§05 07月08日(金) 16時頃 離断(3)

文字数 5,171文字

 あのおしゃべりな衛が口を開かずにいつまでもにこにこと微笑んでいるものだから、友香里はまもなく当惑し、少し心配になると同時にじわじわと恥ずかしくなってきた。麻酔からの覚醒後にふたたび純粋な深い眠りに落ちた衛が目を覚ましたとき、病室には友香里しかいなかった。木之下も専属とは言いながら四六時中べったりと衛に付き添っているほどの仕事はここにはない。友香里は約束した通り目を覚ましたところを笑顔で迎え、約束した通り夢中にならない程度のキスで祝福してあげたのだが、衛はそのときからずっとこうしてにこにこと微笑んでいる。
 大きな手術のあとに人格が豹変するなんて話はお馴染みの展開ではあるけれど、衛の手術は膝関節から下の離断であったから、直接的に認知や感情のコントロールに働きかけるような結果を招くはずはなかった。麻酔から覚醒した先でそのまま顔を見るのではなく、そこを飛ばして正常な睡眠に落ちてしまったせいだろうか。睡眠中の脳が失われた脚の不在を眠りを通じて確かめ終えるとともに、衛の環世界をもそこで再構成し終えてしまったのかもしれない。しかしそれで衛が衛でなくなってしまったはずはなかった。衛のキスは友香里のよく知っているキスだった。
 目を覚まし、ベッドの背中を少し持ち上げてから、衛はいくどか自分の足元に目を向けた。つまりは視覚に於いてもそれを確かめていた。けれども特段そこで表情を曇らせるなどの感情の発露は現れていない。友香里のように泣いたりはしていない。怒ったふうでもない。溜め息をついてもいない。不可解に思っているようでもなかった。それでも衛の中でなにごとかが静かに、ゆっくりと、着実に構成されて行っているらしいことは感じ取れた。落ち着かない気分ではあるけれど、友香里は待つよりほかになかった。あれこれと想像を広げ心配を募らせてもしょうがない。
「ねえ、友香里さんはどうしてお化粧してないの?」
 衛の初めての声は友香里の耳に馴染み深い聴き慣れた衛の声だった。
「さっき泣いちゃったのよ。それで、また泣いて崩れたら嫌だなあ、て思ったの」
「あゝ、小さな子供を怯えさせちゃうみたいな話?」
「そこまで塗り重ねてません」
「でも友香里さんが泣くのは僕のせいだよね?」

じゃなくて、

よ」
「うん。実はね、僕はずっとそのことを考えてたんだ。誰かのせいであることと、誰かのためであることとは、実は同じなんじゃないかって。薫は僕のせいで浪人してるけど、僕のために浪人してるのでもある。古澤氏は僕のせいでおかしなことをやってるけど、僕のためにやってるのでもある。真由ちゃんは僕のせいで怒ったりするけれど、僕のために怒っているのでもある。そして友香里さんは僕のせいで泣いたけど、僕のために泣いたのでもある。僕は友香里さんのせいで友香里さんを好きになったけど、友香里さんのために友香里さんを好きになったのかもしれない」
「どうして最後だけ『かもしれない』なの?」
「そこは僕がつつましやかな人間であるがゆえの謙虚さの表れなんだろうな」
 どうやら衛は途切れることなく従前の衛であり続けているようだ。
「手術が終わったら人が変わってるかもしれないとか、ちょっと心配してたのよね」
「だって東氏は脳ミソをいじくったわけじゃない」
「心配して損した気分だわ」
「でも僕はさっき友香里さんが笑ってくれてキスしてくれたとき、僕はこの人のことが本当に大好きなんだなあって思ったよ」
「……それは、そうね。私もそう思ったわ」
「友香里さんはもういなくなったりしないよね?」
「もう? いなくなったことなんてないでしょう? これまでずっとそばにいたわよ」
「あ、そっか。でもなんだか一度ここから消えちゃってたような感じがする。なんだろうな? これ……」
「それでずっと黙ってたの?」
「黙ってたのは友香里さんがお化粧をしてない理由を考えてたからだよ」
 いや、衛はやはり少し変わったのかもしれない。
「僕の手術は成功したんだよね?」
「うん、そうよ」
「よかった。僕は長生きしないといけないからさ」
「それって、私が年上だから?」
「それもうんと上だからね。男女の平均余命を考えると僕は実は大変なんだよ」
「私のせいね」
