§14 08月29日(月) 11時頃 素手で触ってはいけない

文字数 5,172文字

 うめき声のすぐあとに机が大きな音を立てた。奈々が慌てて席を離れ衛の間近にしゃがみ込み声をかけた。教師も生徒たちも息をつめて見守っている。机の上に突っ伏してしまった衛が奈々の声に何度か頷き、やがて立ち上がった奈々が衛を保健室に連れて行くと教師に告げた。雅臣が歩み寄り衛の机の脇から義足の入ったバッグを肩に担ぎ、先に立って教室を出た。
 里村はすぐに車椅子を引き取って衛がベッドに移るのに手を貸すと、もういいよと奈々と雅臣を帰した。教室の後ろの扉を開けた二人を生徒たちが一斉に振り返った。奈々は瑛太の顔を探し、それはすぐに見つかって、力ない笑みを浮かべた。瑛太はうなずいて笑みを返した。雅臣は怒ったような顔をしながらドカンと大きな音を立てて自席に座った。
「どうしてほしい?」
「脚が、脚が落ちそう……」
「あゝ、大丈夫だ、落ちないよ。私が支えてやる」
 里村は片方の手で腿の上側を、もう片方の手で断端の下側を、そうして両手で支えるようにしながら、マッサージというのではなく、どこか衛の脚を愛おしむように擦り始めた。額に浮いた汗が頬や鼻先へと流れ落ちるままに、衛が首を上げてそれを見つめている。
 いきなり膝から下が抜け落ちるような痛みに見舞われる。車椅子に座っている時だ。むろん膝から下はすでに存在しないので抜け落ちたりはしない。しかし衛にとってそれは現実に起きている出来事であり――

――膝から下で脚が落ちるとその脳が恐れ、引きちぎられるような痛みを創り出す。繰り返すが、痛みに苦しむのは僕なのであり、僕とはすなわち脳なのだ。ほかに探したって見つからない。なにしろ脚はもうないのだから。
 ベッドに移った時点でその感覚はわずかながらに緩和されていた。里村が落ちないように支えることでそれを確かなものにする。里村は落ちないはずの脚を落とさないように振る舞う。しかし里村もまた衛と同じ幻の脚を見ている。衛の表情や声の変化から里村にも脚が見える。見える感覚がある。里村が枕元にタオルがあることを顎で示すと、衛はそれを拾って顔を拭い、無理やり作り上げたような笑顔を見せた。
「どうして二限が終わったときに来なかった?」
「ちょっと面倒臭いなあ、て思って」
「サボっちゃダメだよ」
「ごめんなさい」
「ここで少し歩いてから戻りな」
「うん、そうする」
「まったく。保健室の先生が私みたいに心やさしくなかったらどうする?」
「里村さんが心やさしい先生だなんて評判は聞いたことないけどな」
「じゃあ美人でエロいって評判か」
「それもないな。いやそれはないよね?」
「十年前にはあったんだけどねえ」
「昔話にすればなにを口にしてもいいって思ってるなら大間違いだよ」
 こつんと中指の第二関節で叩かれて、衛は思わず両手で額を押さえた。里村のこれはスナップが利いておりものすごく痛い。幻肢痛なんて吹き飛んでしまうほどに痛い。このとき衛はまだ知らなかったが、里村は休日をボルダリングの鍛錬で過ごす人間である。
「もう治まったろう」
「うん、ありがとう」
「久瀬さ、寝転がって授業受けたら? あるいは立ったままか」
「車椅子が問題なんだってことはわかってきたよ。長く座ったままでいると、このおかしなやつがやってくるんだね。寝てるときは平気だし、ちょくちょく義足をつけても回避できる。おもしろいよね」
「脂汗かいて担ぎ込まれてきたくせに、おもしろいとか言うな。ほれ、脚付けるぞ」
 衛は一日に三回、二時限目が終わったとき、昼休み、それと帰宅前に保健室を訪ね、義足を装着して十分ばかりを過ごす。それだけで幻肢痛の発生頻度は減る。決して奇妙なことではなく、義足が幻肢痛を治めるというケースは少なくない。ただし朝から付けっぱなしの状態で過ごすのはきつかった。授業中はおとなしく座っているものだから、義足は却って邪魔にもなる。
 養護教諭の里村が、ライナーを穿いたあとソケットを着け立ち上がる際に、介添え役を務めてくれる。両脚なので最初にバランスをとるのが難しい。体重のかかり方が左右で少し違ってしまうだけでもかなり痛い。里村の肩を借りながら左右のバランスを調整し、里村に腕を支えられながら保健室内を歩く。里村がどうしても立ち会えないときはただベッドに横になっている。それでも体を投げ出すようにして仰向けに大の字になるだけでも、痛みは大いに緩和されるのだった。
