復讐者
文字数 4,790文字
3.
「戻るんだ」
そのジュンハの目ときたら。
憎悪の光に貫かれながら、テスはサラの体の前に右腕をかざした。
「早く。家に」
機関車のサロンで見かけたときよりも生気が満ちているように見えた。負の感情がもたらす負の生気だ。だがジュンハがそれに支配されているのはテスのせいだった。言葉の力を撃ちだすこの世界の銃に右手が添えられ、その右腕の強ばりまでもがテス自身のもののように感じられる。
「やめて」サラが、テスの腕を押し退けて、果敢にもテスの前に身を晒した。「この人は怪我をしているの。酷いことしないで」
「サラ、よせ」
テスはサラの肩に手を置いて、無理矢理にでも後ろに下がらせようとした。だがサラは、テスの体の前面に自分の体を押しつけて、テスの胸に手を添えた。
「サラ!」
だが、言うことを聞こうとしなかった。銃を持つジュンハの手がぴくりと震える。テスの胸は早鐘を打ち、血が巡り始めた。体が熱くなっていく。
最悪だった。やはり、一刻も早く遠くに逃げ去るべきだった。池の畔でサラに声をかけられたとき、振り切って去るべきだったのだ。
幸いにも、ジュンハにはまだ冷静さがあった。
「その男から離れろ」ぞっとするほど冷たい声で、ジュンハがサラに告げる。「そいつは俺の娘を殺した」
サラの動揺が直接テスの体に伝わった。
二つの相反する思いが同時に胸に沸き立った。
恥と、安堵だった。
そのことをサラに知られたくなかった。だが、知られぬまま好意を抱かれるのは、騙していることになる。
逃げるんだ。テスは一言も口に出せず、動くこともできぬまま、ただ心の中で訴えた。この男の言うとおりだ。俺には庇われる値打ちはない。だから逃げるんだ。
身震いがサラを襲い、彼女は首を横に振る。テスは心の中で訴える。
逃げろ。さあ。
サラが口を開いた。
「事情があるはずよ」
ジュンハの右手が動いた。
それを見た瞬間、テスは動いた。サラの首に腕を回して大地に倒れ込む。
黙って事態を見守っていた赤毛の言葉つかいが叫んだ。
「やめろ!」
サラの上にテスが覆いかぶさり、二人の上を熱い火の塊のようなものが掠めていった。テスが膝立ちになったとき、ジュンハの右肘と右手首は、言葉つかいの男の両手に握られていた。
テスもまた声を上げた。
「この人を巻き込むな!」
そのときようやく、サラを巻き込まずに済む一番いい方法を思いついた。自分が離れればいいのだ。言葉つかいがジュンハの耳許で呟く。
「おい、話に聞く極悪非道の鬼畜外道となんか違わないか?」
倒れたままのサラを残し、ジュンハと言葉つかいの目の前で、テスは崖へと一直線に走り出した。
離せとジュンハが叫んでいるのが聞こえた。だが、サラの叫び声のほうが大きかった。
「その男の人を止めて!」
テスは走りながら振り向いた。ジュンハが一人で追ってきていた。その後ろに、ジープと、荒れ野に座り込むサラ、そしてサラに寄り添う言葉つかいの姿が見えた。
サラはなお叫ぶ。
「お願い、止めて! ……ミスリルさん!」
崖に沿って海に下りる細い道があった。その道に入る前に、テスはもう一度振り向いた。ジュンハが銃のカートリッジを交換している。サラの視界に入るところで闘いを始めたら、駆けつけてくる恐れがある。
石が転がる下り坂に、テスは姿を隠した。坂道の右側は切り立つ崖で、左は石の転がる斜面だった。もうサラに見られることもない。
振り向いたテスは、坂の上に立つジュンハ、その手の銃、そして銃口を見た。
灰色の塊が撃ち出され、それが大きな布のように広がった。向こうにジュンハの姿が透けて見えた。布のようなものが体にかぶさり、絡めとられ、テスは地面に突き倒された。その勢いで狭い道から石の斜面へと転がり、そのまま滑り落ちた。
