§28 11月01日(火) 16時頃 ある秋の夕暮の木之下真由

文字数 6,268文字

 日付が変わった午前一時に八・五℃の最高気温を観測したあと、日付が変わる二十四時に三・五℃の最低気温を観測するまで、朝方にみぞれの混じった一日は時間の経過とともに冷え込んで行った。最高気温が十℃を超えないこの秋の終わりの最初の日であり、北からの冷たい風が吹き続けた。
「村井さん?」
 バスが来るまでまだ時間があったので、今日は酷く寒いからここで夕食を買って帰ろうと思い、病院を出てすぐのところにあるコンビニのお弁当コーナーの前で、見知った顔に出くわした。名目上も物理的にも離れている回復期リハビリテーション病棟の人間も、使うバス停は同じであり、その近くにコンビニはここ一軒しかないのだから、これまでも顔を合わせる機会があっても不思議なことはないはずなのに、考えて見れば義肢装具士の村井と病棟の外で会うのは初めてだった。
「あゝ、木之下さん。今日は日勤ですか」
「はい。村井さんも今日はこの時間ですか?」
「いえ。私は今日は、ちょっとその……」
 言い淀んだところで木之下真由は先を促すように、しかしむろんそんな考えもなく、なんとはなしに首を傾けた。その仕草を可愛らしいと感じてしまった村井真人は一瞬たじろいでから、カゴに入っているドリンク剤が視界に入ったので諦めて言葉を継いだ。
「午後から頭痛が始まりまして。それが酷くなってきたものですから」
「え、たいへん! 急に寒くなりましたもんね。熱はないんですか? お腹の具合は?」
「頭痛だけです。心配ないです」
 勤務外でもこの人は表情が乏しくぼそぼそと話すのだなと真由は思った。レジで先を譲られたものの、具合が悪いと聞いてしまったあとでもあり、真由はなんとなく村井が表に出てくるのを待った。冷たい北風にマフラーをきつく巻き付けて。
「村井さんもバスですか? どこまで乗ります?」
「私は車です」
「車? 運転して帰るんですか?」
「ええ、置きっぱなしにしておくのは――」
「ダメです。危ないです。車は置いて行ってください」
「しかしバスでは遠くなってしまいます」
「どちらにお住まいなんですか? あ、私車運転しましょうか?」
「いや、それはちょっと――」
「明日は私お休みなんです。だから時間は気にしないで下さい。私、運転します。車はどこに止めてあります? あ、まさかここの駐車場まで乗って来てるとか?」
 その通りだった。病棟の駐車場からここまで運転してきたところである。木之下に言われるまでもなく、慎重にやらないと危ないという感覚はすでにそのときにあった。置きっぱなしにしておくわけにはいかないと言いかけたのは、そのような意味合いでのことだった。
 店の入り口の前でなお幾度か押し問答があり、村井は折れた。ポケットからキーを取り出し木之下に渡した。特徴のないグレーの中型国産車である。座席の位置を少し前に出してから、真由はエンジンをかけた。助手席に座る村井の様子は見るからに良くなかった。カゴの中にドリンク剤が入っているのを見てしまったが、それと頭痛薬と軽い食事とでなんとか凌げるものと考えているのだろう。
 村井のアパートは住所を聞けばなるほどバス通勤ではちょっと厳しい場所だった。バスも走ってはいるが本数は確実に少ないだろうし、そもそも病院からは一端ターミナル駅で路線を乗り換える必要がある。時間は大幅に違ってくるはずだ。
 そんなことを考えながら車を走らせ始め、途中、信号に止まるたびに村井の様子を見た。見るたびに体調が悪化しているのは明らかだった。今は目を閉じ顔を伏せ、真由が声をかけてもぼんやりとした応えしか返ってこない。真由は一大決心を迫られた。
 村井はひとり暮らしをしている。アパートに一人だと、先ほど尋ねたらそう答えた。そこに置き去りにしていいものか。むろん答えは考えるまでもない。問題は真由がそれを受け入れるかどうかに絞り込まれている。信号でまた村井の様子を見た。決心がつき、真由は車線を変えた。
