§15 08月29日(月) 13時頃 思春期の少年的なやつ

文字数 3,611文字

 午後に回復期リハビリテーション病棟を訪ねるようにと言われたのは十時前のことである。木之下は移動のために少し早めに昼食をとった。表は三十度を超える熱気と、残暑の強い陽射しとで眩暈がするほどだった。回復期リハビリテーション病棟では医師と義肢装具士とが木之下を待っていた。医師のほうは笑顔で迎えたが、義肢装具士のほうはいつものように気難しそうな顔を崩さない。やっぱりこの人は苦手だなと思いながら、木之下は案内されたテーブルで二人と向き合った。
「さっそくですが、久瀬くんに幻肢痛が出ているそうですね」
「はい、そうです」
「いつお聞きになりました?」
「金曜日の夕方です。東先生に電話があって、折り返し私のほうから話を聴くように言われました」
「発症時期は特定できてます?」
「学校が始まって二日目です。え~と、二十三日ですね」
「火曜日か。火曜日? じゃあここに来てるね?」
「えゝ、来てます」
 と、声を向けられた義肢装具士が難しそうな顔のまま頷いた。
「ふむ。まあ、いいか。それで、具体的な症状は?」
「膝から下を無理やり引きちぎられるような感じだそうです。引きちぎられて脚が抜け落ちてしまいそうなんだと言ってました」
「う~ん、それはつらいねえ。で、しばらくして治まったと」
「はい。保健室で仰向けになっていたら治まったそうです。あ、それと、義足をつけるといいとも言ってました」
「ん? 痛みのあるときに?」
「いえ。時間を見てときどき義足をつけると予防できるとか。休み時間に保健室で義足をつけて少し歩くそうなんですけど、そうするとそのあと数時間は問題ないみたいで。あ、車椅子に長く座ってるといけないみたいだと言ってました。でもあいだに義足をつける時間をつくると大丈夫だと」
「それは、うん、わかります。そうした事例は少なくない」
 隣で義肢装具士も同意するように頷いている。
「え~と、木之下さんはずっと看てきたのですよね? 去年の事故のあとも、今回の離断の際も」
「はい、そうです」
「牟田さんのお話を伺うと、どうも久瀬くんというのは癖のある少年で、木之下さんにしか気を許していないとか。今回も指名されたそうで」
「あゝ、はい。私と佐々木さん、でしょうか。ふつうにおしゃべりしてくれるのは」
「それで東先生はあなたに聴き取りをお願いしたわけだ」
「たぶん」
「私たちからもお願いできますか? もちろん牟田さんとはきちんとお話しさせて頂きますよ」
「リハビリに立ち会う、ということですか?」
「そうです。先週久瀬くんは、その問題の火曜と、あと土曜に来ています。しかし幻肢痛については一言も口にしてくれなかった。困ったことに。今朝牟田さんからご連絡を頂いたあと我々のほうでも少し話しましてね、どうもそういうことなのではないかと。思春期の少年の事故ですからね、まま見られることではあるんですよ。つまり、木之下さんがいらっしゃれば、久瀬くんもいろいろ話してくれるのではないか。どうでしょう? どう思います?」
 すぐには同意できなかった。思春期の少年の事故だからではない。衛はそうした精神的なショックから心を閉ざしているのではない。衛は事故に遭う前から、生来的にそうなのだ。そういう少年なのだ。この人たちはまだ気づいていなかったのか。確かに自分がそばにいればおしゃべりはするだろう。しかしそれは幻肢痛が発生した事実をここの医師や看護師や療法士に伝えなかった事態を解消するものではない。むろん幻肢痛については衛と約束をした。隠さないという約束だ。痛みませんようにとお祈りしたはずなのに。衛は約束通り東に連絡をしてきた。ここの医師ではなく東のほうに。なぜ東なのかと言えば、その先に自分がいるからだ。しかし衛はあのときの約束を果たそうとしただけであり、自分に心を開いているからそうしたのではない。愉しくおしゃべりすることと、心を開くこととは、必ずしも同義にはならない。離断手術の日に友香里と並んで写真を撮ったときに見せたあの笑顔を、衛は私や佐々木らの前では見せてくれなかったのだ。
「私になにか特別なことができるとは思いません。私とはいろいろおしゃべりしてくれたのは事実ですが、でもだからといって、衛くんが包み隠さずあれこれ私に話してくれているとは思えません。衛くんはそういう男の子なんです。うまく言えませんけど」
