§12 07月14日(木) 16時頃 義体化と電脳化

文字数 4,071文字

「その椅子は保奈美さんのおっきなお尻にはちょっと小さいかもしれないよ」
 ベッドサイドの丸椅子に腰を下ろそうとした瞬間に衛がそう口にして、保奈美はひとつ怖い顔をして見せてからニヤリと笑った。
「なあんだ、元気そうじゃないの」
「そんな残念そうに言うセリフじゃないと思うな」
「わざわざお見舞いに来る必要もなかったみたいね」
「両脚を切り落としたんだよ。僕は大変な重傷患者なんだ」
「重傷なのは去年からずっとでしょ。――どんな感じ? ちょっと見せてよ」
「いいよ。こんな感じ」
 と、衛は上掛けをまくった。
「あら、さっぱりしたわね」
「それは昨日床屋さんに行ってきた少年にかける言葉だ。――でもそうだな、言われてみればちょっとさっぱりした感じもする。正直ほんと邪魔だなあて思ってたからね」
「いいわ。もう隠しといて」
 衛の手ではきれいに戻らなかった上掛けを、保奈美が手を伸ばして整えた。
「ねえ、紺野さん以外に誰かお見舞い来てくれた?」
「西尾さんと多田くんと上戸くんが来てくれた。――あ、西尾さんと上戸くんと多田くんが来てくれた」
「なんで順番入れ替えたの?」
「西尾さんの隣りにはこれからいつも上戸くんがいることになったからね。僕もそれを尊重しなければいけない」
「へえ、そうなんだ。ちゃんとゴムつけるように言った?」
「そういうのは少年課のお巡りさんの仕事だろう?」
「今度会ったら言っときなさいよ。経験豊富な先輩からの助言として」
「経験豊富っていうのはいろんな人を相手にしてきてないと使わない言い回しだよね? 同じ人とたくさんしてても経験豊富とは言わない。でもどうしてなんだろう? そんなに相手によって違うもの? 僕はあいにく友香里さんしか知らないからさ、いつか経験豊富な保奈美さんに訊いてみようと思ってたんだ」
「たっぷり皮肉を込めてくれるじゃないの」
「だって友香里さんより保奈美さんのほうが実質的にモテるでしょ?」
「実質的にって、どういう意味よ?」
「友香里さんは高嶺の花だから実際にモテるところまで到達せずに終わるケースが多いわけさ」
「私のお尻はそんなに軽くないわよ」
「アハハ! それ見た目通りでおもしろいね」
 このクソ坊主、本当に元気そうだなと思い、保奈美は安堵した。ちょっと見せてよ、と気軽なふうを装って言ったものの、正直、積極的に見たくはない。上掛けの凹み具合でなにが起きたのかは充分に想像も理解もできる。しかしそれにも衛はあっさりと布団をまくって見せた。見事にすっぱりと膝から下がない。すぐに隠してもらったが恐らくこの残像はしばらく消えて失くなりはしないだろう。あの西尾という少女もやってきたのであれば、それに少年たちも一緒にやってきたとあっけらかんと口にするのだから、衛の精神状態は安定していると考えていい。友香里は五時までに来ると言っていた。久しぶりに少しおしゃべりをして気持ちよく帰宅できそうだ。
「手術って部分麻酔?」
「うゝん、全身麻酔。だから目が覚めたとき世界が一変しててさ、友香里さんの顔を見ても誰だかわからなかったんだよ。でもキスしてくれたらすぐに思い出した」
「素敵なお話だこと」
「しまった! 保奈美さんが誰だかわからないふりをすればよかった。そしたらなにかしら思い出せるようなことをしてもらえたのに」
「私はなにをすれば思い出してもらえるわけ?」
「そうだなあ。保奈美さんを象徴するものと言えばそのおっきなお尻だと思うけど、考えてみれば僕まだ保奈美さんのお尻って触ったことなかったよね」
「一生ないわよ、そんなの」
「仮に僕が友香里さんから捨てられたとしてもない?」
「ないわね」
「即答しちゃうのか」
「年下は考えられないわ」
「でもそれだと年々候補者が減って行くよ? 年下にしとけば年々増え続けるよ?」
「確かにその通りね。でもあんたみたいな小生意気な坊主はゴメンだわ」
「僕だっていつまでも坊主でいるわけじゃない」
「そう? あなたずっと坊やでいそうだけど」
「あのとき死んじゃってればそうなったろうね」
「そしたら紺野さんも私もあなたのこと知らずに終わったわよ」
「そっか。そうだね。西尾さんもそうだ。多田くんも上戸くんも。真由ちゃんもか。それはちょっとよろしくないな。いやかなりよろしくない。それはダメだ。保奈美さん、それはダメだよ」
「そう思うなら頑張って大人になりなさい」
「わかった。そうする」
 と、なにやら難しい顔をした。保奈美は思わず吹き出しそうになった。十八歳になるにしては衛はやはり明らかに幼い。それは十歳くらいの少年がする顔だ。大人になりたくないではなく、早く大人になりたいと望む、正しい少年がする顔だ。少年の心を失っていないなどと言われて喜んでいるような大人の男が絶対にしない顔だ。あのセリフの裏には冷笑と軽蔑が隠されていることを、単に時間経過の結果として大人になってしまった男たちは気づかない。少年は望んで大人になるものだ。思春期の葛藤は大人になることへの抵抗ではなく、大人になり切れないことへの苛立ちでなければならない。