為す術なく尖った石の上を転げ落ちながら、体に絡みつくものの正体を理解した。網だ。
下の荒磯 に叩きつけられて、滑落は終わった。網はきつく体に絡まっている。顔の前に腕をかざしていたが、動かすことはできなかった。
テスはそのまま、さだめの時が来るのを待った。やがて、死と裁きの足音、坂を下りてくるジュンハの足音が聞こえた。近付くにつれ、早足になる。坂を下りてから走り出した。斜面の下に倒れたままのテスにも、その姿が見えた。
爪先が迫ってくる。
撃ち出された網が力を失い、拘束が緩んで体が軽くなった。網が消えていく。だが完全に消え去る前に、ジュンハがテスのもとにたどり着いた。
胸ぐらを掴まれて、引きずり起こされた。ジュンハの燃え立つ目よりも、剥き出しの歯よりも、テスは振り上げられた拳を見た。
左腕をかざしたが、防げたのは最初の一撃だけだった。二度目の殴打を顔に受けた。容赦はなかった。首が強く振れ、その衝撃のためか、痛みすら感じなかった。
三度、四度と殴られて、五度目で気を失いかけた。腹を殴られて意識を取り戻した。テスは痛みに声を詰まらせた。抵抗はしなかった。だが、大人しく殴られるほど、相手の怒りの火は燃え上がるようあった。
顔や腹を激しく殴られた末に、石の斜面に投げつけられた。背中と頭を打ち、そのままずるりと荒磯に倒れた。
聞こえるのは、寄せては返す波の音、時折波に洗われて崩れる石の音、そしてジュンハの荒い息遣いだけだった。
息が苦しかった。口の中に血の味を感じる。殴られて口の中を切ったのだ。だが、内臓に打撃を受けたせいかもしれない。
「馬鹿にしてるのか?」
ようやくジュンハが口を利いた。テスは横様に倒れたまま、その声を聞いた。
「そんなふうに黙って……抵抗できるはずだろう……罪滅ぼしのつもりか? 罪滅ぼしができるとでも?」
殴られた腹が痛く、苦しく、額に脂汗が浮く。テスは歯を食いしばって耐えた。
「言い訳の一つでもしてみろ!」
何も言い訳できることなどなかった。口からは意味のない呻き声しか出ず、それでも口を開けば、咳き込んで、石の上に血を吐いた。
ジュンハはテスの体を蹴り、仰向けにさせた。そして鳩尾 に足を置いた。
意識は朦朧とし、目を開けても焦点は定まらない。霞がかった視界に、銃口を向けるジュンハと、その背景の赤い空が映るだけだった。
「犠牲が必要だったって言いたいんだろう」押し殺した声でジュンハは続ける。「そんなことは他の言葉つかいから散々聞いた。そうしなければ列車に乗っていた全員が死んでたってな。喜べよ、人殺し、子供殺し! お前を英雄扱いする奴だって少なくなかったくらいだ」
鳩尾にかかる圧力が増し、テスはきつく目をつぶった。
「俺が聞きたいのはな」
ジュンハは一層踏みつける。
「……どうしてサイアだったのかってことだ」
テスは目と口を開けようともがいた。目がもう一度光を受け入れたとき、ジュンハが足の力を弱めて、それで、どうにか喋ることができた。
「あのとき……」荒い息に半ばかき消されながら、テスはどうにか答えを口にした。「……俺の、一番近くにいたから」
テスは待った。
ジュンハは引き鉄を引かなかった。まだ死の前に受ける苦しみが足りぬと思ったのだろう。鳩尾から足をどかすと、テスの右の頬を爪先で蹴った。今度はそのまま踵で左の頬を蹴った。
突如耐えられぬという強い思いが沸き起こり、テスは体を捩ってうつ伏せになった。
耐えろ、と理性が言った。当然の報いなのだから。
言葉つかいの力を使って、人を助けたいと思った。覚悟をしろとキシャに言われた。その結果を体で受け止めろと。これが結果なのだ。