 病院では恐らくそのために痛みが現れなかったのかもしれない。退院後の夏休み中もなにごともなかったため、周囲は衛には幻肢痛は起きないのだろうと思っていた。しかし二学期が始まり授業が開始されるとすぐに膝から下がもぎ取られるような痛みが襲ってきた。存在しないはずの膝下が引きちぎられるような。あまりの痛みに衛は危うく車椅子から転げ落ちそうになった。
 里村が慌てて駆けつけてきて、そのとき思わず衛のそばに歩み寄ってきていた奈々と雅臣が、その後もそのままこの日のように保健室に連れて行く。奈々が車椅子を押し、雅臣が義足の入ったバッグを肩に担ぐ。昼休みには瑛太も一緒に保健室で過ごした。食事までは許されなかったので、三人はいつも大急ぎで食事を済ませるようになった。衛がそんなに慌てなくてもいいなどと口にすれば、奈々と雅臣は強い調子で怒った。
 授業が始まってすぐに幻肢痛が現れてしまったものだから、それ以降は友香里が欠かさず送り迎えをしており、膝関節離断の手術後、二学期の一人での登下校は、二日目の朝で終わっていた。登下校中に痛みが発生すると厄介だ。車椅子から降りてしばらく仰向けに寝転がれるようなところは街中にはない。そもそもいきなり襲ってくるもので、仮にそのような場所が見つけられたとしても、衛が自力でそこまでたどり着ける保証もない。知らない人間は間違いなく救急車を呼ぶ。苦しむ衛の様子はとても尋常には見えないのだから、誰だってそうするよりほかにない。
「里村さん、四限もこのままここにいていい?」
「痛みが治まったのなら認められないね」
「体育なんだよ」
「なんだ。だったらそこで寝てていいよ」
「女子のほうを見学させてくれるなら頑張って行くんだけどさ」
「なるほどそいつはいいアイデアかもしれない」
「そう思うなら里村さんからもちょっと口添えして欲しいな。結局それは認められないって話になっちゃったんだよ」
「そりゃまあそうだろうねえ」
「あれ? 当校随一の心やさしい先生じゃなかったの?」
「おい、ちゃんと前を見ろ」
 休み時間に雅臣が顔を出し、剥き出しの義足のまま歩いていた衛の姿に一瞬ギョッとしたように目を見開いてから、このまま体育をサボって保健室にいると聞いて去った。衛はいつもよりかなり長めに歩いた。里村がずっと二の腕を抱えるようにして支えてくれた。決して運動感覚が優れているとは言い難い少年だったが、衛の歩行は日に日に安定してきている。この日は十五分ほど歩いたろうか。ソケットを外しライナーを脱ぐと疲労感の中でベッドに仰向けになった。空調が効いていても汗が溢れ出た。
「なんだかんだ、けっこう上達するもんだねえ」
 背もたれの付いた自分の椅子を転がしてきて里村が横に座った。衛は枕を二つ重ねて首を上げている。里村が手前の脚の断端近くに片手を乗せてくれている。痛みが治まったあとは撫で擦るというわけではなく、ただそこに手を置くことがコミュニケーション回路のひとつのような気がしており、あるいは養護教諭としてここに座っていることを確かめようとする心情の表れなのかもしれない。里村自身にもうまく説明ができない。衛は拒絶しなかったし、むしろ嬉しそうな顔をした。里村はちょっと戸惑ったものの、そこになにかが「ある」か「いる」かしているのは間違いないと思った。
「月曜のお迎えは遅いんだっけ?」
「仕事がふつうに終われば四時前には来てくれるよ」
「そう言えば彼女は今なにしてる人なんだっけ?」
「産業カウンセラー見習い。そうなる前提というか、約束させられてるんだ。古澤氏に」
「フルサワって、あの?」
「古澤氏は父さんと母さんと同級生だったんだよ、この学校でも大学でも。母さんは要するに二人を天秤にかけて父さんのほうを選んだわけさ。おかしな話だと思わない? 古澤氏は東証一部上場企業を継ぐことが確定してる人なのに、しがない地銀の行員のほうを選ぶなんてさ」
「久瀬の容貌から推察するに、親御さんは相当な美男美女なんだろう」
「まあそういう話だよね。一方で古澤氏のほうはジャガイモ並みのユニークな顔なんだから」
