§20 10月04日(火) 13時頃 悪いやつがいる

文字数 4,702文字

 月曜・水曜・金曜は昼食を食べたあと、友香里が迎えに来るまで保健室で時間を潰す。さすがにスマートフォンをいじるのは困るが本やマンガなら構わない。計算上、衛は試験の成績が抜群に良いこともあり、それで進級のための出席時数は足りるとの言質を学校から得た。一日出席することになる火曜と木曜の前夜――月曜と水曜の夜――には初めから、夕食後に友香里が泊まりにくる。
 友香里と古澤を深夜に呼び出した日から三週間ばかり、試みに半休や全休を繰り返してみた中で、薫がそのような分析結果を提案した。予想通り、友香里が泊まりに来る月曜と水曜の夜に、激しい幻肢痛が襲ってきた。ほかの夜にまったく痛まなかったわけではない。しかし意識が遠のくほどの痛みは計ったように月曜と水曜の夜にやってくる。
 恐らく要因は複合していた。翌日ほぼ一日を車椅子で過ごさねばならないこと、保健室で義足をつけても完全には幻肢痛の発生を回避しきれないこと、その際は西尾奈々と多田雅臣と養護教諭の里村の手助けが必要になること――要するに、衛は学校で初めて幻肢痛が発生して以降、それに伴って引き起こされる周囲の騒動を先読みするようになり、そのストレスが前夜の幻肢痛を招き寄せる。それが薫の出した結論だった。
 この日、友香里の車に乗って衛を迎えに来た薫は、養護教諭の里村を伴って回復期リハビリテーション病棟を訪ねた。医師、看護師、作業療法士、義肢装具士に加え、この日も木之下が呼ばれていた。薫の説明を聞いた病棟側の関係者は呆気にとられ、しばらく口を開く者がいなかった。衛はいつものようににこにこしており、里村はおもしろそうに一同を眺め、木之下は心配そうに空気を窺っていた。衛の後ろで友香里だけが今にも瞼が落ちそうな様子で俯き加減に下を向いている。
「もちろん幻肢痛のそもそものきっかけは車椅子です。でも夜中にそれが起きる要因は今お話しした通りです。学校側も問題ないと言っていますので、しばらくこれを続けます。衛がそんなストレスを抱えるなんて正直ちょっと信じ難いことですけれど」
「僕は生来的にセンシティブでナイーブなキャラだからな」
「先日から衛の部屋の隣りに建て増しの工事を始めました。紺野さんが倒れてしまったらもうお終いなので、プライベートな空間を用意します。庭からも出入りできるし衛の部屋を通らないと私たち家族は近づけません。お風呂まではつくれませんけどトイレと洗面はあります。衛もそっちを使えるように設計してもらいました。まだ二十日ほどかかりそうですが」
「こっそり真由ちゃんも来てくれていいよ」
「いや行かないし。友香里さんに刺されるし。つか友香里さん、ちょっとこっちで横になりましょう」
 木之下は見るからに窶れてしまった友香里の腕を取り、ミーティングルームから廊下に出ると空いている診察室に連れて入った。大丈夫だと言い張る友香里を無理やりベッドに寝かせ、誰がどう見たって大丈夫なんかであるはずがなかったので、木之下はすぐそばで椅子に座った。
「あのクソガキが元気いっぱいなのに、友香里さんヘロヘロじゃないですか」
「そうね。私ってちゃんと寝ないとダメな人だったみたい」
「昨夜はどれくらい寝ました?」
「三時から六時半、かな」
「そのあとは?」
「衛を学校に送って、バタバタしてるうちにお昼になっちゃって」
「ここまで友香里さんが運転してきたんですか?」
「学校からは里村先生が替わってくれたわ」
「ですよね。とりあえず衛くんのリハビリが終わるまでここで寝ましょう。薫さんが言うように、友香里さん倒れたらお終いだから」
「うん、ありがとう」
「とにかく寝てください。私もう少しここにいます」