「ここは…?」
「私のアパートです」
「……えっ?」
「大丈夫です。お布団は二組あります」
「いえ、そういうことではなく――」
「すみません。私そういう性格なんです。諦めてください」
 それでも村井真人という男は簡単にあきらめるような人間ではなかった。本来であれば、である。だが今は事情が違った。判断力が鈍っている。気力も衰えている。一晩くらい路駐しておいても問題ないと言って車を降りた真由に腕を支えられるようにして、ふらつく足元で階段を上がり、玄関の前の外廊下に少し待たされてから、村井真人は木之下真由の部屋に引っ張り込まれた。
 新しいけれども現下の状況に際しては明らかに狭い1DKの床に布団が敷いてある。壁際のベッドから、それでも精いっぱい離れた場所に。真由は去年の夏に別れた男が置いて行ったスウェットをベッドの下の収納から取り出した。どうしてそんなものを捨てずに持っていたのか説明はつかない。少なくとも今ここで説明するのは困難だし、そもそもそんな説明はこの状況下では不必要でもあった。
 村井は患者だ、と真由は自分に言い聞かせつつ、村井を着替えさせた。ドリンク剤と一緒に強い風邪薬を飲ませると布団の中に押し込んだ。食事はまだいい。一寝入りして目を覚ましたところでなければ、どうせ喉を通らないだろう。車を降りるまでグズグズと抵抗した村井だったが、そのあとはほぼ口を開くことなく真由の言いなりにすべて従って、すぐに眠りに落ちた。
 部屋のほうの灯りを消し、ダイニングの薄暗いテーブルに座って買ってきた弁当に目を落としたとき、ようやく真由は、もしかすると大変なことをしてしまったのではないかと気がついた。すぐそこに義肢装具士の村井が眠っている。そしてここは真由のアパートである。どうしてこうなったのだろうと考えても、自分を納得させられる説明は見つからなかった。
 今日は洗濯はできない。干す場所がない。こんな冷たい風が吹いている中で窓を開け表に干すなんてあり得ないし、村井の目につく部屋の中などもってのほかだ。ふとそう考えた真由は慌てて洗面所に向かい脱衣カゴの中身を取り出すとキッチンにあった手頃な大きさの紙袋に押し込んで、眠っている村井の足元でそっとクローゼットの中に隠した。
 あとはただ、ダイニングテーブルに座りスマホをいじりながら、なかなか進まない時間をいくども確かめて過ごすよりほかにない。適当な時間になっても村井が目を覚ましてくれなくて、こちらの睡魔が抗いきれないところまで来てしまったとき、あのベッドに寝ることができるだろうか。本当に大変なことをしてしまった。佐々木に電話をして助けを頼もうか。でもなんて説明すればいい? いや、そもそも佐々木は今日は夜勤だった。まったく私はなにをしているのだ。
 村井真人が目を覚ましたのは十一時少し前だった。いびきはもちろん寝息すらあまりに静かだったもので、真由はいくどかそっと顔を覗き込み、うん生きてる…なんて確かめたりしていた。眠っているときも表情に乏しい人である。まあ眠っているときまで表情豊かなんて人は少ない。むしろふだん表情の豊かな人の寝顔に接するとちょっと申し訳ないような気分になる。当人はきっと見せたくない仮面のようなものだと感じるからだ。職業柄、避けて通れないのだけれど。
「すみません、木之下さん。もう大丈夫です」
 村井は目を覚ましたときここがどこだかわからず戸惑うような様子は見せなかった。
「いま何時ですか? あゝ、十一時か。ずいぶん寝てしまった」
 上体を起こし周りを見回してベッドのヘッドボードにある時計を見た。
「ただの寝不足だったかな。もう頭も重たくないし、気分もいい」
 そうは言ってもすべて正確無比に覚えていたわけでもなさそうである。
