§11 07月14日(木) 14時頃 ひとり足りない

文字数 4,625文字

 駅で待ち合わせてバスに乗った。病院と駅のあいだを循環する路線は恐らくいちばん(それもほぼ終日)混み合っている。そして言うまでもなく年寄りが多いから三人は初めから立った。奈々がつかまる吊り革の左右で、雅臣と瑛太は吊り革が下がっている横に渡されたバーをつかんでいる。三人の後からも人が乗り込んできて車内は蒸し暑かった。長身の二人に挟まれた奈々は不満気に瑛太を見上げた。
「ふたりはいいよね、空気の綺麗な上澄みの中にいてさ」
「確かに安定した空気中では二酸化炭素は沈むはずだね」
「じゃあ西尾、両側から持ち上げてやろうか?」
「え、どうやって?」
「脇の下に腕入れて。そんなに重くないだろう?」
「そんなにじゃなくてぜんぜん重くないよ! でもいい。捕まった宇宙人みたいになるのイヤ」
 病院前のバス停でほとんどの乗客が降りた。奈々が受付をしているあいだ雅臣と瑛太は後ろでぼんやりと突っ立って待った。案内板に従って廊下をいくつか曲がりエレベーターに乗った。昨日は三十度を超える猛暑だったのに今日は朝から雨が降り続いている。ナースセンターで教えられた部屋番号を廊下に貼ってある案内図で見れば、驚いたことにこのフロアーでいちばん大きな個室だった。
「あいつの家って大金持ちに見えたか?」
「あのトレーニングマシンはちょっと凄いけどね」
「なるほど確かにあんなもの家に置いてるやつは金持ちに違いない」
「退院祝いにプレゼントしてもらったとか言ってなかった?」
「それなら親戚に金持ちがいるってことになるな」
「多田くんさっきから『金持ち』ばっかり言ってる」
「いや俺はそんなに卑しい人間ではないぞ」
 扉をノックすると思いがけず女性の声が応えたものだから、三人はさっと顔を見合わせた。いや、雅臣と瑛太が奈々の顔を見た。木曜日には例の「謎の美女」がいないとの事前情報を口にしたのは奈々であり、それがガセネタだったのかと疑ったのである。
 しかし奈々にはその声が「ゆかりさん」のものではないことがすぐにわかった。二人の男をちらっと蔑むように一瞥してから――まったく体は大きいくせに気が小さいんだから――、奈々は静かにゆっくりと扉を引いた。奥の壁際のベッドに右手を頭にして衛が横になっており、真正面の向かい側に若い看護師が座っていた。
 手前にはすでに椅子が三つ用意されている。室内に入り扉を閉めた三人は衛の頭に近いほうから奈々、瑛太、雅臣と座った。いや、奈々と瑛太は確かにそのまま座ったのだが、雅臣は下ろしかけた腰を中空で思わず止めていた。目の前の薄掛けの足元があり得ない形に凹んでいたからだ。
「……あゝ、ごめん。そうだったよな」
 と、呻くように呟きながら、改めて雅臣が腰を下ろした。
「うん、そうなんだよ。やっぱりちょっとビックリするよね」
「悪い。西尾から聞いてはいたんだが」
「気にしなくていいよ。みんな最初はビックリする」
「なんのこと?」
「いや、だから――」
「西尾さん、僕は膝から下を取っちゃったんだよ」
 言われて視線を向けた先の景色に、奈々は思わず両手で口を覆い、大きく目を見張った。あまり感情を表に出さない瑛太も隣りで唖然とした。じっと見入ってしまっていた奈々は、ふと慌てて顔を下げた。その危うい様子に反応して瑛太が腕を奈々の背中に回した。
「ごめんなさい。大丈夫」
 と、瑛太に笑顔を見せてから、奈々は衛にもその無理につくったことがはっきりとわかる笑みを向けた。
「久瀬くん、ごめんね」
「謝ることじゃないよ。僕だって自分で見てビックリしたんだから。西尾さんが平然と構えてたらそのほうがよっぽど驚かされる。見た目は十七歳の可愛らしい女の子だけど中身はベテラン看護師と入れ替わってるんじゃないかって疑うね」
「そう言えば新海誠の新作はそういう話らしいぞ」
「女の子とオバサンが入れ替わるの?」
「いや、入れ替わるのは高校生の男女だったな」
「それじゃ多田くんぜんぜん普通のやつだよ」
 そこでふと木之下が立ち上がった。
「じゃ、衛くん。なにかあったら呼んでね」
「あれ? 真由ちゃん行っちゃうの?」
「私がいたら話しにくいでしょう?」
「僕は平気だけど」
「あんたのことじゃないわよ。――この子、どこも悪くないから、ふつうに話していいですよ」
 木之下は敢えて奈々の顔を見ながらそう言ってベッドの頭のほうを回った。三人はなんとなく少し腰を浮かせて看護師に会釈しつつ見送った。振り返ると、衛がにやにや笑っていた。
「ひとり足りないように思えるのは僕の気のせいだろうか?」
「あ! あの、それはね、あのね――」
「いやいや、説明は要らない。僕はなんでも知っているから」
「ウソ!? なんで知ってるの!?
