§23 10月04日(火) 23時頃 非常識なこと

文字数 3,982文字

 瑛太は自転車に乗ってやってきた。耳を澄ませていた奈々は家の前で自転車が止まり塀に立てかける音を確かめて窓辺のカーテンを開けた。ひと月前に初めてこんなことがあってから癖になってしまった。いつか両親に、あるいは妹に気づかれるかもしれない。妹はきっと無関心を装い告げ口はしないだろう。母は烈火のごとく怒りだす。父はもしかすると見なかったふりをしてくれるか。それでも深夜のことであり、家を出てくる瑛太のほうにもリスクがある。やめなければいけないと思ってはいる。しかしお互いそれぞれにこれを求めたい心情がある。
 初めての夜には瑛太が友香里と接触していた。この夜は奈々が衛の家の増築現場を見ていた。お互いそれを知らない。お互いそれは知らせていない。恋人のあいだにも秘密がある。そのせいでなんとなくお互いを避けてしまうような秘密もあれば、そのためにお互いを強く惹きつけ合うことになる秘密だってある。なにかあったのだろうなとは思っても怖くて尋ねられずに悶々としてしまう秘密もあれば、敢えて尋ねずにいることで親密な空気を生み出すような秘密もある。キスで有耶無耶のままにどこかへ消えてしまう秘密もあれば、キスでなにやらわからぬままに受け渡しがされてしまう秘密もある。キスは外受容体験でもあり内受容体験でもある。自他の境界を強く意識させられることもあれば、境界が侵され融合する感覚に浸ることもある。いつか葬り去られるだろう秘密があり、いつまでも抱え込むだろう秘密がある。
「電話でもよかったかもしれない」
「キスがしたかったわけじゃないんだね?」
「キスはいつだってしたいもの」
「それはいいことを聞いた」
「あ、でも校門の前とかはダメだよ」
「なんだ、それが許されるのかと思ったよ」
「今日ね、ビックリする話を聴いたの」
「電話でもよかったかもしれない話のことだね?」
「うん。あのね、久瀬くんの家にお部屋が増えるのよ。廊下から入った正面に庭に出られる窓があったでしょう? あそこを塞いで新しいお部屋をくっつけるんだって。窓がぜんぶ壁になっちゃうわけじゃないよ。左側のほうは窓にして右側の壁に沿って作るのね」
「現場を見て来た人間の物言いだな」
「え、どうして?」
「位置関係の説明が、彼の部屋を内側から見たことのある人間の目線になっている」
「……ごめんなさい」
「いいよ。少なくとも卒業するまでは久瀬の影と格闘しなければならないんだから」
「同じ大学になったら?」
「俺たちのほうはこの街を出る。そうだよね?」
「久瀬くんはたぶん出ないね。すっごく勉強できるのに」
「事故がそれを奪ったとは思えないな。元から久瀬はどこでもいいんだ。そんな感じしない?」
「する。でもどこでもいいなんてあるのかな? ちょっとよくわからない」
「とにかくあの人の部屋ができるという話なんだね?」
「うん、そう。それがよくわからないの。それってなに?」
「なにがわからない?」
「う~ん。なにがわからないかもわからない。なんか変な感じがする。それだけなんだけど」
「そのなにかわからない変な感じを俺に押しつけるために呼び出したわけか」
「言い方酷い。合ってるけど」
「馴染みのないことだから、かな」
「馴染みのないこと」
「あるいは非常識なこと、とか」
「あ、そっちのほうがしっくりくるかも」
「まだこっちに移り切ってない感じだね。そっちに残ってるのがありそうだ」
「もう一回する?」
「ぜんぶ俺に譲り渡すつもりかあ」
「ダメ?」
「いいよ。ここで卒倒するかもしれないけどね」
「そんなに素敵?」
 奈々の問いかけに瑛太がどう答えたかを詮索するのは無粋というものだろう。敢えて少しばかりほのめかすとすれば、「答えた」ではなく「応えた」のだという辺りにとどめておくべき事柄だ。この夜も瑛太は事も無く門扉の外に出て、奈々のほうも事も無く二階の窓辺から見送ることができた。卒業するまで誰にも見つからずに過ごせるかわからなかった。――数年後、大学生になった奈々が帰省した際、それは年末のことだったが、母だけは知っていたことを聞いた。母が気づいたのではない。お隣りの井上さんが気づいて母にわざわざご注進くださっていたのだった。しかし母はそれを奈々にも言わなかったし、父にも話さなかった。どうして叱られなかったのかと尋ねると、私も同じことをしていたからだと言って母は笑った。奈々はほとんど呆然としてしまった。母がどんな高校生だったかなどもちろん知らないけれど、真面目でおとなしい少女であったろうと想像していたのだ。実際、真面目でおとなしい少女だったと母は言った。しかし真面目でおとなしい少女だって恋をする。してはいけないなんて法はない。そして真面目でおとなしい少女だってキスがしたくなる。してはいけないなんて法もない。母の密会の場は台所の勝手口だったそうである。考えるまでもなく当たり前のことなのだが、母もかつては高校生で、恋をして、深夜の秘密を持っていた。もちろんだからと言って高校生の奈々に時間を気にせず自由に会っていいとは言えない。知らないふりをするのがいちばんだ。
 ベッドに戻った奈々は確かに少し胸の苦しい感じが軽くなったような気がした。瑛太が持って行ってくれたような気がした。奈々が吐き出したものを瑛太が呑み込んだのだ。けれどもなにかわからない変な感じはすっかり消えてなくなりはしなかった。馴染みのないこと、非常識なこと、と瑛太は言った。奈々はベッドの上で首をめぐらせて、もしあの窓の向こうに壁一枚を隔てて瑛太のベッドがあるとしたら、いったいどんな気分がするものだろうと考えた。うっかりそんなことを想像してしまった。そっとドアが開いて瑛太が入ってくる。奈々は慌てて背中を向け眠っているふりをする。一瞬すっと背中が涼しくなり、しかしすぐにあたたかなものに包まれる。脇腹の辺りから手が滑り込んできて、お尻に熱いものが押しつけられる。それでも奈々は目をわざと開けない。眠っているのだから目は開かない。今からこんなことを始めてしまったら寝不足になるのに瑛太の手はやめてくれないのだ。明日は水曜日。午後には久瀬衛の姿が教室から消える。あそこでは非常識なことが起きている。大勢がそれに加担している。保健室の里村も、図書室の丸谷も。あそこでも非常識なことが起きている。久瀬衛の父親も、母親も、姉も。ここでは? ここでいま起きていることは? これは違うの? 違わないの? 私たちがしてることと久瀬くんがしようとしてることはどこか違うの? どこも違わないの? それならどうしてこんなふうに変な感じがするの?

