§24 10月22日(土) 12時頃 落成

文字数 5,712文字

 ベッドは玄関から衛の部屋を通って運び込まれた。友香里は持っている衣類の三分の一ほどを手にやってきて作り付けの小さなクローゼットに収めた。サイドテーブルにはスタンドライトに目覚まし時計、スマートフォンの充電器、ペン立て、爪切りとやすりのセット、安全カミソリ、等々。抽斗を開けてはいけないと言われ、きっと魑魅魍魎の類が溢れ出して来るのだろうと衛は想像した。朝からなにやら妙に張り切っていた薫は、手伝うことがほとんどなくガッカリしていた。昼食時には古澤も顔を出したのだが、友香里の部屋をちらりと覗いただけで忙しそうに去った。
 午後の時間、衛はずっと友香里のベッドの上に腰掛けていた。この日は午前中に部屋の片づけを終えれば特段の用事もない。なんということもないおしゃべりをして、合間にほんの少しばかり戯れて、気温の上がらない秋の曇天を過ごした。友香里の手が常に衛の脚の先に置かれてあった。一度だけ友香里に促され、不承不承ながら義足をつけ自室とのあいだを一人で往復した。このところ急速に上達してきており、友香里も安心して見ていられる。ちょっと褒めると東京パラリンピックでは三段跳びにエントリーするかもしれないなどと、真面目な顔をして起こり得ないことを口にした。不可能なのではなく、初めから取り組む気などさらさらないのである。
 髪は切らないでほしいと言われたから、友香里は今月も毛先のメンテナンスだけをした。しかしもっと長いほうがいいかと尋ねれば今がいちばん素敵だと答えるのだから、衛に嗜好性がないのは明白だった。どんな髪型でも似合うと褒めているのではない。そもそもが先日たまたまそんなことに気がついたというだけのことであり、言ってしまえば「どっちでもいい」のである。いくらか不満ではあるけれど、友香里はこれまで髪を伸ばしたことがなかったから、しばらく続けてみようかと思っている。願掛けのつもりはなかった。衛の幻肢痛が治まるまでとも考えていない。ただ衛の手が長い髪の奥を探るように戯れてくる感触は悪くなかった。
 部屋が出来上がってみると、そしてこうして二人でそこに収まってみると、床は車椅子で移動できるよう平に繋がってはいるのだが、思っていた以上に久瀬家が遠く感じられた。廊下から扉が三枚ある。窓は三方の壁の少し高いところに小さめに空いておりベッドからは空しか見えない。要するに外部からこの部屋にアプローチしてくるものがない。窓から窓へ通り抜ける風だけが二人の様子を窺って小さな噂話を運び去る。けれどもそれがどこの部屋で起きているだれの話なのかを理解できる者はわずかしかない。静かになったなと思い、ふと気づくと衛が肩にもたれて眠っていた。友香里も衛の脚に手を置いたまま目をつむった。
 事故からほぼ一年が経った。ずいぶんおかしなところにやってきてしまった。静かで穏やかで暖かな場所。一年前に自分がなにを感じ、思い、考えていたのか、もう思い出せない。けれどもこの一年があまりに劇的な出来事に満ち溢れていたという感慨もない。ただ恋をしていた。それだけのような気がする。いま肩に寄りかかり温かな寝息を胸に感じているこの少年に。受け入れてもらえるだろうか、本当に受け入れてくれているのだろうか、役割の明確な利害関係者のうちの一人に終わるのではないか、もう来なくてもいいと言われずに今日も終えることができるだろうか、急性期病棟ではいつもそんなことを考えていたような記憶が朝霧のように残っている。
 回復期病棟に移ってからは看護師の木之下真由に嫉妬して、復学してからは同級生の西尾奈々に嫉妬した。こちらの記憶は鮮明でかつ今もなお生々しい。木之下とは年齢が近いこともあってお友達のようにおしゃべりできるようになったが、西尾の登場は正直ほんとうにきつかった。真面目そうで、やさしそうで、頭もよさそうだし、きっとクラスで二番目くらいに可愛い。しかし恋はレーダーチャートを重ねて比較するようには決しない。それこそ衛はレーダーチャートを読むようにやさしくて可愛らしい女の子だよと言った。だから友香里はそれを確定させようとして「あの子」などと呼び固有名を剥ぎ取ろうとした。いま思えば恥ずかしいばかりだけれど。
 ひとりで赤面し、慌てて目を開いた。でもこの部屋はもうどんな眼差しの闖入も許さない堅牢な要塞だ。品質を落とすことなく最速で工事を終えろと古澤が圧力をかけた。圧力は言い過ぎかもしれないけれど、請け負ったほうはきっと神経を尖らせて臨んだはずである。すでに友香里は古澤が何者であるかを聞いていた。一度だけ衛の口から直接に。だが一度きりしか話題にしていない。久瀬家に感じていた漠然とした違和感の正体がそれで突きとめられたとは言え、そもそも出自を以って敬うような相手ではない。衛は恋人であって、仮にもし奥州藤原一族の落胤の末裔であることが判明したとしても、この少年の価値が変わるような話ではない。
