§06 07月08日(金) 18時頃 逢瀬(3)

文字数 2,116文字

「明日は部活行かないと」
 夕暮れの路地で発した瑛太の言葉に、思わず奈々の足が止まった。互いの手が分かち難くつながっていることからもたらされる運動力学的な作用の結果として、並んで前方へと歩いていた瑛太の体はいきなり後方へと引っ張られた。なにごとかと顔を振り向けた先で無表情に見開いた強い眼差しにぶつかった。
「いまなんて?」
「明日の午前中は部活」
「退部届けを出しに行くの?」
「さすがに三日もサボるわけにはいかない」
「弱小バスケ部なのに?」
「そういう問題ではない」
「そういう問題だって言ったよ、今朝」
「そんな暴言を吐いた覚えはない」
「ふ~ん。じゃあ私は午前中なにをしてればいいのかな?」
「そう言えば西尾さんて帰宅部?」
「茶道部兼華道部。活動はほぼ自由。つまり活動なんてないも同然。そんなことより明日の私の大事な午前中は?」
「そうだなあ……」
「大切な私の明日の午前中は?」
「形容動詞の位置を入れ替えてきたね?」
「明日の午前中が大事なのではなく、もちろん大事ではありますが、なにより私を大切に取り扱うべきあなたのお気持ちをこそ、お尋ねしなければならないと思いました」
「ここで頑是ないと口にしたら、君は烈火のごとく怒るのかな?」
「わたくしあなたに身を捧げ、捧げるなら明日の午前中にと、か、か、覚悟を決めておりました、ましたのに」
「不用意な嘘をついてはいけない。歩きながら話そう。このままだと君の家にたどり着かない」
 顔を真っ赤にした奈々があちこちで噛みながら、そんなどこから借りてきたのか怪しげなセリフを口にしたものだから、むろんわざとそんなセリフを口にしようとして失敗したわけだけれど、これは歩き出したほうが良さそうだと瑛太は考えた。実際、それで奈々の暴発はすんでのところで回避された。隣りで大きく息を吐き出す様子に笑い出しそうになるのを瑛太は必死に堪えた。
「ねえ、部活って見学あり?」
「騒動を巻き起こす覚悟があるのなら」
「ありません」
「じゃあ、おとなしくいい子ちゃんにして待ってて」
「いい子ちゃんかあ……」
「やっぱり久瀬のお見舞いに行ってあげたらどう?」
「上戸くん、大した自信じゃない?」
「昔の男に会いに行くことを勧めるなんてね」
「昔の男じゃないから。――そうだ、言ってなかったけど、私実は告白済みなの」
「そんな気はしてた」
「久瀬くん、なんて答えたと思う?」
「きっととびきりクールなやつなんだろう」
「聞かなければよかったやつ、とか言ったのよ! 信じられる?」
「その発言に至る前にややこしいやり取りがあったんだろうなあ、と想像するよ」
「そうね。そうだったかも。よく覚えてないけどシュリーマンが出てきた」
「どこからイリオスの遺構が?」
「たぶん駅の下よ。この街に地下鉄が走ることなんてあり得ないから、きっと永遠に埋まったままね」
「本当に行ってあげたらいいと思うけどなあ」
「そこで私が久瀬くんに略奪されてもかまわない?」
「久瀬の前には天を衝くほどの城壁が立ちはだかっていたかと」
「はい、そうでした」
 城下町の名残を残す碁盤目の路地を抜けた。奈々の家はそこから橋を渡った先にある。この街が広がる平野を形成した大きな川にかかる橋だ。午後には気持ちのいい晴れ間が覗いたけれど、日暮れて空はやや厚い雲に覆われ始めていた。この週末はふたたび梅雨空に戻る。本当に衛の見舞いに行くのなら明日の待ち合わせは駅にしようと瑛太が言った。そんなことは今ここで決められないと奈々が首を横に振った。家が近づいてきて、奈々の歩みが重たくなった。昨日もそうだった。しかし西尾奈々という女の子は、どうして私たちはこんな時間にさよならをしなければいけないの?などと言って瑛太を困らせたりはしない。歩みが重たくなるまでが精いっぱいの抵抗だった。
「明日も上戸くんの家に行っていい?」
「なにもないけど」
「上戸くんがいるわ」
「百点の答えだね。でも明日は家族もいる」
「家族がいたら困る?」
「いまのところ困らない」
「いまのところ?」
「そう。いまのところは」
 奈々は少しだけ首を傾げて見せた。
「お姉さんに会える?」
「見た目がいいだけの空っぽな女だよ」
「酷い言い方。あゝ、もう田野倉さんちだ」
「あと二軒かな?」
「まだ三軒ある」
「ちゃんと歩こう」
「わかってるわよ」
「部活終わったら連絡するよ」
「何時?」
「十二時」
「十一時半からスマホ見てればいい?」
「十二時に終わるんだよ」
「たまに早く終わったりしない?」
「しない。遅くなることはある」
「酷い……。あゝ、もう着いちゃう」
「最後はどうしようか?」
「最後? あ、考えてなかった。え? どうしよう。昨日どうしたっけ?」
「両手を握った」
「あ、そうだ。でも、あゝ、うん、それでいい、かな」
「――じゃあ、また明日」
「うん、また明日。じゃなくて、あとで電話する!」
「いいよ。スマホを睨みつけて待ってよう」
「そうして」
 手を離し、門扉を開いて体を入れ、振り返り、門扉を閉じ、背中を向けて数歩、玄関の前に立ち、振り返り、背中を向けてドアを開け、振り返り、背中からゆっくりと玄関に入り、ギュッと目をつむってドアを閉めた。どうやら俺は紛れもなく陥落したらしいと瑛太は思った。
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