§19 08月29日(月) 26時頃 試験管の中で起きたこと

文字数 4,882文字

 どうやら僕は少し読み違えていたらしい。あるいは少しばかり調子に乗り過ぎたのかもしれない。ありそうな話だ。でもまさかこんな時間になってベッドの上で状況が開始されるとは思いも寄らなかった。いやいや、「状況が開始される」とか言っている時点ですでに問題なのかもしれない。真剣みが足りないとか言われそうだ。でも痛い。ものすごく痛い。プロレスのヘビー級チャンピオンみたいな怪力の男が引っ張ってるんじゃないかと思って顔を上げてみたけど誰もいなかった。当たり前だ。引っ張ろうにも引っ張るものがそもそもないのだから。
 でもどうしよう。このままだと明日学校に行けないな。まだ二時間くらいしか寝てないし、睡眠不足でずっと居眠りしてるくらいなら行かないほうがいい。僕はこんなだから先生もなかなか叱るのをためらうだろうし、クラスのみんなも酷く気持ちが落ち着かないだろうし。要するに僕はずいぶん迷惑な人間になってしまったというわけだ。里村さんだって僕みたいなのがいなければ毎日のんびり過ごせてたはずだよね。でも里村さんはちょっと不思議な人だな。ちゃんとやる人なのにやる気がない人でもある。それとこれとが同じ魂に共存する稀有な例だろう。確かアインシュタインの脳は散逸してどこかの研究者が密かに保管していたとかいう話だけど、里村さんの脳からもなにかおもしろい発見が――
 うわッ! ちょっとやめてくれよ! 悪かった、悪かったよ。おかしなことを考えるなって言うんだろう? わかったよ。もう考えないから。約束する。もう変なことは考えない。ちゃんと言うことも聞く。療法士の話も真面目に聴く。真由ちゃんの言いつけにも従うから。だから、ちょっと、頼むよ、やめてくれよ、ほんと、僕が悪かった、ぜんぶ僕のせいだ、悪かった、謝るよ、だから、あゝ、やめてくれ、やめてくれ、もうやめてくれ!
「衛!」
 薫が部屋に飛び込んできたとき、衛はベッドから床に転げ落ちていた。そんなことは衛はまったく知らなかった。ベッドから転げ落ちたことも、薫が飛び込んできたことも、母と父が扉の前に立ち尽くしていたことも。薫はその音に眠りを妨げられ、しかしなにが起きたともわからずぼんやりしていたところ、すっかり静まり返っているはずの夜の底のほうから奇妙な声が聴こえ、胸騒ぎを覚えながら少し耳を澄ませたあと、ばッと跳ね起きて部屋を飛び出し階段を駆け下りたのだった。
「衛、痛いの? 痛いの? どうすればいい? なにすればいい?」
 呼びかけても衛はただ両腕で頭を抱え込んだまま床の上をのたうつばかりだった。薫は両親を押し退けてふたたび階段を駆け上がるとスマートフォンを取り上げて友香里に電話をかけた。友香里はすぐに応答してくれて、すぐに来てくれると言った。薫はなお自室で考えた。ふたたび今度は古澤に電話をかけた。古澤もすぐに応答してくれて、すぐに来てくれると言った。薫はスマートフォンを握り締めたまま衛の部屋に戻った。母も父も扉の前に立っているままだった。
「衛、いま友香里さん来てくれるから。古澤のおじさんも来てくれるから。だから大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫だよ……」
 薫の声が聴こえているのかすら判然としなかった。衛は頭を抱えたまま今度はオウムガイのように丸く小さく固まっていた。固まったまま動かなくなった。けれども激しい息遣いから痛みが継続しているのは間違いない。薫はどうすればいいのかわからず床に膝をつき呆然と衛を見下ろした。
 古澤のほうが先に到着した。床に丸くなって固まる衛を見て一瞬目を剥いてから、膝立ちのまま見上げる薫の泣き顔に微笑みかけた。古澤が父に声をかけ、丸く固まったままの衛をベッドの上に戻した。衛はうめき声すら上げず、そのままの姿勢で、されるがままベッドに戻った。
