本当の声

文字数 6,836文字

 ※

 翌日のことだった。霧が少し出ていた。起きて窓の外を見ていたテスは、霧を割って現れて、第一礼拝所に吸い込まれていく痩せた人影を見た。テスは興味を持ち、そっと宿を抜け出した。
 気配を消して第一礼拝所に滑り込む。
 野外礼拝所に一人立つのは、リーユーだった。
 テスは二つの巨石の間に身を隠し、片膝をついて背を石に預け、そっと覗き見た。リーユーは半ば呆然とした様子で祭壇の前に立っていたが、耐えかねるように両膝をつき、両手を組んだ。素早く息を吸い込む音が聞こえた。
「神様、私はニハイを愛せません」
 彼は早口で言った。
「なぜならあいつは不細工で、顔にも覇気がなく、一緒に歩いているだけで私の恥になります。同じ母親から生まれた妹だと思えば思うほど、母を汚された気分になり、憎しみが募ります」
 追い詰められた調子で彼は訴え続けた。
「ニハイは勤勉ではなく、知性に劣り、私がどれほど努力してアルネカ様に気に入られようとしても、彼女が台無しにします。ニハイはどこかおかしいのです。人として必要なものが生まれつき欠けています。彼女は私の面汚しです……」
 テスは完全に気配と足音を殺し、間近のリーユーに気付かれることなく宿に戻っていった。
 霧が晴れ、少しして、街が起き始めた。時計も時を告げる鐘もないのに、街の人々がどのように時を知るのか不思議だ。
 ティルカが迎えに来るはずだと思い、待った。やがて誰かが宿を訪ね、階段を上がってきて、テスの部屋の戸を叩いた。
 テスはベッドから腰を上げ、戸を開けた。
 少女が立っていた。顔つきは幼いが、体つきは決してそこまで幼くない。十四、五歳といったところだろう。藁色の髪をしている。リーユーと同じだ。
「アルネカ様のもとから参りました、ニハイと申します」少女は高い、控えめな声で言った。「お服を洗い清めましたので、お届けに参りました」
 挨拶の言葉を呟くと、上目遣いにテスを見上げ、はにかんだように頬を染め、目を伏せて微笑んだ。
 ニハイは決してリーユーが言うように不細工ではなかった。純粋そうな少女だった。
「ありがとう」
 テスは少女の手から蓋付きの籠を受け取った。
「リーユーの妹だな?」
 するとニハイは、意外そうにテスの喉の辺りを見上げた。
「お兄ちゃんが私の話をしたんですか?」
「いや……噂に聞いたんだ」
 するとまた、はにかんだ笑みと共に目を伏せる。テスはやるせない気持ちになった。
「お兄ちゃんのことが、好きなんだな」
「はい。お兄ちゃんは優秀で、すごい言葉つかいです」
「優しくしてくれるか?」
「はい」
 テスは頷いた。
 リーユーとニハイが互いについて口にするように、ニハイが優秀でないのか、またはリーユーが優秀なのか、テスにはわからない。だが、ニハイのリーユーを慕う気持ちは報われないだろう。そして恐らく、ニハイがリーユーのような存在になることもないだろう。
「ニハイ、一つ教えてほしいんだ」
「何でしょうか」
「この街で捧げられた祈りは、どこに通じているんだ?」
 ぽかんとした様子で、またニハイはテスの喉の辺りを見つめた。目を合わせるのを避け、丁寧に答えた。
「アルネカ様を通じて神のみ元へ届けられます」
「神様は、返事をくれるのか?」
「はい」ニハイはこともなげに続けた。「私の場合ですと、毎日、神は私にもっと恥じろと仰います」
 まさかという思いに打たれ、テスは動揺した。
「そんなことを神が言うのか? アルネカ様じゃなくて?」
「アルネカ様は預言者です。預言者の言葉は神の言葉です。そのことを疑えば、私たちは黒い太陽にさらされます」
 それから、ニハイは一歩後ろに身を引いた。
「後で、ティルカさんが迎えに来ますので……」
 身を翻し、階段を下りていく。
 テスは部屋の戸を閉めて、籠を床に置いた。服を出してみると、それは石鹸の匂いを放ち、汚れも可能な限り落とされて、破れたところも繕われていた。
 着替えようとしたとき、飛び去るものの影が服に落ちた。
