§25 10月22日(土) 18時頃 日常生活のための三時間

文字数 5,808文字

 衛も友香里も同意したうえで薫が決めたことではあるものの、実際に十八時から二十一時までの空白の三時間がやってきてみると、その喪失の深さ、まるで底が抜けてしまったような感覚は、想像を遥かに超えていた。起きていることはどこにでもだれにでもあるやつで、たとえば空港のロビーであるとか、駅の改札であるとか、三差路の辻であるとか、コンビニの駐車場であるとか、特定の空間がその後の時間を分かつ際に、いつまでも離れ難く暮れて行く空の色や時計の針の角度なんかを眺めつつ恨めしく思う感情を、その場に捨て切れず持ち帰ってしまったがために生じることになるお馴染みの渇望に過ぎなかった。朝から一日離れずにいたことも、そして言うまでもなく「友香里の部屋」なる面妖な空間が誕生したこともまた、大いに預かっている。不用意にそのような時空間を用意してはいけないと、古くからの戒めが示す通りに。
 この空白の三時間は、しかし決して虚ろなままに待たなければならないものではない。入浴や食事や宿題や翌日の支度など、極めて実際的な日常生活からの要請で埋められるのである。従って三時間などあっという間に過ぎ去ってしまうはずであり、どこかでちょっとでも躓けば、途切れた状況が約束の二十一時に再開されない事態だって普通に起こり得る。むしろ日常と呼ばれる時間のほとんどは、なにをしていたと特筆されるべき事柄もないままに過ぎ行くものだ。生活というやつは決して薄のろではない。取り分はきっちり取る。取らずに済ますことなど絶対にない。だからこそ救いになる。三時間、じっと時計の針を睨みつけていなくてもいい。
 自宅に着いた友香里はすぐに母と一緒に夕食の支度に取り掛かった。お部屋は片付いたの?と母は当たり前のことのように尋ねてくれた。窓が高くて明るくて居心地のいい部屋だったと話すと微笑んでくれた。衛に幻肢痛が発生した当初は夜中に友香里が駆けつけるたびに心配そうに具合を尋ねてきたが、久瀬の家に部屋を増築するという話を伝えてからは一切口にしなくなった。母は衛の具合を心配していたのではなく、そんなふうに夜中に駆けつけなければならない生活が続くことを、つまりはそれで友香里が体調を崩したりしないかを心配していたのだ。衛の部屋でベッドの脇におざなりに布団を敷いて朝を迎えるのではなく、まがりなりにもきちんとした「友香里の部屋」が用意されると聞いて母は安心したのだろう。それは言い換えれば、久瀬の家が友香里を正当に遇してくれる証を具体的な形で確かめられる印でもあったから。
 父は理解する努力をいつしか放棄していた。すべて母に委ねてしまい自分はただ娘にやさしい、甘い父親に徹すると決めてしまった。この一年の自分の振る舞いを二人がどう見て考えてきたのかを友香里は知らない。不快や不満や、あるいは懸念の表情も、二人は友香里に見せてこなかった。しかし推し量ることができないわけでもない。きっと〈周〉の事故を、いや事件を、やはり二人もまた思い起こしていたのだろうと思う。もしかすると同じ結末にならないかと案じるところもいくらかはあったかもしれない。けれど衛は〈周〉とは違うと言ってみたところで通じるものではない。上戸瑛太にも言ったように、私は十歳の少年など求めてはいなかった。十歳の少年など求められても応えようがないではないか。しかし十七歳の、いまは十八歳になった衛のことは、胸が裂けるほどに求めている。今度は立場が逆転しているのだと、二人にはちゃんと伝わってきたのだろうか。
 食事と入浴を終えると八時を過ぎた。湯上りの体を冷ましながら、なにか持って行くものがなかったかと自室を見回した。しかしこれは昨夜もさんざん考えて今朝を迎えたはずであり、今日一日を過ごしてみてもなにかに困った記憶はない。私は毎晩風呂上りになにをしてきたか。ベッドに入るまでの時間をどう過ごしてきたか。不思議なことになにも思いつかない。毎晩九時に就寝してるわけでもなく、日付を跨ぐ時間になることだって多いのに、いったいここでなにをしてきたのだろう。この二月(ふたつき)ばかりのことは憶えている。今夜は衛は大丈夫だろうかと案じていた。もちろん薫からの電話はないほうがいい。けれども薫からの電話を私は待っていた。期待して待っていた。なにごともなく朝に目覚めると、もしかして自分はもう必要とされなくなったのではないかと、少し不安に感じたりもした。