「友香里さんのためだよ」
「うん、そうね」
 衛の手を、友香里はなんとなく両手に包み直した。
「僕の脚、見た?」
「まだ見てないわ」
「真由ちゃんと一緒にこっそり見てなにかイタズラしてない?」
「そういう提案はあったけどね、お断りした」
「ふむ。彼女にはお仕置きが必要だな。今度じっくり攻め立ててやろう」
「それは許しません」
「友香里さん、脚を見せてくれない?」
「はい」
 衛の手を放して腰を上げた友香里は、薄い上掛けを膝下まで下ろし、椅子に戻ってふたたび手を取ると、衛の顔を見た。さすがにやや表情を硬くしている。またじわりと涙がにじんでくるのがわかったけれど、友香里は慌てて目頭を押さえるようなことはしなかった。
「うん。なんて言うか、やっぱり驚くね、これは」
「そうね」
「学校行ったら、みんな一瞬ギョッとするだろうな」
「かもね」
「友香里さんが泣くのを僕は初めて見たような気がするよ」
「そう?」
「もし泣くのを我慢してきたのだったら、もうしないでほしい」
「うん」
「約束してくれる? もう泣くのを我慢しないって」
「はい」
 友香里の涙は、失われてしまったもの、元には戻らないものへの哀惜とともに、なぜならこの不可逆的な世界に於いては、たとえば泣くことでその不可逆性を受け入れるほかないわけだから、同時に、大人であることから、大人であるようにふるまうことから解放された安堵と、それを遥かに凌駕する悦びから溢れ出て、そのうえ止めようとしないものだから、止め処なく零れ落ちた。
 衛が手を離し、手を伸ばし、その頬に触れた。友香里は顔を上げ、ほかに思いつかないから、しかし作り物ではなく、誤魔化しでもなく微笑んだ。衛は満足そうな様子ながらも、さすがにいくらか照れ臭そうにした。友香里はハンカチで涙をぬぐい、上掛けを元に戻した。衛がまたもにこにこし始めて、さほど言葉を交わすこともなく、やがてふたたびすうっと眠ってしまった。
 木之下が扉を開けたのはさらにもう少し後のことだった。衛はまだ眠っているのかと心配になったが、友香里と言葉を交わし、上掛けを下ろして離断後の脚を見たと聞き、ホッとして腰を下ろした。そろそろ勤務時間が終わろうとしている。残りをここでのんびり潰すつもりできた。衛が眠ってしまったのは残念だが、朝食も昼食も摂っていないのだから、すぐに空腹でまた目が覚めるだろう。
「衛くん、どんな顔してました?」
「さすがにちょっと強張ってたかな。すぐにまたおかしなことしゃべりだしたけどね」
「どんなこと?」
「それは内緒」
「あゝ、エッチなことだ。て、まさか早くもここで?」
「してません」
「傷口が開いたらけっこう面倒臭いことになるんですからね」
「だから、してないって!」
「私なんとなく思ってたんだけど、だいたい友香里さんのほうから始めちゃう感じでしょ?」
「そんなことないわよ」
「あ、そう言えば友香里さん、幻肢痛の説明ってしましたっけ?」
「うん、聞いてるわよ。先のほうを撫でてあげたりするといいとか」
「はい。お薬もあるにはあるんですけど、できればそのほうがいいと思うんですよね。友香里さんが触っているところを衛くんにもちゃんと見せるようにして。私もまだ直接は二人しか知らないんですけど、二人とも脚じゃなくて腕だったんですけど、なんて言うのかな、なくなってしまった部位を慰めてあげるみたいな、患者さんがそれを受け入れていくように見えるんですよ。あ、もちろんあんまり痛むようならお薬用意しますし、幻肢痛なんて起きないかもしれませんけど」
「私がいない時間は真由さんがしてくれるの?」
「やりますよ。夜中なら夜勤の人間がやります。だけどまだ確かな治療法がないんですよ。長く続く人もいるんです、何年も。衛くんに起きなければいいんだけどな……」
「なくしたものを探してるのかしらね?」
 友香里はその問題の足元に目をやった。それならよく知っていると思った。もうないんだよ、もういないんだよ、と繰り返す。そのときは納得してくれたようだったのに、しばらくするとまた探し始める。どこにあるの? どこにいるの? 失われなかった片腕や片脚を鏡に映して見せると痛みが和らぐことがあるそうだ。義肢も同じように働くことがあるそうだ。あった! いた! と思って喜ぶのだろう。しかし左右の四肢は完全な鏡像ではなく、義肢も期待するイメージを再現しきれない。その落胆がふたたび痛みとなって返ってくる。