 羽音はなかったが、テスは呼吸を止めて窓を振り向いた。不変の夕空、曇天、そこに鳥の姿はない。窓を開け放とうとしたテスは、窓の下に佇むリーユーの姿に気がついた。
 窓をそっと押し開けた。
 宿の戸が開いて、ニハイが出てきた。
「遅いぞ。何やってたんだ」
 すぐに声が聞こえてきた。ニハイが「ごめんなさい」と呟く。テスは二人の様子を見守った。リーユーは何やらぶつくさ言った後、ニハイの足首を蹴って街の中枢へと歩きだした。彼は早足、かつ大股で歩くので、後ろのニハイはついていくのが精一杯だ。一緒に歩くだけで恥になる、というのは、本心に違いない。
 テスは窓を閉じた。ニハイの子供っぽい顔つきを思うと暗澹たる気持ちになる。ニハイの成長を阻害しているのは、家族であるリーユーの態度だろう。ニハイには他に家族がいないのだろうか? だとしたら、彼女を愛する人はいない。
 ニハイが家族愛の幻想を失わずにいるためには、子供のままでいるしかない。誰かが罪悪感と自己否定感を彼女の中から取り除いてやったとしても、リーユーは新たにそれを植え付ける。リーユーはそうしておきながら、自分こそがニハイの被害者だと主張する。だが彼も、そうするしかないのだろう。彼もまた、好きで妹を憎んでいるわけではない。そうするしかないのだ。
 服を着替え、一階に下りた。
 一階では、管理人の白髪の老人がはたきを手に玄関口をうろついていた。彼はテスを見ようとせぬまま、気配で嫌そうな顔をした。テスは足を止め、老人に声をかける。
「少し、散歩に――」
「駄目駄目」
 いらいらしながら老人は遮った。
「少しの間だけだ」
「もうじき迎えが来るから」
 テスは質問を変えた。
「この街に鳥はいるか?」
「二階で待ってなさい」
 佇むテスの前で、天籃石の照明を置く小さな机にはたきをかけながら、老人は重ねて言った。
「あんた、黙ってくれんかね」そして、「二階に行ってくれ。邪魔なんだよ」
 するといきなり戸が開いて、ティルカが現れた。
「よう、テス」
 老人が、行き場を見つけて安心したとばかりにティルカにせかせか歩み寄る。ティルカは戸口で老人に何かを囁いた。テスはティルカの唇を読んだ。
『何か変わった様子はあったか?』
 老人は背を向けている。が、二度続けて頷くと、一階の廊下の奥に引っ込んでいった。
「武器は持ってないな」
 二人きりになると、ティルカはテスの様子を確かめて笑いかけた。
「行こうぜ」
「どこに?」
「そりゃお前、アルネカ様のところだよ。改めて挨拶するんだ」
 二人は連れだって外に出た。
「ティルカはこの街で鳥を見たことはあるか?」
 中枢への短い距離を歩く間、テスはそっと尋ねた。
「鳥? なんで」
「いるはずなんだ。俺は鳥を探してこの街にたどり着いたんだ」
「さあ……」ティルカは眉を顰める。「わからないな……気にしたこともないし……別に鳥好きでもないし……」
 嘘だ。テスは心の中で反駁(はんばく)する。
 門の中で、昨日と同じようにヤトに会った。ヤトは門の中の詰め所に入るようテスに言い、自分は詰め所の外でティルカと二人で話をした。少しして、戸が開いて、ティルカが詰め所に顔を覗かせた。
「悪いけど、リーユーにアルネカ様の様子を聞きに行ってくる。ヤトと待ってろよ」
 そして、ティルカが出ていって、ヤトが入ってきた。
 ヤトは唇をきつく結び、腕組みし、部屋の奥のテスから距離を置いて、入り口近くの椅子に掛けた。
「ヤト」呼びかけると、すぐに鋭い目をくれた。「聞きたいことがあるんだ」
 威圧を込めてヤトが口を開く。
「何だ」
「鳥はどこにいるんだ?」
 ヤトは黙った。質問したことを後悔させてやるとばかりの、不機嫌な、重い沈黙だった。だがテスはヤトから目をそらさずにいた。そうして、回答を諦めずにいることをわからせると、ヤトは目を合わせてきた。
「ティルカにも同じことを聞いたそうだな」
「ああ」
「宿の老いぼれにも」
「ああ。聞いた」
「何故そんなことを知りたいんだ」
「知りたいから知りたいんだ」
 暴力の気配をまとい、だが動かずにヤトは続けた。
「命ある内から空を目指す者はみな、街から排除された。そのことをよくよく覚えておけ」
「どうして」
