだとか言われてもさ、こっちには脚なんて見えないんだから」
「……脚が、落っこちる?」
「久瀬はそう言うんだよ。膝のところで引きちぎられて脚が落ちそうだ、て」
「実際それに相当する痛みを感じているということですか?」
「いつも脂汗かいて今にも気絶しそうだろう?」
「確かに。ものすごい音を立てて机に突っ伏しますね。一瞬で教室が静まり返って西尾が飛んでいく。――しかしそうなのか。それは酷いな。気の毒なんて言葉じゃまったく足りない」
 俄かに、口にした紅茶を飲み下す音までがやけに大きく響くような気がした。瑛太は自分の膝に視線を向けたが、しかしそこが引きちぎられて脚が落ちる映像など思い浮かぶはずもない。実際それはもう存在しないのだから痛みは脳が創り出すわけだ。それでも頭が痛くなるわけではなく存在しない脚が痛む。捻挫をした足首が痛むのと同じように。それはネットで知った幻肢痛なる奇妙な現象に共通する特性のようだが、同じ教室で、目の前で知っている人間が襲われているイメージは、不思議と痛みをリアルに想像させ、瑛太の顔を歪ませた。
「それは、里村さん、いずれ治るものなのですか?」
「わからない。あと数週間か数ヶ月で治まれば幸せな結末と言えるだろう。数年数十年に及ぶこともあるというのが現実だ。しかし久瀬も少しずつそいつを緩和し、あるいは回避する術を見出しつつある。数時間おきに義足をつけて歩くというのもそのひとつだ。ただ横になるよりも義足をつけたほうがどうやら効果が高いようだね。そのほうが脳が騙されやすいんだろう」
「なるほど。そうやってなんとか折り合いをつけていくわけですね」
「で、なんで西尾を連れてこなかった?」
「彼女はいま久瀬と一緒にいます」
「ずいぶんと鷹揚じゃないか」
「久瀬の前にはATフィールドが展開されていますからね。西尾の力では破ることができない」
「どうやらその問題の御仁が御到着遊ばされたようだ」
 里村の視線の先を追った瑛太は、右手から走ってきた薄いグリーンの乗用車が校門を過ぎ、そのすぐ先で停まるのを見た。里村が椅子を立ち、瑛太もそれに倣い、二人は窓を開けて表に顔を出した。夏の終わりの夕暮れのむっとした熱気が、冷えた室内の空気と入れ替わろうとする。
 女はすぐには出てこなかった。恐らく衛と連絡を取り校舎から出てくるのを待っている。保健室の窓からは自動車の姿は見えるが女の横顔までは判別できなかった。しかしここは女を待つにはベストポジションである。里村も椅子に戻ろうとしない。里村も待っている。右手の校舎から現れる車椅子の少年と、校門の向こうから桜の樹の下を通って現れる女とが、目の前で落ち合う情景を。
 先に姿を見せたのは女のほうだった。やはり桜の樹の蔭で立ち止まった。しかし二階から見下ろすのとは違い、真横からはその姿がはっきりと見えた。すでに陽が傾き始め光が弱まっており、木陰の陰影が薄いせいもあるだろう。瑛太は女を凝視した。十一歳になる少年の六年後の姿を見通すのは非常に困難だが、二十代半ば過ぎと思われる女の六年前を想像してみるのはさほどの苦労もない。
 衛の車椅子が奈々に押されて現れたことに、だから瑛太はしばらく気づかなかった。女の顔がすっとこちらに向き、それが車椅子の二人の視線に誘われてそうしたのだということに、すぐには気づかなかった。瑛太も凝視し続けていたが、そのとき女のほうも目を見張った。二人の視線が重なっているところへ、網膜の純粋に光学的な働きとして、車椅子に乗る少年とそれを押す少女の姿が割り込んできた。
 すぐに女は衛に向き直りやさしく微笑んだ。しかしその微笑みこそが瑛太に確信を抱かせたのである。あれは〈周〉が話していた女であるばかりか、俺がいくどか目にしていた女でもあり、いまは二本の細い轍のついているあの庭へ、俺は〈周〉と一緒に立ち入ったことがある。あのときどうして思い出せなかったのか。きっと忘れようとして忘れることのできたひとつだったのだろう。
 いや、そんな抽象的な話ではない。庭は大幅に改造されたのだ。言うまでもなく駐車場からまっすぐに縁側に向かう道などなかったろう。そこには樹が植わっていたはずであり、たとえば石も置いてあったはずであり、つまり、〈周〉がいた頃と景色がすっかり変わっていたのだ。恐らくそうしたことにも邪魔をされ、自分の脳は記憶を引っ張り出すことができなかったのに違いない。
「里村さん、さようなら!」
「気をつけて帰れよ!」
「うん。今日はありがとう!」
 車椅子が奈々から友香里に引き渡された。衛と友香里は校門の外へ、奈々は保健室の窓辺へと、それぞれに異なる方向へと歩き出す。瑛太は視界の隅に女の後ろ姿をとらえながらも、歩み寄る奈々を正面から迎えた。女がこちらを振り返ることなく視界から消えたあと、地面より床が高くなっているせいで奈々はずいぶん上を見上げなければならなかった。
「部活サボってなにやってるの?」
「あゝ、今日はちょっと里村さんに――」
「西尾、悪く思うな。エロい先生と保健室でデートだ」
「里村先生、おかしなこと言わないでください」
「おかしなことではない。これくらいの少年は年上の女に憧れるものなんだよ。今まさに目の前でその実例を見たばかりじゃないか。ここにその二例目がある」
「ゆかりさんと里村先生とじゃ意味が違っちゃいますよ」
「どういうことだ?」
「あっちは恋人ですけど、こっちはお母さんです」
「お、お母さんだと!?