「このスウェットは……。木之下さんのものではありませんね?」
「元カレが置いてったやつです。なんだか知らないけど取ってあったので」
「あゝ、そういうやつですか。とにかく助かりました。本当にありがとう」
「お腹、空いてません? 空いてますよね?」
「いや、そこまでなにもかもお世話になってしまっては――」
「私も食べてないので手間は一緒です。嫌いなものはありますか?」
「嫌いではないのですが、桃にアレルギーがあります」
「口腔アレルギー症候群ですね。桃おいしいのに」
「おいしく食べていたのですけどね、成人してから発症しました」
「とりあえずうどん作りますから、食べてください」
「……はい。……じゃあ、遠慮なく」
 そう言えば、会話の途中で改めて気づいたのだが、真由は食事をとっていなかった。コンビニで買った弁当が手つかずのままテーブルの上に置いてあった。電子レンジで温めるような音を立てたくないとか、少しそんなことを考えたのかもしれない。しかし我慢していたわけでもなく、こうして話をするまで空腹を感じなかったのは事実だ。真由はコンビニ弁当を冷蔵庫にしまった。
 中型の鍋に水を入れて火にかけると、冷凍庫からうどんとカットしておいた野菜と油揚げを取り出した。このサイズの鍋を買ったのはまさにこのようなシチュエーションのためだったことを思い出す。大勢で囲むのではなく、二人で向かい合う食卓にちょうどいい大きさ。
 テーブルの中央に鍋敷きを置き、布団の上に座っていた村井に声をかけた。真由が調理をしているあいだ一言も発していない。特段これと言って気になるような視線も感じなかった。あのぎょろりと瞳を動かすやつも、そう言えば今日はまだ見ていない。ずいぶん酷い頭痛のようだったから、まだ少しぼんやりしているのだろう。
 菜箸をそのまま取り箸にし、陶の器をふたつ出した。冷蔵庫の中には箸休めになるような漬け物や残り物もあったけれど、恥ずかしいし失礼だと思ったのでうどんを煮込んだ鍋だけである。白菜やほうれん草やネギなどがけっこう残っていて助かった。
「おいしいです、とても」
 村井の言葉に、木之下がにっこりと笑った。この子はえくぼができるのか、と村井は思った。
「よかったです。特別なにもしてませんけど」
「野菜をこんなふうにカットして冷凍しておとくと便利なんですね」
「あゝ、はい。一人だと使いきれないこと多いでしょう?」
「そうですね。私は自分で料理をしないので実感を伴っていませんが」
「誰か作ってくれる人がいるんですか?」
「そうしたサービスは契約していません」
「サービスという意味ではなくて。まあ広い意味ではサービスなんでしょうけど」
「ははっ。久しぶりに誰かが作ってくれたものを食べました。価格が設定されていないものを」
「今日はどうするつもりだったんですか?」
「どうするつもりもありませんでした。食欲がまったくなかったので」
「じゃあ、普段は?」
「ほぼ百パーセント電子レンジ依存です。その手のもので冷凍庫をいっぱいにしている」
「なんでも冷凍もの?」
「そうです。パスタもラーメンも冷凍のほうが旨いし手間もかからないし、ゴミも少ない。でも買ってくるのは初めから冷凍になっているものだけです。木之下さんがされていたように自分でなにかを冷凍保存したことはありません」
「私生活の様子が全然見えてこないんですけど」
「私は家でも義肢を作っています。ほかにすることもないですし」
「眠たくなるまでずっと?」
「あゝ、そうか――」
 なにを思い出したか、思いついたのか、箸を止めた顔に木之下が問いかけるように首を傾げると、村井は自分自身を笑うときにそうするように笑った。
「ここ数日ちょっと根を詰めてやり過ぎたのかもしれません。久瀬衛をなんとかしてやりたくて」
「あゝ、衛くん。義足が合わないんですか?」
