§01 07月08日(金) 08時頃 離断(1)

文字数 4,283文字

「おはよう」
 扉を開けると、これ以上ないくらいに不機嫌な顔で迎えられた。初めて見る表情に木之下はちょっと気押されて、衛にいつになくやさしい声をかけた。木之下が思わずそうしたのは、言うまでもなく、今日が特別な一日であることの緊張感を胸に出勤してきたからだ。
「衛くん、どうしたの?」
「あゝ、真由ちゃん……」
「えっと、なにかいいことでもあったかな?」
「お腹空いた」
 ……そんなことかよ!
「手術が終わったら食べられるから。どうせ麻酔されたら忘れちゃうし」
「そのまま目が覚めてもすべて忘れちゃってるなんてことない?」
「ない、ない」
「真由ちゃんのことだけ忘れちゃってるとかも?」
「どうしてそんな悲しいこと言うかな?」
「じゃあ真由ちゃんのことしか覚えてないとか?」
「そうなったら二人で強く生きて行こうね」
「なるほど。そうなればいよいよ真由ちゃんのおっぱいが手に入るというわけか。友香里さんを忘れちゃうのは悲しいけど半分くらい埋め合わせできそうだな。僕の将来も満更悪いことばかりじゃない」
 一瞬でも心配をして損をしたと苦々し気に口元を歪めながら、木之下は昨日からの検温や食事、排泄などの経過を記したチェックリストにさらっと目を通した。衛は開胸も開腹も開頭もしないのだから、微熱があろうと便秘気味だろうと特段の問題はない。実際、衛は健康そのものだ。数時間後にこれからの人生を大きく転換させるかもしれない手術を待っている少年には見えない。カーテンを開けた窓の外は薄曇りで明るかった。予報では午後には晴れ間も覗く。手術後に衛は青空を見る。将来は決して悪いことばかりではない。まったくその通りだ。
「ねえ、手術のあいだ真由ちゃんはどこにいるの?」
「どっかで友香里さんとお茶しながら、衛くんの悪口でも言って待ってるかなあ」
「そうした振る舞いは手術の経過に重大な支障を及ぼす懸念があるから控えてもらわないと困るって東氏から言われてない?」
「美女が二人も待っててくれるなんて、ほんと果報者だよね」
「美女は一人だよ」
「冷静に訂正すな!」
 その美女の姿はまだ見えていない。手術は十時からの予定だった。九時過ぎには病室を出る。木之下が出勤する八時には来てくれて構わないと伝えてあった。平日の朝で道が混んでいるのかもしれない。しかしいくら混んでいたとしても一時間も遅れる心配はないだろう。友香里の顔を見せずに衛を麻酔科医に引き渡すなんてできない。それではあまりに可哀そうだ。
「九時になったら着替えるよ」
「うん」
「何度も言うようだけど、命にかかわるような手術じゃないからね」
「わかってるよ」
「……あゝ、衛くんさ、あのさ」
「なに?」
「あの、一緒に写真、撮ってもいい?」
「あ、お見合い写真に使うやつ?」
「そんなはずなかろうが」
 衛が体を回してベッドの端に腰掛けると、木之下も隣りに並んで座り、こっそり持ち込んだ私物のスマートフォンを構えた。こうしたときにふつうそうするように顔を寄せ、にっこりと笑い、ピースサインをつくって自撮りを終えた瞬間に扉が開いた。呆然と立ち尽くす友香里と目が合った。
「記念撮影! ほんとそれだけ! ごめんなさい!」
 慌ててベッドから飛び降りた木之下が平身低頭する。友香里は腰よりも低く下げた木之下の頭のてっぺんを見て、嬉しそうに笑っている衛の顔を見て、わざと大きく息を吸い込んでから、これ見よがしに大袈裟に首を振りつつ、二人の耳に聴こえるよう深く長い溜め息をついた。
「衛はどうしてそんな嬉しそうな顔してるの?」
「友香里さんが来たからだよ」
「真由さんにおっぱい触らせてもらったからじゃくて?」
「これほどの重大局面になってもまだ許してくれないんだ。ちょっと酷いと思わない?」
「思いません。でも、私も写真撮っとこうかな」
「あ、私、撮りますよ!」
 友香里も同じようにベッドの端に腰掛けた。スマートフォンを預かった木之下は、そこに映る衛の表情に一瞬はッとしながらも、それを気取られぬようカメラのシャッターをタップした。二人に写真を見せると二人とも満足そうに頷いた。つまりは衛はいつも友香里の前ではこんな顔をしているのだと、今更ながらではあるが、木之下は改めてそう理解した。穏やかな、屈託のない、自然な笑顔だった。自分たちに、木之下も含む自分たちに見せてきたあの満面の笑みは、衛がいくらかなりとも虚勢を張ってつくっているのだと考えざるを得ない。そのあまりの落差にスマートフォンを返す手が少し震えそうになった。
 考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、そうに決まっているではないか。十七歳の少年が両脚の自由を失い、今日はついにそれを離断するのだ。平気でいられるはずがない。だから衛は自分を指名して強引に専属という形までとらせた。それは確かに衛が恵まれた環境を持っているからこそ可能だったことかもしれないけれど、ズルいだの贅沢だのと言うのは間違っている。衛はただ自分に与えられた武器を目いっぱいに使って武装してきただけだ。それぞれがそれぞれにそうするものではないか。これまで何人もの上にこれを見てきたはずだ。決して衛が初めてじゃない。
「朝ごはんちゃんと食べた?」
「イジワルして食べさせてくれないんだ」
「あ、そうだったわね」