「よそ者に言うべきことじゃない」
 鳥の影を見たことは、言わずにおくほうが良さそうだった。だが、ヤトの答えで十分に目的は果たされた。ここに捜しものはない。そうわかった。
 誰かが外を走ってくる。
 ティルカがまた顔を覗かせた。
「悪いな。アルネカ様はアクセサリーを選ぶのに時間がかかってるんだ。もうちょっと待っててくれるか?」
 座ったまま見上げるテスの目に何を感じたのか、ティルカの笑みが薄らいだ。孤独が宿った。テスの視線の力でティルカの顔に照射されたテスの孤独だった。ティルカはまたすぐ微笑んだ。
「ちょっと早く来すぎたな」
「アルネカ様に会う前に、トイレに行っておきたい」
 低い声で呟くと、ヤトとティルカが視線を交わした。ティルカが詰め所のドアを開け、暗い城門内の通路を挟んだ反対の壁を指指した。そこにも板戸があった。
「行ってこいよ」
「ありがとう」
 テスが廊下に出ても、詰め所の戸は閉まらなかった。トイレの様子を見張るつもりらしい。
 トイレは臭かった。天籃石の裸石が吊り下げられており、窓がなく、代わりに、石組みの便器の上に換気用の穴があった。テスは大気をまとって飛び上がり、灰色の石壁を蹴った。壁の冷気を靴越しに感じながら、左手を高く伸ばす。埃のこびりつく穴の縁に手をかけ、体を持ち上げた。上半身を四角い穴に滑り込ませ、膝を穴の縁に乗せ、ついぞ全身を換気孔に引き込んだ。
 テスは闇を這い、やがて光を見た。朱色の光に染まる出口から慎重に外を伺うと、そこは街の中枢を囲む城門の、内側であるようだった。
 穴の外側に身を投げた。大気の足場を蹴って飛び上がり、左足で壁を蹴った。そして右足で大気を蹴って更に高く浮いて、城壁の上に着地した。城壁の外側へと身を投げて、空中でくるりと体を丸くする。通りの真上で静止して、音もなく舞い降りた。
 そのまま宿に駆け戻った。管理人と鉢合わせをせずに済むかどうかは運次第だったが、宿の戸を開けたときには、その姿を見ずに済んだ。また、街の人にも会わなかった。気配はあるのに姿は見えない。街の規模に比べて人が少なすぎる。
 音を立てずに二階に駆け上がり、ベッドの下に隠した武器、物理銃と一対の半月刀を引きずり出した。腰にベルトを巻き付け、マントの内側、腰の後ろに銃を、左右の腰に一振りずつ半月刀を装着する。階段を慌ただしく駆け上がる足音を聞いたのはそのときだった。テスは部屋の窓を急いで、しかし静かに開け、窓枠を蹴った。風をまとう束の間の快感と共に浮き上がり、屋根の縁を掴む。
 屋根に体を持ち上げ、伏せた直後、人の気配が真下に現れた。屋根からそっと身を乗り出して窺うと、管理人の老人が窓から頭を突き出して、通りを見下ろした。そして、窓の向こうに引っ込んだ。
 テスは振り向かず、屋根屋根の上を渡り走り出した。間もなく背後で警鐘が鳴り響いた。街の中枢から鳴り響く重々しい鐘の音に呼応して、甲高い早鐘が方々で鳴り響く。追跡が始まるのだ。
 テスは街を囲む城壁へと近付いていった。中枢から遠のくにつれ、街が荒れていく。ついぞ荒れた空き家が建ち並ぶばかりの区画に来た。そこに着くまでに、テスを探して動き回る人間の姿は十人も見なかった。
 誰もいない家々の間に、打ち捨てられた野外礼拝所を見つけた。宿の正面にあった礼拝所と同じく巨石を組んで作られたものだが、こちらは荒れ果てて、祭壇を蟻が這い、地面は均されておらず、石と砂が入りまじっている。片隅には掃除場があるが、箒やバケツの類は散乱し、錆びた蛇口の下の排水口の金網からは、雑草が二、三本生えていた。
 テスは廃墟の屋根を下り、巨石の間に身を潜ませた。枯れた茨の茶色い蔓が巨石に絡みついている。
 それらの蔓の下に、何か文字が彫られていた。テスは棘に気をつけながら、茨の蔓を掻き分けた。
『死者の礼拝所』
「テス!」
 間近で声が聞こえ、テスは慌てて体を小さく屈めた。
 ティルカの声だった。
「テス! 聞こえてるなら出て来てくれ! 何もしないから!」
 だが、足音は二人分だ。
 テスを呼ぶティルカを宥めるように、ヤトの声が礼拝所の前を通り過ぎながら言った。
