§09 07月08日(金) 24時頃 離断(5)

文字数 4,060文字

 友香里が病室を去ったあと、衛はいくどか自分で上掛けをまくってみた。そうして見れば見るほどに幻肢は確かなものに成長して行くように思えた。無いものを見ているのに、それによって、在ることが確立されて行く。なんとも不可思議なプロセスだった。痛みはまだない。幻肢痛は酷い痛みだと聞いている。酷いというのはその強さを示すばかりでなく、その凄惨さをも表している。まるで、それが失われた瞬間を繰り返し再現させようとする、そんな痛みなのだ。喪失というよりも破壊を反復させ、忘れることを許すまいとするかのような。喪失という現実を受け入れることを脳が拒絶し、しかし再生させることは不可能であるために、失われた瞬間を反復することで存在を確かめようとする。敢えて喩えてみるならばそんな痛みだ。そう聞いている。
 それは嫌だな、と衛も思う。痛みは過半から七、八割で発生するというから逃れられないのかもしれないけれど、他方で三分の二くらいは一過性だともいうからそうであってほしいものだと思う。要するに、内外の受容感覚を通じた身体的自己の統合を図る際に、そこで予定していた信号の部分的な欠落によって空間的定位に失敗する。そこで自己と他者、他人という意味に限定されない広義に於ける他者との境界に、予定していたのに届かなかった信号を補正すべく幻肢が現れる。脳の困惑や焦燥やあるいは逆上を感知した神経が恐れ戦き、脳に虚偽の報告をして宥めようとする。嘘をつけば痛む。嘘は常に痛みを伴う。痛むことなく嘘をつくことができればそれはそれでひとつの立派な病気だ。いずれ脳は報告が虚偽であることを知る。逆鱗に触れる。
 視覚という外受容感覚からの欠損報告に逆上した脳が、末梢という内受容感覚に対して虚偽報告を強制するわけだ。だから見れば見るほどに幻肢が確かなものとなって行くように感じられるのだろう。空気の読めない視覚は繰り返し馬鹿正直に欠損を報告し、ますます脳を逆上させ、末梢を怒鳴りつけ脅しつける。末梢は縮み上がって身を捩るようにして虚偽報告を上げ続ける。脳内でも、より高次の統合を司る領野の横暴が、末梢からの虚偽報告を受け取り上意する中間的立場にある領野を苦しめる。独裁的かつ専横的な君主の下に仕える大臣の苦悩に似ているとも言えよう。末梢からの虚偽報告に痛みがくっついてくることの理由を、この暴君は理解しようとしないのだ。
 この夏のあいだに痛みが現れなければ、無痛性の幻肢という穏やかな場所に留まり続けられるだろう。幻肢はそれ自体ちょっと気味の悪いものだが、割り切って受け入れられそうな気がしないでもない。踏まれそうになったりぶつかりそうになったりした際に、踏まれもぶつかりもしないはずの脚を避けようとするのは滑稽だ。しかしどこかおかしみもある。俳諧なんかで言うところのおかしみだ。あるいは不能犯的なおかしみだ。意図していないからおかしい。当人が大真面目だからおかしい。足首のあった辺りに誰かが鉄アレイでも落とそうとすれば僕は悲鳴を上げて逃げようとするだろう。だけど鉄アレイはなにも砕くことなく空を切って落ちる。
「衛くん、どうかした?」
「あれ? 佐々木さんいたの?」
「さっき来たとこ。今週からしばらく三交替なんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「で、どうしたの?」
「眠れない」
「それでナースコールするか。でも今日大変だったもんね。ちょっとサービスしちゃおっかな」
「膝枕で耳掃除してくれるとか?」
「それはヤバいでしょ。そそられるけど」
「さっき来たってことは真由ちゃんには会ってないんだね」
「会ってないね。申し送りは見たよ。なんも書いてなかったけど」
「職務怠慢だな。書くべき事項は山ほどあったはずなのに」
「たとえば? 仕事熱心なお姉さんが聴いてあげよう」
 佐々木は椅子を引いてきてベッドのわきに腰を下ろした。
「脚を組んでくれるとぐっと眺めがよくなると思う」
「要求が高いね。今日だけだよ。――ほれ、これでいい?」
「うん、素晴らしい景色になった」
「で、どうして眠れないわけ?」
「ちょっとこれ見てくれる?」
 衛はサイドテーブルの上からスマートフォンを手に取ると、ロックを解除しアプリを立ち上げてから、ディスプレイを佐々木に見せた。
「最低!か。すごいね」
「なにがあったんだろう?」
「直後にグループ抜けてるから、いわゆる修羅場的なやつかなあ」
「やっぱりそう思う?」
「このグループってどんな構成?」
「男三、女二、同じクラスで一緒にお弁当食べてた」
「へえ。衛くんと一緒にお弁当食べてくれる友達なんているんだ」
「もう一人の女の子が僕のこと好きだったんだよ」
「過去形?」
「諦めてもらったから」
「あゝ、衛くんには例の美女がいるもんねえ」
「その『例の美女』って人が直接その子に脅しをかけたんだ」
「そっちもすごい話。ビビったろうなあ、あんな美女に脅されたら」
「こういうの僕よくわからないんだけど、佐々木さんならどんな事件を想像する?」