だが体は言うことを聞かず、這って逃げようとした。ジュンハが横に回り込み、腕で這う姿勢の体の下に足を入れて腹を蹴った。もう一度横様に倒れたとき、背中を蹴られ、また腹に爪先が食い込んだ。全てが体重をかけた重い一撃だった。
俺が何をしたって言うんだ? 二つに裂けた自分の一人が一層声を上げた。ここまでされなければいけないことをしたのか? 悪いことをするつもりはなかった。仕方がないじゃないか。
顔をしかめ、咳き込む度に石が赤く濡れていく。蹴りつける力は弱まる気配を見せない。このまま蹴り殺すつもりなのだ。
こういう死にかた、殺されかたが自分には相応しいのだ。
正しいことなど一つもできなかったのだから。
化生に怯える貧しい村の人々を助けたいと願った。だが途中で投げだし、立ち去った。ネサルを手助けしてやりたいと思った。その結果一人の言葉つかいの男が死に、ネサルも死んだ。その一件が引き鉄となり、名も知らぬ次の町では大規模な抗争が起きた。たくさんの人が死んだはずだ。そしてサイア。言い訳できるはずがない。
正しいことなどわからなかった。
死のうとしている今でさえ、わからないのだから。
善いことができると思っていたけど、それさえ間違っていた。せいぜい、善いと思うことをできるだけだった。
そして、そうした結果を引き受けるときが来た。
いつしかジュンハが、テスを足蹴にするのをやめていた。
「サイア」一人の哀れな父親が、その名を呟きながら銃を抜く。テスは目を開けられなかったが、音でわかった。「サイア――」
カートリッジを替えている。
嫌だ! もう一人の自分は未だに叫んでいた。死にたくない! 死にたくない! ここで死を受け入れるなら、どうして人を殺して旅をしてきたんだ? ここで全てを投げ出すなら、命を奪って守ってきた自分とは何なのだ?
目が開いた。
開けようと思ったのではない。勝手に開いたのだ。
底力だった。最後の生命が輝き、目に光を与えて、焦点を合わせた。
ジュンハの銃の銃口が自分に合わせられるのが、やけに遅く見えた。
もう力は残っていないはずだった。
テスにもわかっていたし、ジュンハもそう思っていたはずだ。
だが、動いた。
何もかもが遅かった。
突風がテスの体から起き、ジュンハを突き飛ばした。意志と理解に関わりなく、体が勝手に動き、銃を抜いた。
そして、一発の弾丸を撃ちだした。
その一発がジュンハの胸を撃ち抜いて、見届けた途端に、時間が正常に戻った。
テスはいよいよ力を使い果たし、撃たれたジュンハよりも早くその場に倒れた。
波の音が聞こえた。
ジュンハの呻き声を聞いた気がした。だが耳に意識を集中したときにはもう、波の音の他何も聞こえなかった。
殺したのだ。
逃げなければならない。
次の復讐が引き起こされるのだから。
それに、もう一人敵がいた。あの赤毛の言葉つかいだ。言葉つかいと戦う力などもうどこにもない。戦うどころか立ち上がることさえできない。
自分はもう死ぬはずだ、とテスはわかっていた。臓器が破裂していると思う。幸いなのは痛みすらもう感じられないことくらいだ。では、ジュンハを殺したことに一体どんな意味があっただろう。自分はジュンハに殺されるべきで、それが正義だとすら思ったのに、結局間違いを認めたくない一心で、更に罪を犯した。意志の力で体を従えることができなかった。だが、自分一人が死んでジュンハが生き延びていれば、どれほど有意義だっただろう。
自分は悪なのだ、と、テスは悟った。人生最後の悟りだ。
これほど殺し、血を流し、争いの種をばらまいて、自分自身もここまで痛めつけられて追い詰められなければ悟ることができなかった。
この愚かさゆえに、悪なのだ。
神は自分を救わないだろう。
何を信じていたのかさえ、もうわからないけれど。