「あのメッセージにすべてが凝縮されていた、とでも言えばいいかな。三人のこの座り方から僕が推察したところでは、そしてついさっき僕の脚を見たときの二人のやり取りを鑑みるに、蓑田さんは実は密かに上戸くんに想いを寄せていたわけだね。そのことを西尾さんにだけはこっそり告げていた。ところがなんと、あろうことか当の西尾さんの裏切りに遭った。それがあの衝撃的なメッセージの裏に隠された驚愕の事実というわけさ。――どう? 慧眼だろう?」
 さすがに「裏切り」と言われてしまうと奈々には言葉が返せなかった。
「久瀬、確かにストーリー展開はその通りなんだが、しかしな、蓑田が上戸を好きだってのは密かでもなんでもない、全人類に知れ渡ってた話だぞ?」
「え、そうなの? じゃあ上戸くんも知ってたわけ? じゃあ最低なのは上戸くんのほうってこと?」
「いや、最低なのはやっぱり西尾のほうだろうなあ」
「多、多田くん……」
「それより久瀬、いまのスーパーセクシーな看護婦とおまえはいかにも親しげに見えたのだが」
「あゝ、真由ちゃん? 彼女は僕の専任の看護師だよ」
「専任だと!? おまえそれどうして黙ってた?」
「多田くんに毎日用もなく面会に来られたら迷惑だからさ」
「仮に毎日来るとしてもおまえに会うためではない」
「僕と顔を合わせることなく真由ちゃんに会うのは不可能だ」
「そうか。専任というのはそこまで従属されられるものなのか。久瀬、おまえは俺が想像していた以上に偉いやつだな」
「正確には偉いのは僕じゃないけどね」
「久瀬くん、西尾さんを誘って口説いたのはもちろん俺のほうからなんだよ」
「ということは西尾さんはいま嫌々上戸くんに付き合ってあげてるわけだね」
「え、そうなのか?」
「違うよ!」
 どうしたのだろう? こんなふうに会話が弾むなんて。もちろん喜ばしいことだけれど。久瀬くんは確かに迷惑そうな顔をしていたはずだったのに。私たちがお見舞いの話を口にした時のことだ。来たいと言うなら敢えて拒絶はしない、そんな顔をしていた。いつどこでなにが変わったのだろう? それとも変わったのは私たちのほうだろうか? 私が上戸くんと付き合うようになって安心したとか? それはちょっと、らしくない。でもそんなことはたぶんどうでもいいことだ。多田くんも上戸くんも楽しそうに話している。口を開くのはもっぱら多田くんのほうだがそれはいつものこと。上戸くんもこの場を嫌がっていない。それはよくわかる。もちろん私も。相変わらずこうして話をすると私はまだ久瀬くんのことが好きなのだとはっきり意識させられるけれど、でもこのおかしな感じはもう恋心とは縁を切っている。久瀬くんのおかしな感じと上戸くんのおかしな感じは違う。久瀬くんには少々困惑させられる。なにを考えているのかわからない。上戸くんに困惑はしない。上戸くんのおかしな感じはそのまま素直に嬉しいし、もっとおかしなことを口にして欲しいし、そうして私を愉しませてほしい。だけどそれは二人きりのときの話。いまは久瀬くんのおかしな感じも不思議なことにちょっといい感じだ。
「ねえ、義足で登校するの?」
「いや、それは危ないからしない。でも学校では少しつけるかな。ちょくちょくつけて慣れて行かないといつまで経っても使えるようにならないんだよ。でもそうは言っても教室ではしないと思う。どうせ車椅子に座ってるわけだし。みんなを驚かせたくないしね」