 保奈美は話題を変えた。義足の話を向けてみた。案の定と言うべきか、いつもの衛が姿を現した。利害関係者にならない大人が必要なのだと保奈美に訴えたときと同じ議論である。そこでは衛にとっての「利」や「害」などは問題ではなく、彼らにとっての「利」や「害」だけが問題になっている。衛は一貫してそう主張してきた。あなたの悦びは私の悦びですといった言説を衛は忌避する。衛が言う利害関係者とは、衛の悦びを自分たちの悦びと感じる人たちのことではなく、衛の悦びを自分たちの悦びに誘導して嵌め込もうとする人間たちのことだ。まったく嗅覚の良く働く少年である。
「あら、沢邊さん!」
 ノックもなく開いた扉から友香里が姿を見せた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「うん、元気よ。――衛、お友達は帰ったの?」
「さっき沢邊さんが警棒を振り回してみんなを追い出したところさ」
「お巡りさんに追い出されるような悪さをしてたのね」
 友香里はベッドの足元のほうを回り、保奈美の向かい側でバッグを椅子の上に置いた。
「衛の脚、見た?」
「見たよ。散髪に行ったみたいにさっぱりしたね。義足の話も聞いたよ」
「このさき僕はついに義体を手に入れるわけさ」
「ただの義足でしょ」
 と、今度はベッドの頭のほうを回り、ゴミ箱を手にしてサイドテーブルの上に散らかったお菓子の空き袋などを片付けながら、友香里は慣れたもので衛の与太話を淡々とあしらって行く。
「音速を超えるスピードで走れるようになる」
「スポーツなんかしないくせに」
「すでに東氏が電脳化の手術も終えてくれた」
「もっといい子にしてくれるよう東先生にお願いしとけばよかったわねえ」
「友香里さん、今日からもう僕を『いい子』なんて呼んではいけない」
「どうして?」
「どうしてもなにもない。とにかく『坊や』とか『いい子』とかは終わりだ」
「そうなの? まだもう少し先でいいと思うけど」
「……ん、そうかな?」
「紺野さんは甘いねえ」
 近況を交換し、まもなく衛と友香里の話題がすでに聴いた友達や義足のことに移りそうになったので、保奈美は腰を上げた。たまには一緒に食事をしようと友香里から誘われたものの、ここを出るのは面会時間が終わる八時以降だと言うものだから、呆れて肩をすくめてやった。三時間も二人の話に付き合うのは苦行と名付けるよりほかにない。友香里はいつまでも衛を「いい子」と呼び続ければいいではないか。そんなの知ったこっちゃないよ。
 雨の日の夕暮れは道が混み、遅れてやってきた(もはや時刻表が用をなさなくなっている)バスの車中も蒸し暑く、誰が悪いというわけでもないのだが誰かに当たり散らしたくような不快感を醸成させながら、保奈美はターミナル駅についた。今日はどこか表で食事をしてから寮に戻ろうと考えてロータリーから駅のコンコースに入った。その先に、見間違えようのない豊田の後ろ姿を見つけた。後ろ姿では誰とも見分けのつかない女が甘えるように腕に引っ付いている。
 同伴ってやつか? しかし女が身に着けている衣装に派手さはなく、それどころか近くのアパートから出てきたばかりのようにも見える。それに、引っ付かれていないほうの豊田の手には、一見して食材が入っているとわかるスーパーバッグが下がっていた。時間から推して仕事帰りに待ち合わせたのだろう。料理を作り体を預け人目を憚らずに甘えてくれる女ができたというわけか。顔を見てやりたかったが前に回り込むのは難しい。保奈美は気分が変わり弁当を買って寮に帰ることにした。
 そう、すべて紺野友香里のせいだった。あのとき豊田が酷くみっともなく見えて、一瞬で酔いが醒めてしまったように感じたのは、紺野友香里を相手にしていたからだった。今頃そのことに気がついた。いつもおどおどと腰の引けた態度で接し、結局は髪の毛一本にさえ触れることなく無残に袖にされた、あの惨めで哀れで痛ましい姿にまで豊田を堕としたのは紺野友香里だ。私が同じ目線で、同じ感覚で、同じ価値観で豊田を見てどうするというのか。
 だが、それも今日でお終いになる。いや、あと一回二回はあるかもしれない。それでもこの夏の終わりまでのこと。手術が無事に済めばステージが変わり、私たちは久瀬衛から解放される。――私たち? 私たちとは誰のことだ? 紺野友香里は終わらない。家族も終わらない。今日お見舞いに来た友達もまだ終わらないだろう。リハビリもこれから義足を付けるのだからむしろ始まりだ。では私だけか? 私だけが終わるのか? なぜ? なぜ私だけが終わる? ――そう言えば、ちょっと挨拶をした保健室の先生にも、あのとき私はこの夏までだと自分から口にした。
 あれはなんだったのだろう? 久瀬衛には終わりが来ないのに、なぜ私にだけ終わりが来るのだろう? 誰に訊けばわかる? 誰がその理由を知っている? どこに行けば会える? 警察と、病院と、学校と、私はそのほかにどこを知っている?
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