 友香里が到着したのはそのすぐあとだった。薫と古澤、それに父がベッドから離れた。友香里の眼は最初から衛しか見ていなかった。ベッドに歩み寄った友香里はしばらく衛に目を落としてから、足元にハンドバッグを置き、ベッドの上、衛のすぐ脇に腰を下ろした。
 友香里の左手が衛の左脚の上に置かれ――言うまでもなくそれは膝上までの大腿部だ――擦るでもなく撫でるでもなく、ただゆっくりと慈しむように動き出すと、ほんの間もなく、頭を抱えていた衛の腕がほどけ、背中を向けて固く丸まっていた体が開いた。
「衛――」
 友香里が声をかけると衛が目を開けた。
「なんで友香里さんがいるの?」
「こんな時間に起きてちゃダメじゃない」
「僕いまね、プテラノドンの巣の上にいたんだよ」
「あら、大変!」
「どこかから連れ去られてさ。大きな樹の上にあってね。長い嘴で頭をつつくんだ」
「それであんなふうに丸くなってたのね」
「そう。頭を覆って丸くなってた。酷くつつくもんだから」
「脚はもう食べられちゃったのかしら?」
「どうかな? そうかもしれない。脚がなくなってるね。――あれ? ほんとになくなってる。ほんとにないや。どこ行っちゃったんだろう……」
 二人を残して古澤と父と、最後に薫が部屋を出た。リビングに移ると誰からともなく大きな溜め息が漏れた。しばらく誰も口を開かなかった。ある者は長く髪を下ろした友香里の背中を、ある者はおかしなことを言っていた衛の声を、ある者はプテラノドンの巣を思い浮かべた。
 時計が午前二時ちょうどを指した。古澤が薫の顔を見た。薫は尋ねるように首を傾げた。
「紺野さんの布団を用意できるか?」
「うん。お客さん用のが衛の部屋の押し入れにある」
「そいつは好都合だ。――それと、病院のほうは、まあ明日でいいか」
「明日はちょうどリハビリの日よ」
「じゃあ、そのときに紺野さんから話してもらおう。――おまえたちは寝ていいぞ。あとは私と薫で片付ける。明日、そうだな、夜にちょっと顔出すよ。残念ながら長い闘いになりそうだ。おまえたちも覚悟を決めてくれ。場合によっては衛は私が引き取る。例の看護婦を雇ってもいいだろう。――いや、まあ、明日だな。明日考えよう」
 母と父はおとなしくリビングを出て階段を上がった。薫は衛の部屋に布団を敷いた。友香里は驚いたふうもなく素直にありがとうと言った。リビングに戻ると古澤はソファーに背中を預け天井を見上げていた。薫が向かいに腰を下ろすと柔らかな表情で顔を向けた。
「衛の様子は?」
「ベッドがあるから布団は要らないとか、バカなこと言ってた」
「すっかり治まったんだな」
「友香里さんはちゃんと布団で寝ると思うけどね」
「どっちでも構わん」
「……ねえ、さっき衛を引き取るとかって、あれ本気?」
「本気なわけないだろう」
「でもお母さん、顔引き攣ってたよ」
「つい頭に血が上った。明日謝らなくちゃいかん」
「この際もう養子にしちゃったら? そもそもDNA上は父親なんだし」
「おまえもそう思ってるのか?」
「私はお父さんはお父さんだと思ってるよ」
「だったらそれでいい。どうせ試験管の中で起きたことだ」
「真面目な話、私が東京に行くまでに決めてあげて。ここで三人で暮らすのは、衛には無理」
「いろいろと計算が狂ってきたか。これまで上手いこと回してきたんだけどな」
「初めに無理を押し通したことのツケなんじゃない? 本当は相手を選んじゃいけないのにこっそりおじさんのを使わせたとか。それって今とやってること一緒だよ。頭のいい人が三人もそろってさ、ほんと、なにやってるんだかって感じ。頭が良くてお金があるとロクなこと考えない典型だよね、久瀬と古澤って。そう思わない?」
 古澤はもう苦笑するだけで薫の話には乗ってこなかった。お茶でも淹れようかと尋ねた薫に、帰って寝ると答えて腰を上げた。衛と友香里に声をかけることなく靴を履き、薫に軽く手を上げて古澤はそのまま玄関を出た。表から熱帯夜に近い湿度の高い夜気が流れ込んだ。
 古澤が母と父の目の前で衛に対して「息子」を示唆する表現を使うのを初めて聞いた。もしかすると本当に初めて口にしたのではないかと思う。あの古澤でさえ衛の様子にそれだけ動揺したということだ。きっとまだ薫については「娘」という言葉を使ったことはない。