 ふっと微笑んで目を閉じると、やはり友香里はすうっと眠ってしまった。まさかこんな事態が待っているとは思いもしなかった。しかし学校で周囲に迷惑をかけてしまうことがストレスになっているとは、本当なのだろうか。道具立てが綺麗にそろい過ぎているような気がする。衛はちょっとおかしな少年だが素直でまっすぐだ。だから確かにありそうなことだとも言えるけれど、どこかすっきりしない。理屈が通っているから余計に怪しい。翌日が終日学校だから激しい幻肢痛に襲われるというのは、どうも原因と結果がズレているような気がする。「だから」のあいだにもうひとつある。ひとつかふたつかわからないけれど、直接的な因果ではない。
 この人は本当に綺麗な顔をしているなあと、木之下は目を閉じる友香里を眺めた。それでも閉じた瞼の下にはっきりと寝不足の隈が見て取れる。部屋を建て増すというのはもうお嫁に入るみたいな話だ。しかしそれと同時に、恐らく家族は衛に煩わされることから解放され、すっかり友香里に委ねてしまおうとしているのだとも受け取れる。友香里の手が必要なのは間違いなく、それも実体としての身体器官である「手」そのものであり、このままでは家族も友香里も衛の道連れになりかねない以上、ほかに選択肢はないのかもしれない。けれど、やはりすっきりしないところがある。木之下は考えのまとまらないまま友香里のもとを離れた。病棟の看護師に診察室を使っていることを告げると、表から施錠してくれた。
「木之下さん――」
 廊下で声をかけてきたのは里村だった。ひとまずミーティングは散会したらしい。
「美女はおやすみ?」
「倒れそうだったので」
「ほんとよねえ」
「お帰りですか?」
「その前にちょっとあなたとお話ししたくてさ」
 来院者が途切れる時間である。午後は夕方まで衛のような特殊な患者のみの対応となるため人が少ない。閑散とした待合室に移り、カップベンダーのコーヒーを買い長椅子に並んで腰を下ろすと、砂糖増量にすればよかったかなと里村がつぶやき、脚を組んだ。
「久瀬からあなたのことは聞いてるんだよ」
「どうせロクな話じゃないですよね?」
「おっぱいの大きな看護師が夜ごと襲ってくるから大変だった、てさ」
「やっぱり。ほぼ想像通りだな、それ。あの子わかりやすいことしか言わないから」
「そうなんだよね。あいつ歪んでるように見えて、実はけっこう単純なんだよね」
「そう言えばどういう話になりました?」
「どういう話もなにもさ、ここの人間は久瀬とあの美女の関係をまったく把握してなかったみたいなんだけど、なんで?」
「そりが合わないんですよね、ここの人たちと。最初に失敗しちゃって。実はそれで私呼ばれてるんですけど、挽回できてないんです」
「失敗って、どんな?」
「将来の目標をイメージして一緒に頑張りましょう!みたいなやつです」
「将来の目標? 歩けるようになったら久瀬はなにしたいって?」
「……あの、私とデートするとか言って、友香里さんに睨まれました」
 里村は声を上げて笑った。木之下は自分が笑われたようでちょっと恥ずかしかった。しかし衛の話を聴く限り、日常的にはこの養護教諭が今もっとも彼の日中を知る一人だ。木之下は思い切って自分が感じている説明のつかない違和感を口にしてみた。里村は無表情に話を聴きながらも、受け止め考えているふうに目をあちこちに動かした。やがて脚を組み替えてから、ひとつ頷いた。
「金庫に大金が運び込まれる日を知るのは難しい。けれどもその日に警備員が増えることを知れば、警備員を数えれば済むという話になる。従って盗人を誘き寄せるのに見せ金を用意する必要はなく、単に警備員を増やしさえすればいい。そういう話をしてるんだね?」
「いえ、なんだかさっぱりです」
「だからさ、あの美女が泊まりに来るということは明日はヤバい日だぞって思わせれば、それとこれとを一致させることができるって話でしょう?」
「友香里さんを囮に使ってるってことですか?」
「だって昨夜もあの美女は寝てないんだよね?」
