§03 07月08日(金) 12時頃 離断(2)

文字数 3,375文字

 車椅子は木之下が押し、エレベーターに乗る衛を扉の前で見送ると、友香里は病室に戻った。しばらくこの部屋の扉を開ける人間はいないはずだった。窓の外は時間の経過とともに明るさを増している。いつもの椅子に座り、誘われるようにベッドの上に胸を投げ出した。衛の匂いがする。病院のシーツの匂いと十七歳の少年の匂い。もうすぐ十八歳になる。順調に予定通り回復すれば誕生日前に退院できるけれど、少しでも予後に問題が見つかればここで十八歳になる。でも友香里にはここでもいいような気がした。ここでなら誰にも気兼ねなくお祝いしてあげられる。いや、やはりそんなことはどうでもいい。十八歳の誕生日を迎えられるのだからそれでいい。去年、なにかが少しでも違っていれば、たとえばスポーツカーではなく大型の乗用車だったら、いくつか歩みが遅かったり早かったりしていたら、あるいは雨がもっと激しかったり弱まったりしていたら、この誕生日は永遠にやってこなかったかもしれないのだ。
 久しぶりにそんなことを考えてしまい、事故の

が事件の

を引っ張り出してしまう前に、友香里は慌てて追い払おうと強く目をつむった。それからひとつ溜め息をつくと、いくらか寝不足のせいもあり、急に抗い難い眠気が襲ってきた。眠ってしまおうと思い椅子を少しベッドに近づけた。膝と体を横に向け、胸だけではなくお腹までベッドの上に這い出した。髪留めを外すのは少しやり過ぎのような気がしたのでやめておいた。万が一、誰かがこの部屋の扉を開けたとき、ベッドの上に女の長い髪が広がっている光景を目にしたら、悲鳴は上がらないまでも思わず息を呑み足をとめるだろう。いくつか寿命が縮むかもしれない。何日か、何時間か。本当にそんな話があるのだろうか。人には定められた寿命があるとか。いけない。またおかしなことを考えそうになっている。眠ろう。眠ってしまおう。この時間に私ができることはなにもない。待つことのほかなにもない。けれど私は待っていてほしいと言われて待っている。待っている先に約束がある。待ちぼうけを心配するような場所には、私はいない。――
「え、マジ寝してたんですか!?
「はい。ごめんなさい……」
「いや、まあ別に問題ないですけど。――あ、いや問題あるかな? いや大ありだな。大騒ぎになるかも。うちの師長こういうの許せないタイプだから」
「あの、できれば、師長さんには――」
「冗談です」
「……真由さんてそういう性格だった?」
「鍛えてるんですよ。なんとかあのクソガキに一杯食わせてやりたいと思いません?」
「私は別に――」
「あ、そうだ! 麻酔から覚めたら世界が一変してて、友香里さんも私も知らない人になっちゃってるとか、どうです?」
「それは可哀そうだわ」
「持ちかける人間を間違えましたね、完全に」
 ベッドをあいだに挟み、窓側に友香里が、扉のある廊下側に木之下が、ちょうど向かい合わせに座っている。衛を麻酔科医に預けたあとナースセンターで報告を済ませたところ、病室に衛がいないので専属業務から解放されていたために、あれこれと雑用を押しつけられてしまった。あっという間にけっこうな時間が経って開けた扉の先に、ベッドに突っ伏している女を見つけた。木之下はしばし呆然と立ち尽くしたあと、むろんそれは考えるまでもなく友香里であるほかになかったのだが、部屋の隅から椅子を持ってきて真向かいに座った。友香里は髪を後ろに束ねて留めており、ベッドの上で目を閉じている横顔が女の目にも艶やかに美しく、誘い込まれるようについ見入ってしまった。やがてその気配を察したのか、はッとして友香里が顔を上げた。木之下が真向かいに座っているのを見て顔を赤らめた。
「そろそろ終わるのかしら?」
「順調に進んであと三十分ですかね」
「けっこうかかるのね」
「ガールズトークでもして暇潰しますか」
「真由さんのお話を聴かせてくれるの?」
「どうして私なんです?」
「だって私のほうには衛の話しかないもの」
「あの、変なこと訊きますけど」
 木之下が身を乗り出してベッドの上に頬杖をついた。
「変なことはやめてちょうだい」
「衛くんの親とはどういう感じなんですか?」