だが、もういい。もう終わるのだからそれでいい。
もう死んで、終わるのだから。
「戻るんだ」
そのジュンハの目ときたら。
憎悪の光に貫かれながら、テスはサラの体の前に右腕をかざした。
「早く。家に」
機関車のサロンで見かけたときよりも生気が満ちているように見えた。負の感情がもたらす負の生気だ。だがジュンハがそれに支配されているのはテスのせいだった。言葉の力を撃ちだすこの世界の銃に右手が添えられ、その右腕の強ばりまでもがテス自身のもののように感じられる。
「やめて」サラが、テスの腕を押し退けて、果敢にもテスの前に身を晒した。「この人は怪我をしているの。酷いことしないで」
「サラ、よせ」
テスはサラの肩に手を置いて、無理矢理にでも後ろに下がらせようとした。だがサラは、テスの体の前面に自分の体を押しつけて、テスの胸に手を添えた。
「サラ!」
だが、言うことを聞こうとしなかった。銃を持つジュンハの手がぴくりと震える。テスの胸は早鐘を打ち、血が巡り始めた。体が熱くなっていく。
最悪だった。やはり、一刻も早く遠くに逃げ去るべきだった。池の畔でサラに声をかけられたとき、振り切って去るべきだったのだ。
幸いにも、ジュンハにはまだ冷静さがあった。
「その男から離れろ」ぞっとするほど冷たい声で、ジュンハがサラに告げる。「そいつは俺の娘を殺した」
サラの動揺が直接テスの体に伝わった。
二つの相反する思いが同時に胸に沸き立った。
恥と、安堵だった。
そのことをサラに知られたくなかった。だが、知られぬまま好意を抱かれるのは、騙していることになる。
逃げるんだ。テスは一言も口に出せず、動くこともできぬまま、ただ心の中で訴えた。この男の言うとおりだ。俺には庇われる値打ちはない。だから逃げるんだ。
身震いがサラを襲い、彼女は首を横に振る。テスは心の中で訴える。
逃げろ。さあ。
サラが口を開いた。
「事情があるはずよ」
ジュンハの右手が動いた。
それを見た瞬間、テスは動いた。サラの首に腕を回して大地に倒れ込む。
黙って事態を見守っていた赤毛の言葉つかいが叫んだ。
「やめろ!」
サラの上にテスが覆いかぶさり、二人の上を熱い火の塊のようなものが掠めていった。テスが膝立ちになったとき、ジュンハの右肘と右手首は、言葉つかいの男の両手に握られていた。
テスもまた声を上げた。
「この人を巻き込むな!」
そのときようやく、サラを巻き込まずに済む一番いい方法を思いついた。自分が離れればいいのだ。言葉つかいがジュンハの耳許で呟く。
「おい、話に聞く極悪非道の鬼畜外道となんか違わないか?」
倒れたままのサラを残し、ジュンハと言葉つかいの目の前で、テスは崖へと一直線に走り出した。
離せとジュンハが叫んでいるのが聞こえた。だが、サラの叫び声のほうが大きかった。
「その男の人を止めて!」
テスは走りながら振り向いた。ジュンハが一人で追ってきていた。その後ろに、ジープと、荒れ野に座り込むサラ、そしてサラに寄り添う言葉つかいの姿が見えた。
サラはなお叫ぶ。
「お願い、止めて! ……ミスリルさん!」
崖に沿って海に下りる細い道があった。その道に入る前に、テスはもう一度振り向いた。ジュンハが銃のカートリッジを交換している。サラの視界に入るところで闘いを始めたら、駆けつけてくる恐れがある。
石が転がる下り坂に、テスは姿を隠した。坂道の右側は切り立つ崖で、左は石の転がる斜面だった。もうサラに見られることもない。
振り向いたテスは、坂の上に立つジュンハ、その手の銃、そして銃口を見た。
灰色の塊が撃ち出され、それが大きな布のように広がった。向こうにジュンハの姿が透けて見えた。布のようなものが体にかぶさり、絡めとられ、テスは地面に突き倒された。その勢いで狭い道から石の斜面へと転がり、そのまま滑り落ちた。