「そうだなあ。まずこの『最低!』の宛先が誰か?て話よね。男の子のほうか女の子のほうか」
「男のほうだったとしたら?」
「デリカシーのないフリかたをした」
「おまえ鏡見たことある?みたいな感じ?」
「それほんと最低だね」
「じゃあ女の子のほうだとしたら?」
「好きな男をとられた。自分が好きだって知ってるはずなのに」
「寝取られ、てやつ?」
「違う。寝取られはすでに付き合ってる男をとられるやつ」
「あ、そっか。じゃあ、横取りとか、抜け駆けとか」
「そう、そう。アンフェアだ!て怒ってる感じね」
「アンフェアと言うからにはなんらか暗黙のルールがあるわけだ」
「あるわよ。たとえば木之下さんが衛くんのこと好きだって私に話してるとするじゃない?」
「やっぱりそうなの?」
「たとえばの話だから」
「なんだ」
「それを承知していながら木之下さんのいない夜勤中に衛くんを誘惑したらアウトでしょ?」
「僕のほうはセーフだけどな」
「衛くんが木之下さんなんて眼中になくて私のことが大好きっていうならセーフかもね」
「佐々木さんのことが大好きじゃないと僕はセーフにならないわけ?」
「当たり前じゃない。それじゃあ二人ともアウトよ」
「佐々木さんは木之下さんに刺されて、僕のほうは友香里さんに刺される」
「お、わかってきたね」
 佐々木はスマートフォンを衛の手に返し、衛はそのままサイドテーブルの上に戻した。
「この場合どっちなのかな? アウト? セーフ?」
「どっちもあり得るよねえ。二人とも本気じゃないのにエッチしちゃったとか」
「確かにそれは最低!て言われそうだな。でもこの場合は本気だったとしても最低!て言われちゃうわけだよね? なんかおかしくない? だってどうしようもないことじゃないか。どっちか知らないけど西尾さんとお互いに好きだってことなら蓑田さんが騒いだところでどうにもならないよ」
「仮にそうだとしても、二人は友達だと思ってたわけよ。少なくともこの麻央ちゃんのほうは」
「となると、抜け駆けとかじゃなくて裏切りということになるね。最低!というのは西尾さんの裏切り行為に対して投げつけられたわけだ」
「ねえ、その西尾さんていう子が衛くんのこと好きだったの?」
「そうだよ。学校でいつも車椅子を押してもらってたんだ。ちゃんと押してくれるのは西尾さんと多田くんくらいだったからね。西尾さんは集中を途切れさせずに押してくれる。多田くんは力が強いからちょっとやそっとじゃ倒れない安心感がある。それに西尾さんは僕が教室を出ようとすると必ず振り向いてくれるんだ。そういうやさしくて可愛らしい女の子なんだよ。だから僕はもしこの最低!を受け取ったのが西尾さんなんだとしたら少し胸が痛む。泣いてなければいいな、て思う」
「こっちの麻央ちゃんに対してはどう思ってる?」
「蓑田さんのことは正直よく知らないから、ちょっと可哀そうだなって思うくらい。西尾さんの性格から推して、本気じゃないのにエッチしちゃったとか、そういうのはないと思うし。だからきっとどっちか知らないけど西尾さんが蓑田さんの好きなほうとくっついちゃったんだと思う。そう考えると素直に腹落ちするな。うん、なんか解決したみたいだぞ」
「アオハル!て感じだねえ。いいなあ」
「そんな暢気なこと言ってると蓑田さんが救急車で担ぎ込まれてくるよ?」
「ちょっと、縁起でもない。――ねえこれさ、真実が明らかになったら教えてくれる?」
「いいよ」
「さて、これで眠れるかな?」
「あのさ、ちょっと順番を変えてもらってもいい?」
「順番て?」
「佐々木さんが出る、灯りを消す、寝る、というのをさ、灯りを消す、寝る、佐々木さんが出る、にしてほしいんだけど。ダメかな?」
「ふふ。いいわよ。じゃあ灯り消すね」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 衛が本当に眠りについたのかわからない。カーテンを閉めた窓から漏れる薄明りと小さな常夜灯の底で、衛は確かに目を閉じ安定した呼吸を繰り返し始めてはいたけれど、佐々木はしばらくその薄暗がりの中で衛の顔を見守ってから、適当な時間を見て腰を上げた。衛は身動きをしなかったし、声が追ってくることもなかった。
 頭はすごくよさそうなのに、ずいぶんと幼さの残る不思議な少年だった。ずっとそう思ってはいたけれど、この夜、佐々木は初めて衛と深夜に長く言葉を交わし、衛はこれまでずっと木之下にそれを求めてきたから、少し思いがけないほどに感じ入った。
 実は木之下からプライベートなほうでメッセージを受け取っていた。衛は幻肢を見ている。まだ痛みは感じていない。痛むようなら必ず申告すると約束した。だから申し送りはしない。だから尋ねないでほしい、知らないふりをしてあげてほしい、と。
 衛はこの日の手術に関しては一言も触れなかった。いや、ひとつだけあった。一人で眠るのが怖いからそばにいてほしいと求められた。ふざけてそう口にしたのではないことは佐々木にもわかった。衛の中にも決して小さくはない葛藤があるのだ。
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