「それでも付き合いはずっと続いてきたわけだね?」
「古澤氏は言ってみれば僕らのパトロンみたいなもんだよ。僕も税理士になれって言われてる。父さんのあとを継ぐか古澤氏のとこに行くか、どっちでもいいから選べってさ」
「ははあ、そういうことか。あんたにはどえらいOBがついている、それでここの連中はビビってるわけだ。確かにフルサワ精器創業家の代表なんて、高校教師なんかじゃ格が違い過ぎて相手にならないわな。でも大学はどうする? ここの国立には商科も経営もなかったろう?」
「学部はどこでもいいんだ。税理士の勉強は通信で充分。そんなに難しくない」
「ここの生徒は税理士試験なんて難しくないとか言うわけか」
「おかしい?」
「おかしいと感じるのはあんたの意思がどこにあるのか見えない、てところだろうね」
「それで食べていけるって言われたらふつうそうしない?」
「しないねえ。少なくともあんたは十七歳、いや十八歳なわけだから、目指すべきものの有る無しにかかわらず反発を覚えていい事案だと私は思うよ」
「そういうもの?」
「受け入れるにしても少しは葛藤があっていい。そうした機微はあってしかるべきだ。でもあんたにはそうした気配が微塵もない。その脚についてもそう。憤懣も悲嘆もないのか?」
「痛いのにはほんと困ってるけど、里村さんが言ってるのはそういうことじゃないよね?」
「違うな。不条理な運命に対するやつだよ」
 珍しく衛がすぐに打ち返してこなかった。なにごとか思い出そうとするかのように視線を天井に向けた。里村の視線は自分が手を置いている衛の脚に移った。自宅にトレーニングマシンがあると聞いたが、この少年はしっかりそれを使っているようだ。太腿の筋肉は少しも萎えていない。腰回りも、そして胸や肩の辺りも。里村はそうしてゆっくりと視線を衛の顔へと戻した。
「それは要するにこの社会の正義とこの世界の根源にかかわる問題ということだね。それなら薫が、姉さんが勉強してきてくれる約束になってる。とりあえず薫は法学部にしたから正義のほうだね。根源のほうは確かにちょっと雲をつかむみたいな話だから僕が勉強するしかない。でも思想書を読むのは嫌いじゃないよ」
「そういうことじゃない。己の感情の話だ」
「だからその取り扱い方を学ぶんだよ」
「必要なのは取説などではないと私は言っている」
「取説もなく正義や根源にアプローチしたら酷い目に遭うよ。そうじゃない?」
「……そうか。真正面から受け止めちゃいけないってわけか」
「僕もまったく考えてないわけじゃないんだ。だってこれは僕がずっと考え続けなければいけないやつだからね。なにか新たな生きがいを見出すべきだとか言う人がいるけど、それはそれでいいことなんだろうなとは思うけど、でも課題に向き合っている態度とは僕には思えない。そして課題に向き合うには方法論が必要だ。素手で触っちゃいけない。酷い火傷を負うことになる。でもこれは取説とはちょっと違うな。答えが書いてあるわけじゃないから」
「どこでそんなことを考えるようになった?」
「病院のベッドの上だよ。ほかにすることがなかったんだ。脳も内臓も無傷なうえに上げ膳据え膳だからほんとにすることがないんだよ。古代アテネの哲学者たちと一緒さ。例のコペルも同じだよね、現在が満たされていて、将来も約束されている。僕と同じだ。鼻持ちならない少年ってやつさ」
 里村はまた衛の脚に置いた自分の手の上に視線を移した。そこに衛の視線も重なっているのを感じた。この手をどうにかしなければいけないようでもあり、しかしどうすればいいのかわからなかった。だから置いているだけの状態から、なんとはなしに少し力が入った。衛が声を出さずに笑うのがわかった。里村はちらりと目の端でそれを確かめると、今度は意図的に軽く力を入れてみた。衛がまた声を出さずに笑った。そうして軽く力を入れてみたり、少し撫で擦るように動かしてみたりしているうちに、ふっと衛の気配が消えた。慌てて顔を向けると衛は目を閉じ静かな寝息を立てていた。無理もない。こんな毎日が続いては体も心もくたくたになってしまうだろう。
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