§26 10月22日(土) 26時頃 桟橋の果て

文字数 2,325文字

「明日がお休みでも日付は越えないようにしましょうね」
「へえ、意外なことを言うね」
「なにが?」
「朝まで寝かせてもらえないんだろうなあ、て思ってたよ」
「どっちがよ?」
「僕がに決まってるじゃないか」
「決まってないわよ」
「いつも物足りなさそうな顔してるのに?」
「してません」
「毎晩友香里さんが来るようになったら僕もうからっからに干乾びちゃうかもしれないな」
「人を欲求不満のケダモノみたいに……」
「だって最初にそう言ったよ? 『私は欲求不満のお姉さんよ』て」
「いつの話?」
「まだ真由ちゃんのとこにいたとき」
「そんなこと言ったかしら?」
「言ったよ」
「そうね。言ったかもね」
 ちょっと考えるように、思い返すように天井を見上げた友香里のパジャマの胸のボタンを、衛の不器用な手が探っては払い除けられている。時計はまもなく長短の針が頂点で重なろうとしていた。翌日が休みでも日付を跨ぐようなことはしないと言ったばかりである。しかし衛はなかなか諦めない。友香里はちょっと怖い顔をして見せた。
 ようやく衛が車椅子に移ると、なんとはなしにそれを押したくなった。洗面所の幅しかない扉二枚を抜ければすぐそこに衛の部屋がある。衛も期待感いっぱいの顔を振り向けたので、友香里は車椅子の後ろに立ちハンドルを握った。衛はずっと後ろに顔を振り向けにこにこしている。友香里は嬉しいやらおかしいやらで、思わず知らず目尻が滲むのを感じた。
 扉を閉める閉めないでひと悶着あって――どうも毎度この手のところで躓くようだ――扉はもちろん二枚とも閉めた。近いとは言っても扉が二枚もあれば寝息はもちろん身動きする気配すら伝わっては来ない。ちゃんと眠れるかな、との思いは、衛を思ってのことでもあり、自分自身を思ってのことでもある。それでも零時を回っていれば自然と瞼が落ちた。
 うめき声に友香里が跳ね起きたのはやはり午前二時過ぎだった。二枚の扉を駆け抜けるとベッドの上で衛が頭を抱えオウムガイのように体を丸めている。駆け寄った友香里はすぐに断端に左手を置き、右手で衛の頭を抱き寄せた。途端にすっと衛の体から力が抜けて行くのがわかる。どれくらい前から痛み始めていたのか、衛は全身を汗で湿らせていた。
 友香里は汗に濡れた衛の額を手のひらで拭った。
「こんなに我慢しちゃダメよ。私はもうすぐ隣りにいるんだから」
「――友香里さん、もし僕が、もし、こんなの終わりにしたいって、ぜんぶ終わりにしたいって言ったら、友香里さん、一緒に来てくれる?」
「そんなことを考えていたの?」
「ねえ、一緒に来てくれる?」
「当たり前じゃない」
「ほんとうに?」
「私をひとりにして行くなんて酷いことしないで」
「よかった。僕ちょっと怖かったんだ」
「大丈夫よ。衛をひとりにはしない。だから私のこともひとりにしないでね」
「うん。わかった」
「約束よ」
「約束する」
「でも今は、そうね、私の部屋にいらっしゃい」
「床に布団を敷くの?」
「まさか。私のベッドの上よ」
「それで少しは時間稼ぎができるかな?」
「たぶんね。ほんの少しかもしれないけど」
「いいよ。ほんの少しでいいんだ。どっちでも同じことだ。ねえ、そう言えば僕さ、まだ一度も友香里さんの寝顔を見たことがないんだよ」
「そうだった? じゃあ今夜初めて見られるかもね。でもいたずらしちゃ嫌よ」
「そんな約束はできないな」
 衛が車椅子に移り、車椅子が動き出し、扉がひとつ、ふたつと閉まったとき、それらとは反対側の扉の向こうで、薫が顔を覆い、廊下に膝をついた。それでも自分がここにいることを悟られないよう、音を立てないようにしなければという意識は失わなかった。しかしどうしてあんな会話を耳にしなければならないのかまでは理解できなかった。友香里は衛に寄り添ってくれるのではなかったのか? 衛を連れ去ってしまうなんてことがあっていいのか? 友香里はなぜあんな形で衛に感応してしまうのだろう? 私はなにをしてきたのだろう? 私たち姉弟はなにをしてきたのだろう? 私たち親子はなにをしてきたのだろう? 古澤さん、お母さん、衛をこのまま友香里さんに引き渡してしまっていいの? あの二人がどこに行こうとしているかわかってる? 一緒に行くってどこのことだかわかってる? ねえ、ほんとうにわかってる?
 しかし、「友香里の部屋」は天国にいちばん近い場所なのだろうか? それはまったく違うと言っていい。ここは言ってみれば桟橋の果てのような場所なのだ。そして、考えるまでもなく桟橋にはボートが乗り付けるものであり、なぜならそもそもそのために桟橋は設けられているのだから、ここにもまたいつでも自由に出入りできるドアがある。ドアは桟橋に乗り付けるボートがそうであるように、二人を向こう岸にまで運んでくれる。いや、急いで断っておくけれど、「向こう岸」とは天国の隠喩ではない。桟橋は海や湖に出るためにあるもので、私たちのこの世界に於ける海や湖には、必ず向こう岸がある。そしてそこにも人が住んでいる。
 ただそれだけのことを、しかし二人の周りにいる人間たちはそのままに理解しない。久瀬薫も、木之下真由も、西尾奈々も、上戸瑛太も、思いがけないことに里村多江ですらそうだった。それがただの桟橋に過ぎないことを理解していたのは、古澤と衛の父だけだったかもしれない。要するに、衛には今もなお周囲の熱量を引き上げてしまう力が残されており、残されているばかりか、いつか海辺で沢邊保奈美に告白した時よりも力が増していて、その影響範囲をさらに拡げてさえいるようだった。衛が「友香里の部屋」に閉じ籠る時間が多くなるほどに、熱量はより強くなり、より遠くまで及んで行くようだった。
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