 衛を乗せた薄いグリーンの車が走り去った。奈々は靴を履き替えて校舎に戻り保健室に入ってきた。里村の机の上にチョコレートを見つけると思わずさっと手が伸びた。それを口に放り込み頬張りながら椅子をひとつ持ってきて瑛太の隣りに並べた。
「なんのお話ししてたの?」
「あそこを刺激したときに西尾がどんな声を上げるか聞き取り調査をしていたところだ」
「嘘だからね?」
「重責を担う養護教諭として今時の高校生の肉体的成熟度は熟知しておかねばならない」
「嘘だよ?」
「おまえらちゃんと避妊してるか?」
「ご安心ください」
「ちょっと瑛太! なんでそんなの答えちゃうの!?
「まだそこまでは至っていませんとか答えたら、どっちに問題があるんだ?なんて突っ込んでくるよ、この人」
「だからって……」
 使い古された結果このところ耳にすることすら少なくなった感もある直喩を持ち出すなら、奈々は茹で蛸のように真っ赤になった。縁起物としての茹で蛸は赤ければ赤いほどに良く、地方によっては食紅を用いてまで赤みを追及する。瑛太はちょっとその頬に触ってみたくなり、向かい側に里村がいるとは言えその誘惑に抗い切れず、つい手を伸ばしてしまった。奈々はさらに驚いて目を見張った。やはり赤みと熱量とは概ね比例するのだなと思いつつ、瑛太はにっこりと笑ってみせた。
「そうか。西尾もこう見えて発情するのか。意外だな」
「意外ですか?」
「まだぜんぜんお子様なんだと思ってたよ」
「いやまったくそんなことは――」
「だからなんで瑛太が答えるの!?
「発情した君を知っている恐らく唯一の人間だから、かな」
「いまわざと『恐らく』て入れた?」
「俺の基本的なスタンスだから、そこは気にしないで」
「気にするよ! 不当な嫌疑をかけられてる!」
「おまえら表でやれ。もっと観客の多いところで」
 私ひとりで聞くのはもったいないと里村に揶揄されて、さすがに瑛太も苦笑した。
「西尾は一緒に待ってたのか?」
「あ、はい。今日ちょっとツラそうだったから」
「上戸は容認しているわけだな?」
「久瀬が余所見をするとはちょっと考えにくい」
「おまえたちがいてくれて助かるよ。あと、あの大きなヤツ」
「多田くんです」
「あいつはいつもあんな怖い顔してるのか? あれじゃあ女の子が寄りつかないだろう」
「いつもは違うんです。でも、久瀬くんがああなったときは、なんか怒ってるみたいな感じになって。じっと目をつむったまま動かなくなって。ちょっと近寄りにくい感じに。――でもいつもは違うんですよ。多田くん愉しいし、やさしいし。最初に久瀬くんの車椅子押したのだって多田くんだったんです。多田くんは力が強いから安心感があるって、久瀬くん言ってたんです」
「説明のつかないなにものかに対するやり場のない怒り、という感じか」
「なんですか、それ?」
「久瀬にもそういうのがあってしかるべきだと思うんだけど、ところがあいつにはないんだよね。ちょっと不思議じゃないか?」
「ありますよ、久瀬にも。ただあの人がいるから鎮まっている」
「あの美女は観音菩薩かなにかだって?」
「俺にもあるからわかるんです。同じ類いの怒りが。生まれ持った性格が違うから多田のようにわかりやすくないだけで。俺の中でだって決して鎮まってはいません。だから時々おかしなことをやってしまう。そして奈々を泣かせてしまう」
「その話はしないで……」
「ごめん。しないよ」
 肩を並べて校門を出る二人を見送ってから、里村は机の一番下の抽斗からファイルを取り出し、電話に手を伸ばした。どちらに尋ねるべきなのか、現況からすれば明らかなはずなのに、里村の手は迷った。なぜここで迷うのか、里村は自身の挙動に首を捻った。しかし答えはすぐにやってきた。わかっている人間がどっちに、どこにいるか、そして誰なのか、それが見えないせいだ。とは言えいまの自分の立場上、連絡先はリハビリテーションセンターに決まっている。
 代表から知らぬ看護師に渡り、知った看護師に替わった。事情を伝えると先方も認識しているようで安堵した。明日午後の診療結果を明後日の午前中に伝えてくれるとの約束を取り付けた。二学期が始まってまだ一週間とは言うものの、このまま彼らに依存する状態を続けてはならない。特に多田のあの様子は心配だ。西尾と上戸だって運がいいだけだろう。ここで同じ問題に関係する二人のあいだに恋が始まったのは、もはや僥倖としか言いようがない。あゝ、いや、そうとも言い切れないか。しかし、まあいずれにしても――
 一介の保健室の先生には荷が重いよ…と一人で呟いてから、里村はファイルを抽斗の奥に戻した。
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