「落ち着け。俺が張った結界は外からの侵入を防ぐだけじゃない。わかってるだろう。出ようとすれば必ず引っかかる」
「それはそうだけど」
 二人はちょうど、テスが隠れる巨石の前に来た。
「痛い目に遭わせたくないんだよ。かわいそうじゃないか」
「何をバカなこと言ってるんだ。こんなことになったのはお前の責任だぞ。お前が奴をこの街に担ぎ込んだんだ」
「じゃあ殺せばよかったとでも言いたいのかよ」
 二人は口喧嘩をしながら遠ざかっていった。
 ティルカの気持ちを思うとテスは胸が痛んだ。だがこの街に留まって、言葉つかいとしてアルネカのために働くことはできない。
 それにしても、結界をどう解除しよう。自分一人通り抜けるくらいなら、自分の力でどうにかなるだろうか。彼らは街の外まで追ってくるだろうか。
 じきに、二人の声と足音は完全に聞こえなくなった。動きだそうとしたテスは、風の唸りに身を竦めた。足音もなく、衣擦れの音もないが、確かに濃密な気配が礼拝所に入ってきた。気配は、テスが背を預ける巨石の向こう、祭壇の前に留まった。
 低い男の声で、気配は何かを呟き始めた。
 テスは突然、正体を悟った。
 死者だ。
「自分の心に愛がないことを知りながら、あるふりをして嘘をついてきました」
 ここが死者のための礼拝所なら、死者のほかに祈る者はおるまい。
「教会は家族を愛せよと説きます。しかし私は遠く離れた家族を愛せません。なので、私は父母兄弟を、既に死んだと皆に語りました。そのことを、神よ、あなたのほかに誰にも打ち明けられなかった。打ち明ければ、教会は私を相応しくない存在と見做すと思い、恐れたのです」
 呼吸の音は聞こえない。代わりに風が、巨石の間を吹き抜けてすすり泣く。
「そして、ついぞ私の親が死んだとの知らせを受けたとき、一度でも親族と顔を合わせるべきか、私はあなたに尋ねました」
 声は途切れた。だが気配は残っている。
 そのまま、もう話そうとはしなかった。
 テスは口を開き、そっと尋ねた。
「答えはあったのか?」
「いいや」声は応じる。「神はお答えにならなかった」
 強い風が、声と共に、テスが身を隠す巨石にぶつかった。
「ついぞ、答えはなかった……」
 気配が急に消えた。テスは両膝をついた姿勢のまま、祭壇の前の様子を窺った。無人だった。鳥の影が曇天の下を過ぎ去り、そのときテスは、この街に本当に鳥がいないことを理解した。
 盲目のアルネカの記憶と、他の言葉つかいの主観による補強でこの街が保たれているのなら、飛び交う鳥の姿も、テスの記憶と願望から生まれたものなのだろう。
 テスは立ち上がり、祭壇の前に出ていった。テスには神を感じられない。死者が行くべき場所も、その道筋も、この街には見つからない。
 目を閉ざす。様々な濃淡の灰色と朱色の雲を視界から閉め出して、赤く晴れた空を思い出す。左手を高く上げ、人差し指にその赤さを集めた。
 腕を振り下ろし、天に記憶を投げ放つ。
 光を感じた。鳥の行く先、死者の魂の行く先を示すもの。
 目を開けた。
 雲が丸く割れている。その割れ目が大きくなっていく。
 やがて雲の向こうに現れたのは、死者の行く先などではない。
 真っ黒い太陽。
 心臓が収縮し、背筋に悪寒が走った。反対に、顔はカッと熱くなった。小さな物が揺れ動く、カタカタという軽い音がした。テスは目を空から音の発生源、野外礼拝所の掃除場へと向けた。
 排水口から黒い水が逆流し、金網を揺らしていた。水は溢れて広がり、散乱する箒、バケツ、倒れたゴミ箱に触れていく。
 恐怖の波動がテスを打った。街のほうから混乱した騒ぎが聞こえ、自分のもとに駆けつけてくる足音を聞いたときにはもう、身を隠す余裕はなかった。
「やめろ!」
 ティルカだった。言葉つかいの力を感じて、戻ってきたのだ。ヤトも一緒だ。道を走ってくる。
「テス! 何やってるんだ!」
 その叫びと足音をかき消して、アルネカの声が、まるで間近にいるかのように精神を打った。
『客人を殺しなさい!』

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