「そうでもないんですが、少しでも気持ちよくフィットさせられないものかと。そうすれば幻肢痛も緩和されるのではないかと。話を聞けばずいぶん酷い症状なものだから。私にはほかにできることがありませんし。紺野さんの魔法も一過性だという話ですし」
「友香里さんの魔法――」
「魔法が通用する世界です。私がこんなこと口にすべきではないのかもしれませんが」
「いえ、魔法はあると思います、私も」
「いずれ説明がついてしまうのかもしれないですね、魔法がどんな仕組みで作用するのかも」
「説明がついたとしても、誰にでも使えるようにはならないでしょう?」
「そう、そこです。誰でもいいわけではないというところが魔法の魔法たる所以です」
「友香里さんの魔法は衛くんにしか通用しない」
「あるいはその逆なのかもしれません」
「衛くんの前でだけ友香里さんは魔法使いになる」
「ありそうな話だと思ってます」
「でも村井さんから魔法なんて言葉が出てくるとは思いませんでした」
「そうですか? だけど私は魔法使いになりたくてこの仕事に就いたんですよ」
「あゝ、そうなんですか。んふ、そうなんですね」
「おかしいですか?」
「ぜんぶ食べちゃってくださいね。残しちゃダメですよ。残しちゃイヤですよ」
「あ、はい」
 村井は本当にナベのうどんを綺麗に食べた。真由は村井をダイニングテーブルに座らせたまま背中を向けて洗い物をした。村井は真由の背中に話しかけることをしなかった。真由も途中で村井を振り返ることをしなかった。深夜のアパートはどこからも音が漏れ聞こえてくることのない静かな静かな闇の底にあった。表はきっと日中よりさらに冷え込んでいるはずだった。
 真由はエプロンを外し、キッチンの灯りを消すと、さっと村井を振り返った。
「今日はもう帰るとか言いませんよね?」
「え? いや――」
「車のカギは私が持ってます。探しても見つからない場所に」
「しかし木之下さん――」
「おっぱいの大きな女は嫌いだとか?」
 ダイニングの灯りまで消すと部屋の天井の常夜灯だけが残った。真由がテーブルを回り込むと慌てたように村井が椅子を立った。ちょうどいい肩幅、ちょうどいい胸の厚み。スウェットの匂いは六時間もそれをつけて眠った村井のそれにすっかり置き換えられている。
 本当にひどい頭痛があっただけで、熱が上がったりはせず、汗も掻かなかったらしい。村井の愛撫は平生の物腰をそのまま映し穏やかに進行した。だから真由は久しぶりに男の手が乳房をつかみ、男の口が乳首を吸う感覚をゆっくりと思い出すことができた。
 一瞬、久瀬衛のいらずらっぽい顔が脳裏をよぎり、しかし一瞬でどこかに消え去った。村井のいくらか粘着質な愛撫がそれを押し退けたのかもしれない。やっぱりこの人だったのかと、真由は不思議な気分に包まれた。やっぱりだなんて、そんな考えが()ぎったことなど一度もないはずなのに、きっとこの人なんだろうと、ずっとそう思っていたような気がした。
「明日はお仕事?」
「実はそうなんですよ」
「同じ服を着て行ったら怪しまれちゃう?」
「誰も私にそんな関心はもっていませんね」
「そう言えば今日は具合が悪くて早退したのよね?」
「だから明日は一緒に休めと言うわけですか?」
「もう充分な感じなの? もっと欲しくない?」
「もっと欲しいですね。ぜんぜん足りません」
「さっきいっぱい寝ちゃったから」
「そう。だからちっとも眠くない」
「眠くない理由はそれだけ?」
「いや、むしろこいつのほうが問題だ」
 今度はいくらか乱暴に噛みつかれ、嬉しさに思わず笑い声が漏れた。そう言えば、病棟で二番目に大きいと久瀬衛は言った。また衛くんが出てくるのね。でも二番目ってどういうこと? じゃあ一番は誰? あそこに私よりおっぱいが大きな看護師なんていたかな?
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