 初めに無理を押し通したことのツケなどと口にしたが、薫にはそれを非難する考えまではなかった。それをしていなければ自分はこの世になかったことになる。しかし二度までも行ったのは最初の子がまたも「娘」であったからに違いなく(古澤の子は三人姉妹だ)、要するに久瀬も古澤も「息子」が欲しかった。
 そのことに関しては最初からわだかまりはない。父の無精子症は絶望的なレベルだった。高校生になってこれを聞かされたとき、むろん呆然とするほどに驚いたが、母が母であることは紛れもなく、それに父が誰であるのかわからないよりかはいいと思った。衛と二人でそういう話をした。
 父を見る眼も古澤を見る眼も変わらなかった。雛鳥が最初に接したものを親と認識するのと同じように、父が親でないと書き換えることは難しく、古澤が親であると書き換えるのはもっと難しかった。私たちは父を「お父さん」と呼び続けたし古澤は「おじさん」のままだ。
 彼らもそのように振る舞うことをやめなかった。DNAには己の複製を見極める能力がない。状況から類推する能力しか持ち合わせがない。だから黙っていれば雛はそのまま巣立つ。父がなぜ黙し通さなかったのか、その心情は計り知れずにいる。不正を犯した医者が口にするはずもないのに。
 ふらっとリビングに友香里が顔を出した。薫は一瞬、いまの心の中を読まれていたかと思い、はッとした。が、友香里はそれを突然顔を出したことに驚いたものと受け止めて柔らかく微笑むと、ソファーの向かい、先ほどまで古澤が腰かけていた場所に座った。
「寝ました?」
「うん。いびきかいて寝てる」
「こんな時間に呼び出しちゃってごめんなさい。でも助かりました、ほんとに」
「いいのよ。私にできることがあるのは幸せなこと」
「なにか魔法を使ったみたいだった」
「このまま解けない魔法ならいいんだけど、そういう話でもないのよね」
「……あの、ほんとに泊まって行ってね?」
「うん。そうする」
「ベッドでもいいから」
「それはしないけど」
「するでしょ?」
「するかも」
 うふふ、と二人して笑った。明日は、すでに今日になっているが、友香里に仕事がないと聞き、それなら衛には学校を休ませて、何時まででも寝ていればいいと薫が言った。友香里はちょっと首を傾げて考えたが、そうねと同意した。遅めの朝ご飯を食べたら衛を友香里の家に連れて行くことにもした。午後にはリハビリがある。医師にこの夜のことを伝えなければならない。そう言えば今回は看護師の木之下が同席することを思い出し、友香里はホッとする気分になった。
 友香里も薫のお茶を断って、眠れなくなるからと言い、トイレに寄ってから衛の部屋に入った。考えてみればこうして夜を隣りで眠るのは初めてのことである。ちょっと狭いかなと思いつつ、友香里はそっとベッドに上がってみた。やはり体を横にしないと並んでは眠れない。むろんそのまま眠ってしまうつもりはなかったけれど。
 さっきまでのいびきは消えて、衛はいまは穏やかで規則的な寝息を立てている。友香里は体を寄せ、頬に頬を寄せ、下になったほうの腕で手を握り、上になったほうの腕を胸に回した。しばらくそうしていたものの、暑いわね…と呟いてベッドを降りた。来客用の夏布団に収まると、ふいに体中に震えが襲ってきた。友香里は両手で顔を覆い、衛がさっきそうしていたように、横になって体を丸くすると、あとはただ必死に耐えた。いつ眠ったのかもわからなかった。
 薫はひとりリビングに腰掛けていた。まだなにも決まってはいない、すべて始まったばかりだと言い聞かせても、涙はとめどなく溢れてくる。東京になど行きたくなかった。四年間も衛のそばを離れたくない。教養課程を終えたら編入試験を受けて戻ってこようと決めた。もうひとつ、東京では絶対に泣かないことも。泣くのはこれを最後にすることも。
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