§17 08月29日(月) 19時頃 昔々で始まる御伽噺

文字数 4,552文字

 ヘッドライトを切ろうとした瞬間に手が止まった。見覚えのある少年が正面から灯りを浴びて立っている。友香里は改めてヘッドライトを落としドアを開けた。が、少年が助手席のほうから歩み寄ってきたため反射的にドアを閉めた。少年はドアに至る手前に立ち止まり慌てて軽く両手を上げ笑みを見せた。悪意を持って近づいたのではないという表明だろう。いずれにしろすでに我が家の敷地内に入っており、エンジン音は両親の耳に届いているはずだった。友香里はルームランプを点けて受け入れる意向を示した。少年は殊更ゆっくりとした動作で助手席に座った。
「ドアを開けておきますか?」
「蚊に刺されるわよ」
「閉めていいんですね?」
「早く閉めてちょうだい」
 少年はゆっくりと腕を動かしてほとんど音を立てずにドアを閉めた。
「多田くんのほうかしら?」
「上戸くんのほうです」
「ごめんなさい」
「お気になさらず。でも僕らの名前を聞いていたんですね。久瀬はどこかの少年と少女くらいにしかあなたには話していないのではないかと思っていた」
「そうね。どこかの少年と少女がどうして僕に頑張れなんて言うんだろう?て不思議がってたわ」
「それなら納得がいく。満足ですと言うべきかもしれない」
 友香里は抜いていたキーを差し直しエアコンのスイッチを入れた。
「どうやってここを突きとめたの?」
「そうしたアプローチは一切していません。信じてもらえないかもしれないけど、本当に偶然ここを見つけた。薄いグリーンの自動車と、庭にできた奇妙な二本の轍を」
「家が近いのね」
「えゝ、僕の友人の家が。もしかすると僕らは同じ小学校を卒業しているかもしれない。中学も同じだった可能性が高いと考えるべきでしょう。ちょうど目の前の路が学区を分けていないのであれば」
「この辺りは同じ学区よ。小学校も中学校も」
「やはり先輩後輩というわけですね」
「どこのお宅なのかしら? あなたのお友達というのは」
「先ほど偶然と言いましたが、もしかすると僕らは引き合わされたのかもしれない。こうしてここに待っていたのですから、あなたには容易に想像できるはずですよ?」
 大人の女が驚愕と恐怖に見開く眼を、瑛太は初めて目の当たりにし、思わずびくりと身を震わせてから、この場所でこんな時間にこんな方法で待ったことを後悔した。これは失敗するやつだと直感した。しかしやめるわけにはいかない。もう車に乗ってしまっている。俄かに緊張が高まった。
 女は次の瞬間には感情を抑え込んでいた。表情もすっかり落ち着いて瑛太をまっすぐに見据えた。
「私たちは会っているのね」
「はい。あなたは大学生でした」
「今頃になってわざわざこの辺りに来たのにはなにか理由があるの?」
「ありますよ。西尾奈々を周に紹介するためです」
「西尾さん?」
「彼女は久瀬に恋をしていました。しかしあっさりとあなたに弾き返されてしまい、たまたま通りかかった僕の腕の中に納まった。そこで僕は彼女を――」
「そんなことがあったなんて衛はひとことも教えてくれなかったわ」
 今度は瑛太のほうが驚いたように目を剥いて、しかしこちらもすぐにそれを収めた。
「なに?」
「いえ。あなたが周ではなく久瀬の名前を口にしたものだから」
「え、それが?」
「なんと言うか、虚を衝かれました。僕は周の話を始めたはずなのに」
「あゝ、そういうことだったの。――そうね、確かに衛にはちょっと周くんに似てるところがあるかもしれないわね。でも二人は別人よ。衛の上になにか周くんの影みたいなものを探そうとしているなら諦めたほうがいいわ。そういうお話がしたかったんでしょう?」
「久瀬は周の存在を知っていますか?」
「いいえ」
「なにひとつ?」
