§13 07月14日(木) 19時頃 いちばんいい一日

文字数 3,608文字

 仙台行き高速バスの最終便が発車するまで三十分を切った。新幹線の半値以下で往復できる上に時間もわずか三時間半となれば、学生の選択肢としてはこれ以外にない。早朝の始発便で仙台を発ち八時間ほどを一緒に過ごした。大学はまだ休みに入っていない。なにも木曜日である必要はなかった。しかしそういう話ではなかったのだから仕方がないではないか。
 金曜日に衛の手術が終わってから、薫は昨日の水曜日まで考え抜いた末に結論を出した。この五日間はまったく勉強をしていない。ただひたすら孝介のことばかりを考えた。しかし衛のためにそうするのではない。浪人生である以上、さすがに夏以降はもう仙台に遊びには行けない。なにものかに禁止されているわけではないけれど、やはり行けない。そして来春には東京に出る。だからもう孝介とは会わない。だからこれは衛のためではない。久瀬薫の歩む道は柏原孝介が歩む道とわずかに交わりはしたものの、決して重なりはしないのだ。
 この春から二週間に一度、週末を仙台で過ごしてきた。孝介が通う大学があり、小綺麗なアパートがすぐそばにある。土曜は始発に乗ったが日曜は遅くならない時間に帰った。キャンパスを歩き、街を歩き、公園を歩き、お金がもったいないからアパートで食事を作り、たぶん平均すると三回ほどセックスをする。そんな週末を八回ばかり過ごし、世の高校生たちは夏休みを迎えた。薫は高卒生だが三年生と一緒に夏期講習を受ける。だからこの先はもう二週間ごとに遊びに行くわけにはいかない。
 そこまで真面目に考えることではないと言うのは正しい。あくまでもきっかけであり、言い訳に過ぎない。それはよくわかっている。衛の手術もきっかけであり、言い訳に使ったのだ。二週間に一度では足りない。ただそれだけのこと。そんな恋愛をしているカップルなんて世の中には大勢いるのかもしれないけれど、私には無理。ぜんぜん足りない。まったく足りない。
 はっきり言って、そのせいで情緒が不安定になった。衛の前では見せていないけれど、勘の鈍い子だからきっと気づいていないはずだけれど、正直もう頭がおかしくなりそうだった。特にこの一ヶ月は酷い。考えてもどうしようもないことを延々と考え続けるような時間を過ごしてきた。孝介のことは今でも大好きだ。だから我慢できない。「大好き」を「だから」で接続したあと、「我慢できる」と受けるのか「我慢できない」と受けるのか。この分岐点はどこにあるのだろう?
「とうとう雨やまなかったなあ」
「まさか一日中ホテルの部屋で過ごすなんて考えもしなかったよ」
「薫が歩きたくないって言うからさ」
「そうだけどね。とっても印象的な一日になったけどね」
「そろそろ支度しないと」
「……うん」
 しかしまさかラブホテルをデイユースするという発想は薫にはなかった。どちらかの家に行くのだろうと漠然とそう思っていた。確かに険悪な状況に陥って別れるわけではないとは言え、さよならをする日にこれは正直まったく予想外の展開だった。結局は一回セックスをして、一回しかしなかったのが不思議なくらいだけど、なにしろ煽情的な装飾空間の中でずっとベッドの上にゴロゴロしていたわけだから、それでも今は落ち着いて衣服を身につけようとしているのだ。
「あ、ねえ、連絡先はどうする?」
「どうする、て?」
「リストに残ってると電話したくなるような気がする」
「別に電話してもよくない?」
「まあ、確かに、悪いことではないけど」
「嫉妬深い彼女ができたら消せばいいよ」
「嫉妬深い彼氏ができたら消されるんだな」
「私は受験生だからきっと孝介のほうが先になるね」
「予備校で声かけられたとか言ってなかった?」
「あ、一回あったね、そう言えば」
「でも、まあそっか。ふつうに考えれば俺のほうか」
「そうだよ。むしろそうあってほしいくらいだよ」
「どうして?」
「孝介がずっとメソメソ泣いてるとか誰かから聴かされたら動揺するもの」
「そうした事態に陥ればきっと誰かから伝わるだろうなあ」
 忘れ物がないかよく確かめるほどの持ち物はなかった。孝介も日帰りのつもりでやってきていたし、だから薫は最後のデートのつもりで家を出た。バス代がかかっているから計算が合わなくなると薫は主張したのだが、ここは割り勘のほうがすっきりすると孝介に言われ、最後の時間をそんな押し問答に費やすのもバカバカしく、ホテル代は半分に割った。雨雲のせいもあり表はずいぶんと暗い。