「私たちも木之下さんに無理をお願いする考えはありませんよ。本来これは私たちの仕事であり、私たちが彼とのあいだに信頼関係を築かなければいけないことです。しかしそのためのきっかけが欲しいのですよ。ですから仮にうまくそれをつかめなかったとしても、それはあくまでも私たちの責任です。私たちはただきっかけが欲しい。あるいはチャンスが欲しい。木之下さん、お手伝いして頂けませんか?」
 それでも、私がここにいることで、衛も少しは気持ちを和らげることができるかもしれないとは思った。衛はここの人間たちを明らかに警戒していた。怯えていたと言ってもいいくらいに。だからここに自分がいることには意味がある。ほんの僅かな意味に過ぎないかもしれないけれど。
「わかりました。私にできることがあるならお手伝いさせてください」
「ありがとう。助かります」
 義肢装具士は結局この日も最後まで難しい表情を崩さなかった。しかし衛は確かこの男をおもしろいと言っていたように憶えている。けれども衛は幻肢痛の発生を告げていない。なにを考えているのだろう。わからない。やはりよくわからない少年だ。
 空調の効いた建物から出ると相変わらずの陽射しが待ち構えていた。面会時間が始まる少し前に木之下が戻ると牟田看護師長に声をかけられた。どんな話だったかと尋ねられたのでそのままに内容を伝えると珍しく小さく微笑んだ。牟田の微笑を目にするのは年に数回の貴重な出来事である。
「きっと実利的にしか見ていないんでしょう。義足をつくってくれる人、その使い方を教えてくれる人、あそこにはそういう人たちがいる。そんな感じなんじゃない?」
「それっていかにも衛くんらしいです」
「でもさ、例の美女も一緒なのよね? 彼女が話さないのかしら?」
「あの人は共犯者なので」
「え? あゝ、そういう関係だったの?」
「すみません。師長には隠してました」
「驚いた。ああ、そうなの。へえ、そうなんだ」
 しばらく感心したように目を瞬いてから、牟田がまた微笑した。
「でもちょっとお似合いじゃない?」
「はい?」
「あら、そう思わない? 私にはぴったりに見えるけど」
「あゝ、まあ、そうかも」
「じゃあ向こうは正式に受けていいのね?」
「あ、はい。お願いします」
「了解です」
 牟田に頭を下げてから振り返ると佐々木が待ち構えていた。肘をつかまれ廊下の隅に引っ張られた。面会時間が始まっているものの月曜の午後はいつも出足が鈍い。しばらく前から三交替制になっていることもあり、木之下と佐々木がそろって日勤に重なるのは久しぶりだった。
「また衛くんからご指名?」
「うゝん。今度は衛くんからじゃないの。あの子さ、幻肢痛が出たの向こうに言ってないんだって」
「マジで? あゝ、でもありそうだなあ。あそこの人たちが向いてる方向って衛くんとズレてるよね。なにがってはっきり言えないけど、違うのは私でもわかるな」
「思春期の少年にはままあることです、とか言ってたよ」
「でしょ? 確かにリハビリってキツイいからさ、なんか目標立てられるならそのほうがいいんだろうけど、衛くんてどう考えても思春期の少年的なやつとか考えてないよね。じゃあなに考えてる?て訊かれてもよくわかんないけどさ。――あ、え、まさか車椅子バスケに挑戦しましょう!とか言ってないよね?」
「なんかさ、そういうのが善だ!て思ってる人多いよね」
「そんなの一発でアウトだよ。二度とまともに話なんかしてもらえない」
「でもあの村井って人はそんなこと言いそうもないけどなあ」
「あゝ、装具士の人ね。あの人ちょっと変わってるよね」
「あの人と話しするように仕向けてみようかな……」
 佐々木に呼び出しがかかり二人の会話はそこで途切れた。木之下はそのまま廊下の窓辺で表の景色を眺めながら、村井のことを真面目に考えてみようかと思った。思春期の少年とか言っている医師ではどうしようもない。まったく佐々木の言う通りである。療法士や看護師も同じようなノリなのかもしれない。そこに自分が一人乗り込んだところで衛の態度は変わらないだろう。
 ただ、村井という男の雰囲気はどうも苦手だった。表情が乏しい割りにはぎょろりとした目玉で人の顔をじっと見たりする。初めはなにかこちらに粗相があったのかと焦ったものだが、その後、あれは村井がものを考える際の癖なのだとわかってきた。まったく迷惑な癖である。こちらを見ているようでいて頭の中ではこちらとはまったく関係のないことを考えているのだから。
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