 だけどそんな夜は昨日を最後に終わった。将来のことはわからない。衛にはもう口にしないと約束したけれど、まさか泣き出すなんて思いもしなかったし、だけど、今の痛みがなくなって、義足も上手に使えるようになって、大学生になって――そう考えてしまうことは抑えられない。そんなことになれば今度は私のほうがいつまでも泣き続けるだろう。なにしろそこにはお馴染みの〈魂〉と〈肉〉と〈時間〉の問題が横たわっており、私たちには手も足も出ない。だからそうなっても仕方がないのだという考えは、やはりどこかにある。あるけれども、今日がひとつの屈曲点であり、昨日と明日のあいだで世界が大きく折れ曲がったのは事実だ。昨日から今日に受け渡されなかったものがたくさんある。きっと明日になって初めて目にするものがたくさんある。天気予報は明日は晴れると言っている。もちろん私のために晴れるわけではないけれど。空は勝手に晴れたり曇ったり降ったりするものではあるけれど。
 友香里は時計を見て、結局いつもバッグに入れているものだけを手に家を出た。母と父はリビングでテレビを見ていた。今日から始まる奇妙な毎晩をどう考えているのかわからないが、ずっと続いてきているかのように特別な挨拶もなく家を出た。車に乗り、キーを回す。ヘッドライトの先にはなにも映らない。それなのにアクセルを踏み込めない。どうしたの? 衛が待ってるのよ? 五分でも遅れたら、あの子きっとむくれるわ。大丈夫。私はちゃんと求められている。私が求めているのと同じように。友香里はひとつ大きく深呼吸をした。アクセルペダルに乗せた足は今度は素直に言うことを聞いてくれた。ゆっくりと踏み込めば、ゆっくりと動き出す。大丈夫。いい子ね。大丈夫よ。心配しなくていい。少なくとも今夜は。きっと明日も。たぶん明後日も。

      *

 窓辺から友香里を見送ったあといつものようにトレーニングマシンを使い、風呂に入り、食事を終えると薫が遊びに来た。パジャマを抱えていたから風呂に向かう途中で寄り道をしたくなったのだろう。衛はベッドに寝ころんで文庫本を開いていた。ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』――宣伝文句はSF小説であるかのように記されていたが、ちょうどこのときに読み始めたばかりの第一節「ダニエル24―1」には「マンコ」と「ヴァギナ」の話しか出てこない。加えて、セックスから従前の満足を得られなくなりつつある中年の女たち。現代版『ヸタ・セクスアリス』みたいなものだと思っていればいいのかな、と考えながら衛は本を閉じ薫を迎えた。
 特段なんの話があるというわけでもなかった。なんの本を読んでいるのかと尋ねられたから、さすがに「マンコ」と「ヴァギナ」に関する話だとは言えず、言っても別によかったとは思うけれど、衛はうろ覚えの宣伝文句から適当な単語を拾って適切な説明をこしらえた。薫の興味・関心を引き寄せる可能性の低い紹介文をつくったという意味だ。薫はふ~んと言ったきり本への興味・関心をなくし、珍しく衛のベッドの足元に座った。衛のベッドは標準サイズなので足元のほうが広く開いている。膝関節離断をしているからといってわざわざ寸足らずなベッドを特注する人間はいない。たぶん、いない。少なくとも僕はしないと衛は思った。そんなことをしたら、興奮した友香里さんが騎乗位のまま上体を後ろに逸らした際、手をつこうとした先の虚空に頭から逆さまに落っこちてしまう。その瞬間に僕の「チンコ」は友香里さんの「マンコ」からするりと抜けてしまう。
 今日の薫は少しおかしくなっているようで、珍しく衛の断端にそっと手を置いた。ここはどこかと尋ねるから見た通り膝の少し上だと答えた。すると、これまでの継起をすべて捨象してもやはりそうなのかと訊いてくるので、僕の脳が後生大事に抱えている僕の完全な四肢のイメージに於いてもそうだと答えた。薫がそれで満足したのかどうか、衛にはわからない。が、薫が口にしたかったのは実はそこにはなく、友香里さんが触るとほとんどその瞬間に痛みが消えるのが不思議でしょうがないと言った。それは衛にも不思議なことだったので、確かに不思議だと応じるしかなかった。衛は友香里が触れた瞬間に初めてそこに友香里がいることに気づくのである。それを求めて待ち構えているのではないということだ。だから余計に不思議な出来事になる。
 ひとまず「紺野友香里は魔女である」との結論をもって落ち着くのでもいい。「魔女」は極めて多義的な言葉だ。善悪を軽く超えている。善悪だなんて陳腐な物差しでは測り切れない。残念なことに、いやたぶん幸運なことに、薫のほうは「魔女」ではない。友香里がそばにいない夜に激烈な痛みに襲われると薫は確かに飛んできてくれる。しかし薫の手では痛みは治まらない。そもそも薫が友香里に連絡してくれること以上のなにかをしてくれているのか衛には記憶がない。とはいえ飛び起きて駆け下りてきてくれるのは薫なのであり、薫がいなければ大変なことになっていたかもしれない。「友香里の部屋」なるものを用意した意図を、むろん衛は正しく理解していた。薫は東京に行く。事ここに至っては、もう駄々を捏ねたりはしないというわけだ。
