§07 07月08日(金) 20時頃 離断(4)

文字数 2,629文字

 面会時間を超えても椅子から立とうとする気配もなくおしゃべりを続ける友香里の様子に、ひょっとして壊れているのかと疑って衛はサイドテーブルの上から置き時計を手に取った。電池を入れ替えたのがいつだったか覚えていないけれど確かに動いてはいる。少なくともこれは音波時計であり動いてさえいれば時刻が狂う可能性は極めて低い。衛はピンときた。
「今日はお泊りするの?」
「帰るわよ。でも今日はお見舞いじゃなくて立会いだから時間は気にしなくていいって」
「つまりお泊りってことだね?」
「違います」
「友香里さんていびきうるさい?」
「自分じゃわからないけど、誰かに指摘されたことはないわね」
「じゃあ寝相は?」
「ベッドから落ちたこともない」
「誰かを蹴り落としたことは?」
「……ありません」
「それならこのベッドでもなんとかなりそうだな」
「だからお泊りはしないって」
「じゃあ僕はこの監獄みたいな部屋にひとりきりってこと!?
「寝つくまではいてあげようと思ってたんだけど」
「二時とかになると思うよ」
「もっと早く寝なさい」
「無理だよ。昼間あんなに寝ちゃったんだから眠れるわけがない。やっぱり真由ちゃんにはここに寝泊まりするとこまで要請すべきだったな」
「ここに寝泊まりできるなら私がするわよ」
「そっか。わかったぞ。友香里さんも患者になればいいんだ。この部屋広いからベッドも並べられるしね。患者となれば病院当局だって拒否できない。正当なる理由ってやつさ」
「私はどんな事情で入院するのかしら?」
「う~ん、そうだなあ。あんまり痛くないほうがいいよねえ」
「ここ外科病棟よ? 痛くなかったら入院にならないでしょう」
「じゃあね、トイレで足を滑らせてお尻のへんを骨折するとか、どう?」
「嫌ねえ、それ。でも仮にそんな事故に遭ったとして、衛と同じ部屋になると思う?」
「お願いすればなるんじゃないかな」
「なりません。男女は別です」
「ふむ。世の中ままならないものだな」
 看護師は一時間ごとにやってくる。日中はずっと木之下がいたもののすでに夜勤の人間に交代していた。熱を測り、脈を取り、痛みはないか気分は悪くないかと尋ねてくる。この夜の看護師も知った顔ではあったが、なにもないですと衛は軽口ひとつ発することなくにこやかに微笑んだ。退室する際には友香里に頭を下げる。友香里も同じようにして応じる。もう用件は済んだという顔をして、衛はそんな友香里を見ている。扉が閉まり友香里の向き直るのを待っている。
 木之下に促されて夕食を調達しに病室を出た際に、病院内の売店でサンドイッチと紅茶を買ったのだが、中庭に出て少し表の空気を吸い夕暮れの空を見上げた。風が頬を撫でたとき、化粧をほとんど落としていたことを思い出した友香里は、病室に戻る前に閑散とした外来ロビーの奥の化粧室に立ち寄っていた。女の人がそんなふうに化粧を落としてみたり施してきたりするのを見るのはなんとも贅沢に嬉しいものだな、と衛は思った。
 痛みませんように、と祈るように手を合わせた木之下は、友香里が戻ってきて間もなく、明日また八時に来ると言って去った。衛が隠してほしいと言った幻肢のことは口にしなかった。痛まないのであれば聞いていないで済ませても問題はない。幻肢はほぼ必ずと言っていいほどにあるが、それだけで不安を訴える患者もいる一方で、ことさら騒ぎ立てない人間もいる。不自然なところはない。しかし幻肢があると聞いていない友香里でも、痛みがないかはやはり気になるのだ。
「ほんとうに痛くない?」
「痛かったらちゃんと言うよ。僕はそういうことを耐え忍ぶようなタイプじゃない。朝から痛かったら今日は仕事に行かないでほしい、て言う」
「いつもそばにいられるならそうしてあげたいけど」
「高校生やってるあいだは無理だよね」
「あら、珍しくまっとうな発言」
「だけど卒業しないで高校生をやめるわけにはいかない。つまりはあと一年と八ヶ月ものあいだ僕は友香里さんからおはようのキスをしてもらえない。足が痛いからそばにいてほしいとかそんなところにたどり着く前におはようのキスですら遥かに遠い。ほんと、嫌になっちゃうよ」
「でもね、衛、それはいつか必ずやってくるものだから。待っていれば必ず。だからそういうものは待っている時間を楽しまないといけないの。手が届かないもどかしさを楽しまないと。手に入れてしまったら忘れちゃうものだから」
「友香里さんがイキそうになったら寸止めしてほしいって話?」
「元気そうね。帰るわ」
 友香里は実のところ本当に帰るつもりで腰を上げた。そろそろそんな時間になっている。今日は父の健忘症(?)のせいで車が使えなかったから、バスに間に合わないとタクシーを使うことになる。それでも構わないのだけれど際限なくここにいることはできないのだし、それこそお泊りはできないのだから、まだバスを使える時間であるとか恣意的でもなんらかの目当てを用意しないことには、いつまでも腰を上げるタイミングはやってこない。腰を上げたくなんかないのだからやってこない。だから友香里はいつもの衛の軽口を契機にハンドバッグと夕食のゴミを手に立ち上がった。
「明日は十時に来るからね」
「真由ちゃんは八時から来るのに?」
「彼女は仕事で来るのよ」
「密室に二時間も二人きりにして心配にならない?」
「別に」
「僕はちょっと心配だな。真由ちゃんに襲われたら今のこの状態じゃ逃げようがない」
「逃げられなくてもノーは言えるでしょう?」
「あの真由ちゃんがもしかするとおっぱいも露に迫ってくるというのにノーと言えと?」
「言いなさい」
「努力はしてみよう」
「期待してるわ。じゃあね、おやすみなさい」
「忘れ物」
「あゝ、そうね」
 友香里は手にしたハンドバッグとゴミをいったん椅子の上に戻した。
「今度こそおやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
 十分ほどで出るバスがターミナル駅への最終だった。すでに病院の前に停まっている。友香里は運転手のすぐ後ろの席に座った。乗客はもう一人、中央付近に座る男性だけだ。面会時間はとうに終わっており、病院の周辺は人の気配がほとんどない。緊張感はまだ残っているけれど、疲れがどっと押し寄せてきそうな予感がある。家に着いたらきっと倒れ込むように眠ってしまう。衛は本当に二時、三時まで眠れずに起きているのだろうか。一人で泣いたりはしないだろうか。木之下には夜勤を頼むべきだったのではないか。せめて今日この夜くらいは。
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