「ええ、三時間くらいだったみたいです」
「おかしいと思わない? 今日は通院のために半休する、つまり一日学校にいる日ではない。そんなことは事前にわかっていたはずなのに」
「あッ! そうですね。今日は火曜日だけど、いつもの火曜日とは違う。そっか。――あ、でも里村さん、衛くんのあれを確実に治めることができるのって、その友香里さんなんですよ?」
「ワクチンはウィルスから作る、て知ってる?」
「私、看護師なんですけど」
「夏休みが終わって学校が始まるとすぐに発症した。それを聞いて彼女はすっ飛んで迎えに来てくれた。一週間後には夜中に試してみた。やはり飛んできてはくれたけれども事が大きくなってしまった。そこで授業時間を目くらましに使ったわけさ。――久瀬の中には悪いやつがいるんだねえ。幻肢を(しち)にとって美女を呼び寄せようとする頭のいいやつが」
「衛くんは無意識にやってるんですね?」
「もちろんだよ。だからお姉ちゃんは私たちみんなを煙に巻こうとしたんだろうな。授業時間と幻肢痛のあいだに有意な相関がある、なんてもっともらしいこと言っちゃって。昨夜がまさにその反証だってのに、誰もそこをツッコまないのはなんでだろうね?」
「もしかして、友香里さんの部屋ができたら治まるかもしれない?」
「治まるかもしれないし、治まらないかもしれない。どっちにしても彼女がいれば心配は要らない。つまりはどっちに転んでも構わない。お姉ちゃんはそういう話をしてるだけなんだよ。――とは言えさ、なにか理由がありそうだねえ。部屋を建て増すなんてことまでしなければならない理由が。大袈裟に過ぎると思わない? 確かに久瀬は可哀そうだけどさ。ちょっとやり過ぎだよ」
 木之下は難しい顔をした。額の奥のほうでなにかが疼いている。私はなにかを知っていて、気づいていて、怪しんでいて、でも、それを取り出してみることが、見せることができない。
 そこへ、まさに問題の姉、薫がやってきた。ちょっと用事があるので帰りますと言った。気をつけて、と里村は余計なことは口にせず見送って、私も帰るかなあ、と両腕を上げて背筋を伸ばした。
 木之下がリハビリテーションセンターに入ると、衛は義肢装具士の村井と向き合い真剣な顔つきでソケットを覗き込んでいた。その様子を眺めながら、木之下は医師と看護師と話をした。二人は薫の話をそのまま素直に受け入れていた。私たちを煙に巻こうとしたと言った里村は、そのまま巻かれていればいいという口ぶりだった。なにが本当なのか、誰が本当を知っているのか、不可解な世界に迷い込んだ夢でも見ているかのようで、木之下は少しばかり変な気分になった。
 でも、里村の銀行強盗の話はなんだったのだろう? 強盗は幻肢痛だとして、つまりは大金が授業時間、警備員が友香里さん? あゝ、強盗をつかまえるのは友香里さんだから、友香里さんが強盗を誘き寄せるってことか。いや、でもそれって治す人がわざと痛みを呼ぶみたいな話じゃない? あ、違うのか。強盗はもうそこにいるのだから、痛みはすでにそこにあるのだから。
 でも、確かにちょっと不可解なところはある。それは衛の周りにずっとある。部屋を建て増すということよりずっと以前から衛の周りに散りばめられてきた。たとえば私は衛の父親という人を見たことがない。偶然かもしれないけれど。でも父親はいる。書類のサインは父親の名前だった。母親も早々に顔を見せなくなった。最初は姉が、その後は友香里さんが、久瀬の家との間を行き来している。ふつうは母親のすることだ。それにフルサワ精器。権力があるのは事実だろうけれど、あの人のやっていることはちょっとおかしい。そしてやっぱり友香里さん。彼女の部屋を用意するって、いやほんと、それってどういうことよ?
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