「じゃあどこでやるの?」
「里村さんのところになるはずだよ」
「あゝ、そうだね。里村先生いると安心かもね」
「安心かどうかは夏休み中の里村さんの心がけ次第だな。ちゃんと勉強しておくように伝わってるはずなんだけど。僕の身に起きたこと、これから起きるかもしれないこと、そういうのをしっかり勉強しておくように、て」
「そう言えば里村さん、そんなこと俺にも言ってたような気がする」
「つまり久瀬、あのスーパーセクシーな看護婦は学校には連れてこないってことか? 退院したら解任か? それであの里村のオバサンになるって? ずいぶん酷い落差だなあ」
「いや、里村さんが言うにはね、久瀬や俺みたいなタイプは、ずっと年上の女のほうがいいらしい」
「――あの、私、同級生なんですけど?」
「安心しろ。上戸は変人だが、さすがに西尾から里村に乗り換えたりはしない」
「そうだよね?」
「そもそもあの里村が久瀬のケアなんてちゃんとやるのか? あいつ部活で怪我したやつとか連れてっても、適当に絆創膏でも貼っときな、みたいな感じだぜ?」
「やるしかないんだよ。里村さんにはほかに選択肢はないんだ。OBから圧力かかってるからね」
「OB? 大物なんだな? 何者だ?」
「フルサワ精器の社長さん」
「フルサワ精器? OB会の会長だよな、あそこの社長。え、久瀬となんか関係あるのか?」
「父さんの親友なんだ。母さんを奪い合ったライバルでもあった。古澤氏は元々ちょっとヤバい人だったけど、僕の事故のせいでとんでもなくヤバい人になってね。病院にも学校にも、そもそも警察にも圧力をかけた。あ、トレーニングマシンをプレゼントしてくれたのも古澤氏だよ」
「ほら見ろ、西尾、やっぱり久瀬には金持ちがついてたろう?」
「多田くん、卑しい目になってるよ」
 本当にどうしたのだろう? やはりいつもの久瀬衛と違う。思い出したくないけれどあの日のカフェの雰囲気に近い。フラれるとわかっていて告白したあの日のカフェだ。あのときも久瀬くんはちょっとおかしかった。おかしなことばかり口にした。学校では違う。学校ではいつも居心地の悪そうな様子をしている。留年しているからではない。そんなことは私たちはもうすっかり忘れている。ここが病院だからだろうか。病院の、それも広い個室で、若くて可愛らしい専任の看護師がいて、それに今は私たちしかいないから。今日は木曜日だからあの人は日が暮れてからやってくる。家族は病院には来ないと言っていた。家との連絡はあの人がしているとメッセージに書いてあった。つまりここには久瀬くんが受け入れを認めた、あるいは求めた人間しかやってこない。私たちもそうなの? 受け入れてくれたということ? 求めてくれたということ? それならきっと二学期から世界は変わってくる。脚がなくなっているのには驚いたけれど、聞いていたはずなのに薄い上掛けがすとんと平らになっているのを見て思わず息を呑んでしまったけれど、それだけではない。卒業するまでの一年半を、私たちは久瀬くんとともに過ごすことになる。もしかすると、卒業アルバムの顔写真がすべて真っ黒か真っ白になってしまうような事態からも、久瀬くんを引き剥がせるかもしれない……。
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