 と、肩に寄りかかっていた衛の頭が、友香里の膝の上に転げ落ちた。ずっと脚を撫でていた友香里の右腕が衛の上体を抱えるように下になった。目を覚ました衛が友香里を見上げた。友香里が思わず微笑みつつ左手で頭を撫でると衛はくるりと体を回し顔をこちらに向け直した。そのまま腕を腰に回して友香里に抱き着くと顔をお腹の辺りに押しつけてきた。お腹、腿、胸と幾度も顔を押しつけてから、膝枕に収まってふと顔を上げた。
「僕ずっとこうして寝てた?」
「うゝん。肩に寄りかかってたのよ。いま滑り落ちて目が覚めたのね」
「寝てたからっていい加減なこと言ってない?」
「言ってないわよ」
「でも友香里さんの右手は明らかに僕の大事なところをいじっていたと見做すべき場所にある」
「衛が転げ落ちたからそうなっただけ」
「ねえ、どうして友香里さんはこうしてるといい匂いがするんだろう?」
「さあ、どうしてかしらねえ」
「香水みたいなの振りかけたりしてる?」
「してないわよ」
「ほんとうに?」
「抽斗を開けて確かめてみたら?」
「いや、僕はその抽斗は開けない。僕が開けたらきっと一つ目小僧とか蝦蟇入道とかが出てきて、強欲者め!ってお仕置きされる。きっとそうだ」
「衛は強欲なの?」
「強欲だよ。こんなふうにして友香里さんを閉じ込めて独り占めしてるんだからね」
「閉じ込めなくても独り占めできてると思うけど」
「こないだプルーストの新訳が出てね、『囚われの女』て言うんだよ。可愛いアルベルチーヌを連れ去ってパリの家に閉じ込めちゃうんだ。アルベルチーヌが浮気しないように見張るためにね」
「私も疑われてるのかしら?」
「疑ってないよ。疑ってないけど僕は友香里さんをここに閉じ込めておきたいな。秘密の宝箱に入れておくみたいにさ」
「それは幸せなこと」
「でもアルベルチーヌは逃げ出してしまう。そして事故に遭って死んでしまう。友香里さんがそんなことになったら僕は破滅だ」
「どうしてアルベルチーヌは逃げ出すのかしら?」
「わからないな。あらすじは知ってるけどまだそこまで読んでないから」
「私もいつか衛から逃げ出すと思う?」
「友香里さんが逃げ出したくなったらどうしようもない。もう閉じ込めておく意味はなくなるよ」
「閉じ込めておきたいのはきっと私のほうね」
「僕は逃げ出したりしない」
「わからないわ。今の痛みがなくなって、義足ももっと上手に使えるようになって、大学生になって――」
「それでも僕は逃げ出さない。僕はそんなことしない。僕はそんなことしないよ、僕は――」
「ごめんなさい。衛、泣かないで」
 十歳の少年のように泣き出した衛を友香里は痛いように胸に抱き寄せた。このところの衛はなぜか益々「退行」しているいるように感じられる。初めて会った頃とは語り口も言葉遣いも変わった。世の中を斜めに見ている小生意気な秀才といったイメージだったのが、最近はまったくそうした気配がない。なにもかも凡そわかってしまった厭世的な少年の皮肉っぽい顔をしていたのに、なんだかよくわからないことばかりで困っている少年の難しい顔をする。思春期の扉を開けた瞬間にこれまでの了解事項が悉く断絶されている景色を目の当たりにして戸惑っている顔だ。私はこの顔を知っている。さらに驚くほど早熟だったのに、やはり同じところで躓いた一人の少年の顔を。
 上戸瑛太は本当のところなにも知らなかったのだということが改めて思い出される。周のあれは「憧れ」なんていう清冽なものではなかった。最初は自分のせいなのかと疑ったがそうではなかった。周はそのような少年だったのだ。表向きは上戸瑛太と変わらないちょっと生意気な少年を装いながら、装うことをすでに知っていた少年だったのだ。もはやそのような子供を少年とは呼べない。そもそもすでに「子供」ですらない。きっと「憧れ」ていたのは上戸瑛太のほうだったのだろう。上戸瑛太はずっと周に憧れていたのだ。大学生の女を翻弄するような少年の姿に。
 私は同じことを繰り返そうとしているのか。いや、違う。あのときは泣き出した少年にただ困惑していた。いまは泣き出したこの少年がどうしようもなく愛おしい。あのときは少年を突き放そうとしてわざと酷いことを口にした。あのときは少年に現実を突き付け目を覚まさせようとした。その結果の責任は痛感している。だからこの少年には決してそんなことはしない。失いたくない。絶対に失いたくない。私はダメな女だから破滅するのは私のほうだ。衛を失えば破滅する。どうしたって持ち堪えられるはずがない。せっかく手を差し伸べてくれたのだ。この手を離すなんてあり得ないではないか。これは失われてしまった日々ではなく、やってこなかった未来でもない。