「まあ、容認してくれてる感じね」
「こそこそやってるわけじゃない?」
「こそこそはしてないわよ」
「衛くんて大学行きますよね?」
「行くわね」
「ここの国立なんて簡単に受かりますよね?」
「そうね、医学部でなければ」
「そしたら同棲始める流れですよね?」
「そっか。それ考えたことなかった」
「なんかもう淫らに溺れていくやつだなあ」
 友香里も身を乗り出してベッドの上に頬杖をついた。
「そうなっちゃうと思う?」
「いやもう確定でしょ」
「確定ではないと思うけど」
「寝起きからさっそく一発でしょ」
「ちょ、一発とかやめて……」
「いやあ、なんか想像しちゃうわあ」
「想像しないでよ」
「羨ましいなあ」
「寝起きからしたいの?」
「したくないの?」
「……う~ん、どうかなあ」
 木之下が呼ばれたのはちょうど三十分ほどが経ってからだった。ベッドの両サイドから頬杖をついて向き合っていた二人は慌てて身を起こし意味もなく赤面した。電話であれちょっとした物音であれ、ふたりである状況への唐突な介入の発生は、ふたりであったことそのものを指弾するかのように意味もなく暴露し、それまでの会話の内容とは無関係に当人たちを慌てさせ、あるいは当惑させ、さらにはここでのように赤面させる。確かに二人は赤面するような話題を交わしていたのだが、誰かが聞き耳を立てていたことが明らかになったわけでもないにもかかわらず。
 衛は眠っていた。麻酔からの覚醒はむろん確認済みである。しかし衛はその直後にまた眠ってしまった。今はただ純粋に眠っている。ベッドに移されてふたたび友香里と木之下は今度は横になった衛を挟んで向かい合った。その前に木之下は久瀬家に手術が無事終わったことを伝えていた。木之下はそのような役割を担うべく専属指名されていたからであり、電話に出たのは姉の薫だったが、友香里はその間忙しなく働く医師や看護師の様子を部屋の隅っこに立ち呆然と眺めていた。
 ベッドを移す際に二人とも離断後の衛の脚を見た。脚の喪失を見た。いまも薄い上掛けが先のほうで不自然に凹んでいる。医師や看護師たちが去り、木之下があとを任され、病室に三人きり残された途端、ふいに友香里が顔を覆った。木之下はこの場にとどまるべきか迷わされた。友香里は突き上げてくる嗚咽を抑え込んでいる。わかっていたことだ。こうなるのはわかっていた。だから木之下は椅子を立たなかった。私が指名されたのはこのときここにとどまるためでもあるのだと思った。
 ずいぶん経ってから顔を上げた友香里は木之下を残して部屋を出た。お化粧を直してくるのだろうと待っていると、戻ってきた友香里の印象がちょっと変わっていた。ややあって、友香里は涙の痕を拭いはしたものの、化粧のほうは直すのではなくほとんど落としてきたことに気がついた。恐る恐る尋ねてみると、どうせまた泣くのだし泣けば汚くなるから落としてしまったと答えたので、木之下は感に打たれ、まじまじとその顔に眺め入った。世の中には生まれながらにしてなにもかも不足なくそろっている人間がいるものだと心の底から感心した。
「やっぱりなにかイタズラしましょうよ」
「しません」
「ちょっとだけ」
「たとえば?」
「う~ん、あ、友香里さんもナースの恰好するとか?」
「それがちょっとなの?」
「けっこう背高いですよね。誰のが合うかなあ」
「衛はセーラー服のほうが好きみたいだけど」
「マジで? あ、まさか友香里さん――」
「してないから!」
「でもそっかあ。セーラー服に負けるのはちょっとショックだわあ」
「真由さんならまだ着れるんじゃない?」
「セーラー服? いやいや、違う商売になっちゃいますって。あれ? ほんとは着たいってこと?」
「違います!」
「友香里さんはさすがにもうヤバいでしょ」
「そんなに歳変わらないわよ」
「いやいや、なに言っちゃってるんだか。もうぜんぜんお姉さんじゃないですか」
「全然てことはないでしょう?」
「ぜんぜんですって。いやもう白バイでも追いつかないでしょ」
「失礼な」
 衛は二人の女のあいだに横たわり、しかしまだ遥かに遠く向こう側にいた。
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