「だって衛は小学生のとき仙台とか盛岡とかにいて、この街にはいなかったんだもの」
「東京にも?」
「衛と周くんに現実的なつながりなんてないわよ」
「だけど僕らならつなげて見ることができる」
「二人をつなげることに意味はないでしょう」
「じゃあ、あなたはつなげて見ていない?」
「そんなことをする必要がどこにあるの?」
 二度目の瑛太にはそれをうまく収めることができなかった。
「なぜです? なぜそんなことを言うんです? それでは周はどうすれば――」
「上戸くん――」
「それではなぜあなたはあの桜の樹の蔭に立ったりするんですか? あの樹の枝先に周を見つけたからではないんですか? それともあのときもあなたには周など見えていなかったと? あなたには久瀬しか見えていなかったと? あなたは知っていたはずではないですか。周はずっとあなたに憧れていたんだ。知らなかったはずはない。わからなかったはずはない。あなたはあのときもう大人だったのだから、そんな簡単なことがわからないはずがない」
「おかしなことを言わないで」
「俺がおかしなことを言っている?」
「言ってるわ。だってあなた、十歳の男の子が二十七の女を満足させられる?」
「そんな話はしていない!」
「そんな話なのよ。周は十歳、衛は十八歳。この先も差は拡がっていくだけ。そういう話なの。あなたいまいくつ? もう十七になった? あの子ともうキスくらいしたんでしょう? もうあそこを舐めてあげたりした? もうあそこに入れてあげた? 周にそれができる? できるわけないわよね。だからあなたも私と同じ。私たちは周を置き去りにしてここまで来たの。私たちがいる今ここには、この場所には、周はいないのよ」
 ドアは乱暴に閉められた。車体を振るわせ空気を圧し潰した。友香里はハンドルに両肘を乗せ、額を両手に支えた。こんな形で揺さぶられるとは想定したことがない。想定しておくべき事柄でもない。周はただのご近所の少年に過ぎない。周と衛をつなごうとする人間は確かに私たちしかいないだろう。しかし「私たち」になるとは思っていなかった。そこは「私」だけにとどまるものと考えていた。漠然と、だ。漠然と、に決まっているではないか。
 ドアが閉まる大きな音がしてもなかなか娘が家に入ってこないことを怪しんで、父親が玄関から庭先を回ってきた。コンコンと助手席の窓を叩かれて、友香里ははッとして顔を上げた。車を降りるとその場で言い訳をつくろった。家に着いたとたんに電話があり、不愉快な電話だったからそのまま家に入る気がしなかった。思わずドアを強く閉めてしまった。だけどもう大丈夫。不愉快ではあったけれど、不愉快なだけで実害はない。父は笑い、食事の支度が出来ていると告げた。
 共働きの両親は友香里が衛を乗せて家を出る六時過ぎから七時までのあいだに帰宅する。その間にだいたい母が夕食の支度を終えていた。衛が家に出入りしていることはむろん承知している。彼が十八歳の高校生であることも。両脚の膝から下を離断し車椅子を使っていることも。間接的にフルサワ精器と関係する家であることも。恐らくそのお陰で雇用を用意してもらえたことも。なにもかも友香里は包み隠さず両親に伝えた。おまえは本当に運がいいと、無邪気にも喜んでくれた。
 しかし周の話はしていない。仮に衛と顔を合わせても両親が周を思い浮かべることはないだろう。確かに雰囲気に似通ったところはある。だけど造作はまったく違う。それに我々にとって周はあくまでも十歳の少年のままだ。十八歳の高校生と重ねることはしない。それをするのはやはり自分と上戸だけだろう。しかし友香里にとってそれは決して眠れなくなるほどの話ではなかった。愉快ではないけれど実害のない話だ。「むかしむかし」で始まる御伽噺だ。