為す術なく尖った石の上を転げ落ちながら、体に絡みつくものの正体を理解した。網だ。
下の
テスはそのまま、さだめの時が来るのを待った。やがて、死と裁きの足音、坂を下りてくるジュンハの足音が聞こえた。近付くにつれ、早足になる。坂を下りてから走り出した。斜面の下に倒れたままのテスにも、その姿が見えた。
爪先が迫ってくる。
撃ち出された網が力を失い、拘束が緩んで体が軽くなった。網が消えていく。だが完全に消え去る前に、ジュンハがテスのもとにたどり着いた。
胸ぐらを掴まれて、引きずり起こされた。ジュンハの燃え立つ目よりも、剥き出しの歯よりも、テスは振り上げられた拳を見た。
左腕をかざしたが、防げたのは最初の一撃だけだった。二度目の殴打を顔に受けた。容赦はなかった。首が強く振れ、その衝撃のためか、痛みすら感じなかった。
三度、四度と殴られて、五度目で気を失いかけた。腹を殴られて意識を取り戻した。テスは痛みに声を詰まらせた。抵抗はしなかった。だが、大人しく殴られるほど、相手の怒りの火は燃え上がるようあった。
顔や腹を激しく殴られた末に、石の斜面に投げつけられた。背中と頭を打ち、そのままずるりと荒磯に倒れた。
聞こえるのは、寄せては返す波の音、時折波に洗われて崩れる石の音、そしてジュンハの荒い息遣いだけだった。
息が苦しかった。口の中に血の味を感じる。殴られて口の中を切ったのだ。だが、内臓に打撃を受けたせいかもしれない。
「馬鹿にしてるのか?」
ようやくジュンハが口を利いた。テスは横様に倒れたまま、その声を聞いた。
「そんなふうに黙って……抵抗できるはずだろう……罪滅ぼしのつもりか? 罪滅ぼしができるとでも?」
殴られた腹が痛く、苦しく、額に脂汗が浮く。テスは歯を食いしばって耐えた。
「言い訳の一つでもしてみろ!」
何も言い訳できることなどなかった。口からは意味のない呻き声しか出ず、それでも口を開けば、咳き込んで、石の上に血を吐いた。
ジュンハはテスの体を蹴り、仰向けにさせた。そして
意識は朦朧とし、目を開けても焦点は定まらない。霞がかった視界に、銃口を向けるジュンハと、その背景の赤い空が映るだけだった。
「犠牲が必要だったって言いたいんだろう」押し殺した声でジュンハは続ける。「そんなことは他の言葉つかいから散々聞いた。そうしなければ列車に乗っていた全員が死んでたってな。喜べよ、人殺し、子供殺し! お前を英雄扱いする奴だって少なくなかったくらいだ」
鳩尾にかかる圧力が増し、テスはきつく目をつぶった。
「俺が聞きたいのはな」
ジュンハは一層踏みつける。
「……どうしてサイアだったのかってことだ」
テスは目と口を開けようともがいた。目がもう一度光を受け入れたとき、ジュンハが足の力を弱めて、それで、どうにか喋ることができた。
「あのとき……」荒い息に半ばかき消されながら、テスはどうにか答えを口にした。「……俺の、一番近くにいたから」
テスは待った。
ジュンハは引き鉄を引かなかった。まだ死の前に受ける苦しみが足りぬと思ったのだろう。鳩尾から足をどかすと、テスの右の頬を爪先で蹴った。今度はそのまま踵で左の頬を蹴った。
突如耐えられぬという強い思いが沸き起こり、テスは体を捩ってうつ伏せになった。
耐えろ、と理性が言った。当然の報いなのだから。
言葉つかいの力を使って、人を助けたいと思った。覚悟をしろとキシャに言われた。その結果を体で受け止めろと。これが結果なのだ。
だが体は言うことを聞かず、這って逃げようとした。ジュンハが横に回り込み、腕で這う姿勢の体の下に足を入れて腹を蹴った。もう一度横様に倒れたとき、背中を蹴られ、また腹に爪先が食い込んだ。全てが体重をかけた重い一撃だった。