「イジワルじゃないからね」
「手術が終わったら特上の握りを注文しよう。貝とエビは大トロとウニにして。ただし二人前だよ。真由ちゃんはイジワルしたから無しだ」
「だからイジワルじゃないって」
「そもそも出前なんて取れるの?」
「取れません」
「ですって。残念だったわね」
「真由ちゃんは今回とことん僕にイジワルする考えなんだってことがよくわかったよ」
「そういう決まりなの!」
 九時を過ぎたら迎えに来ると言い残し、澄ました顔をしてベッドの端に座る衛を一睨みしてから、木之下は病室を去った。衛は両脚をベッドの上に戻した。そこでふと友香里の顔を見た。なにかを思いついたようで、友香里は問いかけるように首を傾げた。
「道が混んでたの?」
「ん? あゝ、違うのよ。ちょっと聞いて!」
「聴いてるよ」
「お父さん車のカギどこ置いたかわからくなっちゃって、私の車が出せななかったの。それで慌ててバスに乗ってきたから遅れちゃって。そしたらカギ付けたままだったとかさっきメッセージ送ってきてさ。ほんと迷惑な話。まだボケるの早すぎるわよね」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことじゃないわよ。お陰で余計な汗かいちゃったわ」
「それでさっきから変な匂いがするんだな」
「え、匂う? 嘘よね? 嘘でしょう?」
「嘘だよ」
「……あなたねえ、最近ちょっとなんて言うか、度が過ぎるわよ、ほんとに」
「ねえ、友香里さんさ。気持ち悪いかもしれないけど、脚の写真も撮ってくれない?」
「別に気持ち悪くなんてないわよ」
「これが最後になるからね」
「うん、そうね」
 友香里がパジャマのズボンを下ろすと、衛は足元に立って写してほしいと求めた。言われた通り友香里はベッドの端に立ち、衛を足元から正面に見て何枚か写真を撮った。衛の顔まで写っているもの、腰から下が写っているもの、そして離断される膝から下だけを写したもの。
 写真を撮り終えた友香里はズボンを穿かせ、衛のすぐ脇でベッドの端に座った。小さくキスをしてから首に腕を回し、胸に抱き寄せた。静かな朝だ。静かで明るい。こんな朝を迎えることになるなんて、あのときいったい誰に想像できたろう。初めて衛を訪ねた際の景色が唐突に浮かび上がった。
 綺麗な顔をした傷だらけの少年がベッドに横になっていた。心理員という言葉を知らなかった。しかし臨床心理士という言葉のほうは知っていた。つまり紺野さんは僕を心配してくれている僅かな人たちの一人なんだね、と衛が初めて口にした言葉がそれだった。友香里はうなずいて、そっと笑みをつくった。衛はどこか不思議そうな表情をしていた。目を逸らしはしなかったけれど、どこか違うところを、目の前の友香里の顔ではないなにかを、その先に透けて見える遠いどこかを、焦点の合わない眼差しで見ているような気がした。
 僕の脚はどうやらもう動かないらしい、そう呟いたのがいつだったか。事故のあと、たぶん一週間後くらいだったかと思う。友香里は椅子をベッドに近づけて、布団の上にあった衛の右手を取った。そのときもやはり不思議そうなとしか形容のできない表情をした。友香里がさらに椅子を引き寄せて、衛の肘から上を抱えるように胸に抱き寄せたとき、すでに友香里の中で得体のしれないなにものかが胎動を始めていた。友香里が六年間ずっと抱え続けてきたものだ。
 衛の欲情に気づいたのはそれから間もなくのことだったと思う。それはもしかすると友香里の中の得体のしれないなにものかが呼び覚ましたのかもしれないが、しかしそれぞれが同時に相手に手を伸ばそうとした。なにやら青白い炎のように揺らめいていた、その得体のしれないなにものかが、そのときなにを求めているのか、はっきりとはわからなかった。友香里はしかしそれに衝き動かされ、その欲動に身を委ねた。
 それが〈彼〉なのだと気づいたのは、衛が友香里の乳房に触れ、友香里が衛の陰茎に触れたときだ。〈彼〉が衛の体を欲している、すなわち手に入れることのできなかった未来の体としてそれを欲している。〈彼〉はいわば衛の体に憑依して、友香里を求めたのだ。〈彼〉の時間は止まってしまったけれど、友香里の中では成長を続けていたのであり、衛の上で〈魂〉と〈肉〉と〈時間〉の問題を乗り越えようとしたのだ。
 けれども今はもうここに〈彼〉の姿は影も形もない。〈彼〉は衛と友香里を結びつけたあと、衛と友香里によって追い払われた。私たちはその最初の継起をもう忘れている。いまも私は決してそれを思い返しているわけではない。〈彼〉は決して蘇りはしない。むろんわかっていたことだ。衛の今は〈彼〉の未来ではない。衛が〈彼〉の未来を代替することなどない。私は〈彼〉を抱いているのではなく、〈彼〉に抱かれているのでもない。私は衛を抱き、衛に抱かれている。
「麻酔から醒めたとき、なにしてほしい?」
「笑ってほしい」
「それから?」
「キスしてほしい」
「うん。でもそれまで待てないかな」
 二人は胸を離し、いくどか濃密なキスを繰り返してから、友香里が衛の口元を拭い、自分の口元を拭い、ちょうど無理なく衛の右腕を胸に抱くことのできる位置でベッドから降り、椅子に戻った。そのまま友香里が衛の右腕を胸に抱きながら、やがて迎えにやってくる木之下を待った。
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