 孝介は駅で弁当を買った。見送りはしないと決めてあった。孝介は高速バス乗り場へ、薫は駅の改札へと向かう。最後はキスのないハグで別れた。この街を去るのは孝介のほうなのだからと思い、薫はその背中が見えなくなるまで駅のコンコースに立って見送った。時刻は十八時四十二分。薫は少し迷ってから衛に電話をかけた。十八時五十分発の高速バスがロータリーを出て行く時間を見計らい、薫も駅の改札ではなくバス停に向かった。
 二人で話したいことがあるなら席を外すと友香里に言われたが、薫は首を横に振った。この時間に友香里がいることは承知して電話をしたのである。二人で話したいのであれば面会時間の後に電話をすればいい。うまく説明できないのだが、薫はなんとなくこの二人のそばにいたくなったのだ。うまく説明はできない。だからその説明を試みることはしなかった。
「今日は千客万来だな」
「あ、そうなの?」
「朝から療法士と装具士が来て、むろん真由ちゃんもずっといて、午後には学校から三人も来て、そのあと沢邊さんも来て、友香里さんでお終いかと思ったら薫まで来た。なんと九人だよ! まったく人気者は忙しい」
「どうせ明日はまた木之下さんと友香里さんだけでしょ?」
「もちろんそれがいちばんいい一日だよ。でも今日は最悪の訪問者から始まったのに最後は友香里さんと薫で終わるんだから僕はやっぱり運がいい。これで夜勤が佐々木さんだったら――」
「佐々木さんはさっきナースセンターにいたわよ」
「じゃあ今日は準夜勤か。それならきっとおやすみなさいを言いに来てくれるな。佐々木さんにおやすみなさいを言ってもらうと僕はよく眠れるんだよ。あの人には特殊能力があるんだな、きっと」
「友香里さんにはないの?」
「友香里さんはまだ本当のおやすみなさいを言ったことがないよね? 夜にさようならをするときのおやすみなさいだけだ。挨拶としてのおやすみなさいと本当のおやすみなさいは違うよ」
「そうね。衛の本当の寝顔ってまだ見たことないわよね。疲れて寝ちゃったのは見てるけど」
「友香里さんがすっごく激しかったときのことだね?」
「手術のあとの話です」
「衛のほうが寝ちゃうの? 友香里さんじゃなくて?」
「薫ちゃん、その話を拡げるのはやめて」
「でも薫、なんで急に来ることになったの?」
「友達とご飯の約束してたのにドタキャンされちゃったから。なんとなく家に帰りづらくて」
「それはちょっとカッコ悪いな。僕がいないあいだちゃんと勉強してるかい?」
「してるよ」
「気を引き締めておかないとさ、柏原なにがしがお盆に帰省してきたら一気に淫らな日々が始まっちゃうよ」
「誰かさんたちと一緒にしないでくれる?」
「そうか。薫は友香里さんと違って自制できるんだね」
「私だってできます!」
 七時を回ってから着いたのであっという間に面会時間が終わってしまった。送ってくれるという友香里に薫は素直にお願いしますと応えた。相変わらず雨が降っているし、そもそもがひとりで電車に乗って帰りたくなかったから衛を訪ねてきたのである。
 車中、友香里とはいわゆる世間話しかしなかった。勉強はどう? 仕事はどう? そんな話だ。衛のことはもう話題に上らなかった。それはたぶん友香里がいま充分に満たされているからだろうと薫は思った。埋めたくなるような隙間などないに違いない。
 お腹が空かなかったし表に出るのも億劫だったので薫は夕食を済ませていなかった。孝介は弁当を買ってバスに乗った。薫はそのまま病院に向かってしまった。友香里は衛の病室で一緒にお弁当を食べていた。母には要らないと言って家を出ていた。幸い冷蔵庫に残り物が少しあった。この日に炊いたご飯も茶碗一杯分はあった。それで食事を済ませると自室に上がった。
 ごろんとベッドに仰向けになると急にぽろぽろと涙が溢れ出てきた。今日一日我慢していたのかと思うとさらに止め処無くなってしまった。そのうちいよいよ声まで上がりそうになり慌てて枕に顔を埋めた。どうしてこんなに我慢してしまったのだろうと自分が嫌になった。
 これは去ってしまった孝介のためばかりではない。消えてしまった衛の脚のためでもある。そう思ったほうが惨めな気分がほんの少し楽になる。衛には叱られそうだけれど今夜は許してほしい。衛はきっと許してくれる。僕の役立たずな脚でも役に立つことがあるんだなあ、なんて笑いながら。
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