 九時過ぎに衛から電話があった。
「友香里さん、どうやら神様って人は僕のことが大好きらしいよ」
「知ってるわよ。今度はどんないいことがあったの?」
「明日ね、真由ちゃんがくるって連絡があったんだ。彼らは自分たちが奉じている価値観が如何に独善的で迷惑この上ないものであるかをやっと理解したというわけさ」
「さあ、そこまで行ってるかしらねえ。でも真由さんが来てくれると私も助かるわ」
「どうして友香里さんが助かるの?」
「だって、衛いっつもつまらなそうにしてるから」
「でも真由ちゃんがおっぱい押しつけてくるのとか見せられるんだよ?」
「彼女はそんなことしない人だから安心していられるわね」
「ふむ。最近の友香里さんはなんだか余裕綽々だな。僕は校内随一のハンサムボーイなんだぜ?」
「あら、あの学校に私より綺麗になりそうな女の子なんていたかしら?」
「う~む。もう高校生だからなあ、およそ勝敗は決してる感じだよなあ」
「ねえ、そんなことより、どうして急に真由さんが来ることになったの? なにか言ってた?」
「先週東氏に電話したからだと思うよ。折り返し真由ちゃんからいろいろ訊かれたよね? あのとき電話してる僕にこっそり友香里さんがあんな行為に及んでいただなんて、真由ちゃん想像もしてないだろうなあ」
「くれぐれも余計な話はしないように」
「僕がつまらなそうにしてるのはね、リハビリに行くと友香里さんちに寄る時間がなくなるからだよ」
「いまはリハビリのほうが大事よ」
「わかってるさ。明日きっと村井さんがなにか言ってくると思うんだよね。幻肢痛があるって知っちゃったからね。それとも村井さんは関係ないのかな?」
「それこそ真由さんにお願いしてみたらどう? 村井さんの話なら真面目に聞くよ、て」
「そっか。そうだね。そのために真由ちゃん来るんだよね、きっと」
「そうよ。衛だってそれを狙って東先生のほうに電話したんじゃないの?」
「う~ん、そこはちょっと違うんだ。僕ね、真由ちゃんと約束してたんだよ。痛みが出たら隠さないで報告する、て。痛みませんように、てお祈りしてくれたんだよ。でもダメだった。届かなかった。だから東氏に電話したんだ。真由ちゃんと約束した話だからね」
「いい約束をしてくれたのね。やっぱり真由さんは信用できる人だわ」
「あんまり暢気に構えてると痛い目に遭うよ。裏切りは女の子のお家芸だろう?」
「なにを根拠にそんなデタラメを?」
「実例を知ってるからさ。――あ、そうだ! 僕まだ友香里さんに言ってなかった。西尾さんに彼氏ができたんだよ。誰だかわかる?」
「さあ、私の知ってる男の子なの?」
「なんと上戸くんなんだ。ビックリだろう?」
「どこに裏切りが隠されてるのかしら?」
「あのね、実は蓑田さんが上戸くんのことを好きだったんだ。西尾さんはそれを知ってたのに上戸くんと付き合っちゃったんだよ。もう修羅場だよね。流血の大惨事だ。まさに地獄絵図だ」
「あなたなんでそんなこと知ってるの?」
「佐々木さんが解説してくれたから」
「今度は佐々木さんが登場するのね」
「あのね、すごい事件があったんだよ。欲と裏切りにまみれた血生臭い物語さ」
 友香里にとってはどうでもいい話だった。衛がおもしろそうに話すから、その声を聴いているのが心地好いだけだ。衛の話だってどこからどこまでが真実なのか、どんな欲がどんな裏切りを招いたのか、さっぱり見当のつかない荒唐無稽なおしゃべりに過ぎなかった。それが上戸瑛太の物語であることなど友香里は考えなかった。ましてやそこに〈周〉という名の少年の姿など見えるはずもなかった。友香里はただただ愉快そうに話す衛の声だけを穏やかに聴いていた。
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