 薫の手はこれと言ってなにをするでもなく衛の断端に置かれていた。特に因果はないのだろうけれど、いや絶対そこに因果などあろうはずがないのだが、衛の幻肢痛の発生後、薫の成績は上向いている。東京の有名私大の法学部の大半が合格圏に入ってきた。さすがにトップ校までは届かないものの、全国区の名前がずらりと並んでいる。薫はどの大学のキャンパスがどこにあるかをさっきから衛にしゃべっているのだが、東京に暮らしたことのない二人にはそこで口にされる地名のイメージがまったく湧いていない。千代田区であれば皇居が連想され、新宿区であれば歌舞伎町が連想され、渋谷区であればスクランブル交差点が連想され、港区であれば六本木ヒルズが連想される。残念なことに歌舞伎町にもセンター街にも六本木にも大学はない。皇居の中にもない。
 薫は八時半を回ったところで部屋を出て行った。衛はふたたび本を手に取ったが九時が近いことを思って開くのをやめた。繁華街からも国道や高速からも離れている住宅地は土曜の夜の静けさの底にひっそりと横たわっている。ぼんやりと天井を眺めているうちに車の音が聴こえてくるだろう。門扉を開け閉めし窓のすぐ外のドアへ向かう足音も聴こえるだろう。友香里のベッドに待っていたらきっと悲鳴を上げることになる。表から部屋に上がってひょいと壁を回ればすぐ目の前にベッドがあるのだ。悲鳴を聞きたい気分もないではないけれど、今日は車が停まりドアを閉める音がしたら車椅子に移って待つほうがいい。驚かせる楽しみはこれからはいつもそこにある。
 事故から一年後になって、まさかこんな生活が待っているとは思いも寄らなかった。でもそんなのは当たり前である。想像なんかできるはずがない。夢想すらしようとは思えない。あのときはただとんでもないことになったと考えていただけだ。脊椎や腰椎が無事で本当に助かったと考えていただけだ。それから少しして、こんな綺麗な人が週に二日も訪ねてきてくれるのはなんとも素敵なことだなと思った。さらに日が経って、こんな綺麗な人が手を胸に抱いてくれるばかりか勃起の始末までしてくれることに驚いていた。むろんなにか思いがけない事情があるのだろうとは考えた。しかしそれを聞いてしまったら終わってしまうような気がしたから黙っていた。たぶんあれは正解だったのだ。どんな事情があるにせよ、一年後にこんな日を迎えることになったのだから。
 いつからか期待はし始めていたものの、正直まさかこんなことになるとは思っていなかった。回復期リハビリテーション病棟に移るとき、警察官でなくなっても会いに来ていいかと言われて仰天したのを憶えている。仰天したのはそのあとにしてくれたキスがあんまり素敵だったからかもしれない。それでも退院したあとはどうなるかわからないとの思いはずっとあった。離断手術を終えたあとはどうなるかわからないとの思いはずっとあった。だけどいつの間にかそれらを乗り越えていた。そして世界はわからないことばかりで埋め尽くされてしまった。だからもう一度この世界との契約を結び直さなければいけなくなった。薫と古澤がそのための部屋を用意してくれた。あの部屋は僕の揺り籠だ。僕はふたたびまだ〈父の名〉を知る前の状態に戻ったのだ。
 いや、僕はやっぱり嘘をついている。彼女は最初からすべてを承知していた。なんらか経験に裏付けられた紛れることのない直感というやつによって。僕にはまだそんなものはない。あのときもなかったし、いまもまだない。だから僕は彼女の腕の中で口いっぱいに彼女のおっぱいを咥える。どうしてかって? なんでそんなことを訊くの? だってみんなそこから始めてきたわけだろう? いま言ったばかりじゃないか。友香里さんの部屋は僕の揺り籠なんだよ。揺り籠に入れられてしまうような人間はね、友香里さんみたいに素敵な女の人のおっぱいを口いっぱいに咥えるものさ。こういう言い回しっていつもどこかホールデンを思わせるのはどうしてかな。僕は不出来でも不真面目でもない、どちらかと言えば優秀で真面目な少年のはずなのにね。実際、ライ麦畑のキャッチャーなんて仕事は考えただけで反吐が出る。僕は小さな子供が、それも子供たちが嫌いなんだよ。
 車の音が聴こえた。ドアを閉める音が聴こえた。衛は車椅子に移り、窓辺に寄った。門扉を開閉して歩き出した友香里が窓ガラスの中に衛の顔を見つけ、ふと足をとめ、にっこりと微笑んで小さく手を振った。衛もにっこりと微笑んで小さく手を振った。
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