俺が何をしたって言うんだ? 二つに裂けた自分の一人が一層声を上げた。ここまでされなければいけないことをしたのか? 悪いことをするつもりはなかった。仕方がないじゃないか。
顔をしかめ、咳き込む度に石が赤く濡れていく。蹴りつける力は弱まる気配を見せない。このまま蹴り殺すつもりなのだ。
こういう死にかた、殺されかたが自分には相応しいのだ。
正しいことなど一つもできなかったのだから。
化生に怯える貧しい村の人々を助けたいと願った。だが途中で投げだし、立ち去った。ネサルを手助けしてやりたいと思った。その結果一人の言葉つかいの男が死に、ネサルも死んだ。その一件が引き鉄となり、名も知らぬ次の町では大規模な抗争が起きた。たくさんの人が死んだはずだ。そしてサイア。言い訳できるはずがない。
正しいことなどわからなかった。
死のうとしている今でさえ、わからないのだから。
善いことができると思っていたけど、それさえ間違っていた。せいぜい、善いと思うことをできるだけだった。
そして、そうした結果を引き受けるときが来た。
いつしかジュンハが、テスを足蹴にするのをやめていた。
「サイア」一人の哀れな父親が、その名を呟きながら銃を抜く。テスは目を開けられなかったが、音でわかった。「サイア――」
カートリッジを替えている。
嫌だ! もう一人の自分は未だに叫んでいた。死にたくない! 死にたくない! ここで死を受け入れるなら、どうして人を殺して旅をしてきたんだ? ここで全てを投げ出すなら、命を奪って守ってきた自分とは何なのだ?
目が開いた。
開けようと思ったのではない。勝手に開いたのだ。
底力だった。最後の生命が輝き、目に光を与えて、焦点を合わせた。
ジュンハの銃の銃口が自分に合わせられるのが、やけに遅く見えた。
もう力は残っていないはずだった。
テスにもわかっていたし、ジュンハもそう思っていたはずだ。
だが、動いた。
何もかもが遅かった。
突風がテスの体から起き、ジュンハを突き飛ばした。意志と理解に関わりなく、体が勝手に動き、銃を抜いた。
そして、一発の弾丸を撃ちだした。
その一発がジュンハの胸を撃ち抜いて、見届けた途端に、時間が正常に戻った。
テスはいよいよ力を使い果たし、撃たれたジュンハよりも早くその場に倒れた。
波の音が聞こえた。
ジュンハの呻き声を聞いた気がした。だが耳に意識を集中したときにはもう、波の音の他何も聞こえなかった。
殺したのだ。
逃げなければならない。
次の復讐が引き起こされるのだから。
それに、もう一人敵がいた。あの赤毛の言葉つかいだ。言葉つかいと戦う力などもうどこにもない。戦うどころか立ち上がることさえできない。
自分はもう死ぬはずだ、とテスはわかっていた。臓器が破裂していると思う。幸いなのは痛みすらもう感じられないことくらいだ。では、ジュンハを殺したことに一体どんな意味があっただろう。自分はジュンハに殺されるべきで、それが正義だとすら思ったのに、結局間違いを認めたくない一心で、更に罪を犯した。意志の力で体を従えることができなかった。だが、自分一人が死んでジュンハが生き延びていれば、どれほど有意義だっただろう。
自分は悪なのだ、と、テスは悟った。人生最後の悟りだ。
これほど殺し、血を流し、争いの種をばらまいて、自分自身もここまで痛めつけられて追い詰められなければ悟ることができなかった。
この愚かさゆえに、悪なのだ。
神は自分を救わないだろう。
何を信じていたのかさえ、もうわからないけれど。
だが、もういい。もう終わるのだからそれでいい。
もう死んで、終わるのだから。