「ごめんね。私、いじわるしたね。もうしない。もうしないわ」
「ほんとに?」
「約束する」
「でも友香里さんの主成分は四割くらい『いじわる』だから信用できない」
「四割? そんなに多くないでしょう?」
「だから九割方『誠実』で構成されてる僕はいつも割を食うことになる。蟹座と牡羊座はそうなんだって薫が言ってた通りだ」
「ちょっとそこ、薫ちゃん正確にはなんて言ってるの?」
「牡羊座は奔放で熱しやすく冷めやすいけど、蟹座は誠実でデリケートで傷つき易いから、いつも蟹座のほうが割を食って酷い目に遭うんだってさ」
「絶対そんなことないと思う」
「牡羊座と付き合う蟹座には常に寛容な心が求められるわけだよ。そうだ、牡羊座は周りが見えなくなって蟹座を縛りつけようとするとも言ってたな」
「それぜんぜん違うわ。ちょっと薫ちゃん呼んで!」
 友香里の部屋には椅子がなかった。部屋に椅子がないという事実が、このとき薫を呼びつけたことで初めて露見した。薫はダイニングから椅子を持ってきてベッドの前に座った。友香里と衛はベッドの上に並んでいる。改めてぐるりと見回して、なかなか居心地の良さそうな部屋だと薫は思った。が、いつものようににこにこしている衛と、やや眉をしかめた友香里の顔を正面に並べて見るのは、姉としてはなんとも居心地が悪い。それに訳もわからず急に呼びつけられたのも怪しむべきだろう。案の定、衛がまたいい加減なことを口にしたらしいとわかった。
 しかし衛の目が赤く腫れているのはなんだろう? もしかしてここで痛みが出たのだろうか? そんなはずはないとは薫にも言い切れなかった。薫の計略はあくまでもそのとき友香里がそばにいられるようにするところまでであり、衛の痛みそのものに働きかけるべく企てられたものではない。最悪のシナリオとして毎晩のように痛みが襲ってくるようになったとき、食事と入浴を終えた友香里が就寝前にやってきて衛のそばにいてくれる。そのような環境を整えることが、来春にこの家を出てこの街を離れる薫が古澤に求めた条件だった。
 それは友香里にも説明しお願いしたことである。お互いにありがとうと口にして、それがなんだか奇妙におかしくて、二人で思わず笑ってしまった。同席した古澤はなにがおかしいのかわからず怪訝な顔をしていた。そのとき目元が古澤に似ていると友香里から言われ、薫が不機嫌になったのだ。全面的に母親の似姿となった衛に比べると、確かに薫には半分ばかり古澤の色が出ている。口にしてすぐに友香里もしまったと思ったらしい。でも二人ともお母さん似よねと取り繕うように言葉を重ねた。娘は年とともに母親に似てくるものだと古澤も余計なことを言って薫に睨まれた。
 だから、衛の目は赤く腫れているようだけれど、いまは友香里の隣りでにこにこしているのだから、薫にとって最低限の成果が目の前にあると考えるべきなのだろう。たとえ涙が滲むほどに痛んだとしても、そのあとで友香里のそばで笑うことができるのであれば、私は安心して東京に行くことができる。すっかり安心とまでは言えないけれど、少なくともここを出て行く決心はついた。数年後には帰ってくると決まっているのだとしても、その数年を痛みに苦しむ衛の姿を想像して過ごすことからは解放される。解放されないまでも信じてはいられる。たとえ泣いたとしても、すぐに笑えるはずだと。
 本当にたったそれだけのことで呼ばれたのかと釈然としないまま、恋人たちというのはまったく傍迷惑な連中だと考えつつ、薫は椅子を持って友香里の部屋を出た。一枚、二枚、三枚と扉が閉まって行き、二人の要塞にふたたび望み得る限り完璧な静寂が訪れた。ごめんねと友香里がもう一度だけ口にして、衛がすぐにその口を塞ぎ、友香里はそのまま衛に体を委ねた。衛はボタンやホックを外すのが下手だった。いつもそこでもたもたと手間取っている。友香里はこのところわざとそれを手伝わないことにした。難しそうな顔をして不器用に指先を動かす様子が可愛くてたまらないからだ。
 しかし、ここは天国にいちばん近い場所なのだろうか? いや違う。天国ではオーガズム的快感は認められていない。恐らくそんなものはないだろう。なぜなら天国では人は殖産に励む必要がないからだ。そんなことをしなくても増える一方なのだから。
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