「ずっと時間が経ってから出てきたりもするの?」
「稀には。でもたいていはそれほど時間を置かずに出てくるみたいです。術後すぐの人もいますし、二、三週間後の人もいます。一過性が多いんですけど、ずっと残るとほんとつらいみたいで」
「この夏のあいだに出なければ大丈夫?」
「絶対とは言えないけど、たぶん大丈夫かと」
「とりあえず今はなさそうね」
「はい。気持ちよさそうに眠ってる」
 私が撫でてあげることで治まるのであれば、と考えて友香里は胸の内で身震いした。私の手でそれが治まるのであれば――そんな都合のいい痛みがどこにあるか。私の手だけが治められる、私のそばでしか現れない、それは小さな子供が甘えるのと同じ。そんな都合のいい痛みはどこにもない。でも私はなぜそれをいま欲しがるのか。いや、欲しがってはいない。でも、あればいいなとふと考えてしまった。それは欲しがっているということ。だけどなぜいまになって。衛への通行手形になる。私のこの手にしかそれができないのであれば。だけどなぜいまになって――。
「友香里さん、今のうちにお弁当とか買っておいたほうが」
「そうね。でも中途半端な時間になるし」
「今日は立合いだから追い出されませんよ?」
「あ、そうなの?」
「え? だって朝八時から来てますよね?」
「そうだった。すっかり忘れてた」
「ギリギリまでいても大丈夫です。私あと三十分くらいあるので、今のうちに」
「うん。じゃあ、お願いします」
「はい」
 友香里が振り返りつつ病室を出て扉が閉まると同時に、木之下は大きなあくびをした。目尻から涙がにじみ出るような大あくびだった。手の甲で瞼を抑えながら振り返るとベッドの上から衛が顔を向けており、目が合った。仰天して椅子から転げ落ちそうになった。
「勤務中にそんな大あくびをするなんて自覚が足りないにもほどがあるよ」
「いつから起きてた?」
「友香里さんの代わりに真由ちゃんが僕のあそこをやさしく撫でてくれるとか」
「それすっごい誤解を招く言い方なんだけど」
「幻肢痛はないけど幻肢はある」
「え、ほんとに?」
「友香里さんが心配するといけないから黙ってた」
「すぐに始まってたの?」
「うゝん。さっきここで布団を下ろして見たときから」
「ほんとに痛みはないのね?」
「ないよ。そんなことで嘘はつかない。あのさ、真由ちゃん鏡の話をしてたよね。つまりは視覚情報が重要なきっかけになり得るということだ。ずっと感覚なんてなくなってたのに、見えなくなったらそれが戻ってきた。もちろん嘘の感覚だよね。嘘って言うか、脳ミソが勝手につくっている。幻肢が起きるってことはさ、そのうち痛くなったり痒くなったりするのかな?」
「わからない。ごめんね。でも痛みは必ず出るわけじゃないから。むしろ運動感覚はあったほうがいいっていう話もあるの。義肢を使うときにね。運動感覚がないとうまく動かせないのよ。動かすイメージ、て言えばいいかな。わかる?」
「わかるよ。僕らは動かそうと思って、さあ動かすぞって思って動かしてるわけじゃない。そういう話だろう?」
「そう、そう。ん、そうかな?」
「真由ちゃん、これ友香里さんには内緒にしといてくれる?」
「いいけど。でも痛みが出たら無理だよ?」
「そしたらもう別次元の話になるじゃないか」
「痛まないといいね。痛みませんように、痛みませんように……」
 祈るように手のひらをこすり合わせて目をつむる木之下の仕草に衛が笑った。しかしこいつはいったいどんな神仏が管轄しているのだろう。脚のほうなのか頭のほうなのか。祈願されるほうも困っちゃうだろうな。そもそもどこを治せばいいのか、その当てがないんだから。でも痛むのはやっぱり嫌だな。友香里さんが撫でてくれて治まるならいいけど、きっとそんなうまい具合にはいかない。痛くて僕が泣けば、友香里さんも一緒に泣く。二人して泣いてるなんて酷い話だ。滑稽だなんて言っていられない。とにかく友香里さんが泣くのはダメだ。ダメだってことがさっきよくわかった。僕にはとても耐えられない。
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