     *

 三日目の月はとっくに沈んでいた。だけど寝静まったあとに星明りで照らし出されるほどの田舎町でもない。道の向こうのほうにある街灯の頼りない光が辛うじて視認を助けてくれる。瑛太はその奇妙に歪んだ基礎工事の上にいったいどんな建物が建つのか想像できずにいた。あの女の部屋ができる。ただそれだけを、それだけしか聞いていない瑛太は、そもそも増設されるのは部屋だけではなく狭いながらも洗面所と、そして車椅子で使うことのできるトイレまでがあることを知らない。門扉から玄関先を左に折れた庭先から出入りできることなど知る由もない。自転車に跨ったまま片足を地面につき目を細めたり周りを見回してみたりしてから諦めた。構造はさっぱりわからないけれど兎も角ここに部屋ができる。衛の部屋の窓が小さくなっているからその先の壁に穴があけられるのだろう。いや穴ではなくドアだ。いや車椅子の久瀬衛が使うのだからスライド式の扉だ。なるほど奈々はこれを見て混乱してしまった。今の俺と同じように。いや基礎工事の形が歪んでいるせいでそこに建物の姿をイメージできないからではない。彼の部屋の壁に新しい扉が生まれて新しい部屋とつながる事態そのものが招く混乱だ。俺たちは久瀬衛の部屋を知っている。正面に大きなガラス窓が並び庭に面していた。明るく開放的な雰囲気の部屋だ。そこに扉が生まれ部屋が生まれる。物理的な建て増しが問題なのではない。そこにあの女がいることが問題なのだ。
 瑛太は自転車をこぎ出した。すでに日付が変わっていた。恐らく姉だけは起きている。見てくれだけは上等だが空っぽの女だ。こんな時間に家を出入りしても声をかけてきたりはしない。まったく久瀬衛はなんてことをしてくれるのだ。非常識にもほどがある。女の部屋をつくるだって? 奈々が混乱するのも当然ではないか。いったいあの男はいつどこでそんな免罪符を手に入れたのだ? 免罪符と言えば午後の授業をサボり保健室で寛いでいるのもそうだ。つまりは里村もこれに一枚噛んでいるというわけか。確かにあの男が授業中にいきなり大きな音を立てることは減っている。ここ数日は聞いていない。幻肢痛とか言ったか。治ったわけではないのだろう。治ったのであれば教室にいる。あの時間保健室でのたうち回っているということか? 里村が付きっきりで看ているのか? いやそっちはどうでもいい。里村は養護教諭なのだから。しかしあの女は違う。違うということを俺は知っている。奈々や雅臣が知らないあの女の本当の姿を。いや違う。それは俺が勝手に拵えた物語だ。よくわかっている。あの女はそう言いたかったのだろう。勝手に俺の物語に登場させられるのは迷惑だと。しかしおかしいではないか。どうして久瀬衛なのだ? そこに周が見えたからだろう? 何故それを否定する? 周では満足させられないだって? しかし周にそれを見せたのはあんただろう? 周の目にそんな未来を見せたのはあんたじゃないか! 俺だって知ってるよ。あれはただの事故じゃなかった。ただの交通事故じゃなかった。それくらい、そんなことくらい、俺だって知ってるんだよ……。
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