ちゃんと皆殺しにしましたか?

文字数 2,011文字

 ※

 風を血除けに使ったものの、テスの髪にも、顔にも、灰白色のマントにも、点々と血がついていた。テスはその姿で教会堂に戻った。
 アルカディエーラは前庭に立ち、『亡国記』を読んでいた。テスが前に立ち、歩みを止めると、顔を上げ、あの聖女の笑みを見せた。
「ちゃんと皆殺しにしましたか?」
「……ああ」
「大変よろしい」アルカディエーラは本を閉じぬまま、満足そうに頷いた。
「それでいいのです。あなたはあなたの存在を認めず、殺しにくる者、また、過去にあなたを殺そうとした者を殺さなければなりません」
「過去にも?」
「もちろんです。その殺意の原因があなた自身の中から取り除かれたとは限らないのですから。あなたには、あなたの脅威を全て排除する必要があります」
「言うことが極端だ……何をそんなに恐れているんだ? アルカディエーラ」
 アルカディエーラは笑顔のままテスを見た。テスは続けた。
「俺にはそう見える。まるで殺される心当たりがあるみたいだ」
 本を閉じ、アルカディエーラは一歩、二歩、三歩と前に出た。そしてテスに背を向け、語り始めた。
「私には息子がいました」
 その過去形に、テスは先を促す。
「……その子はどうなったんだ?」
「知りません。捨てました」
 アルカディエーラは振り向かないが、口調に変化はなく、また雰囲気からも、まだ微笑んだままでいるらしかった。
「どうして」
逆子(さかご)で生まれてきて、縁起が悪かったからです。それに私も当時は子供みたいなもので、まだ遊びたい盛りでしたから」
 何かがテスの深いところに沈む記憶を撫でた。その感触に、テスは誰にも見られず目を見開いた。
「それで、父も、死産だったことにしようと家令に言って、捨ててこさせたんです。悪魔封じの印を頬に描いて。生きている内に拾われれば、血塗られた手の卑しい者たちがその子を育てることを、知っていました」
 テスは唾をのんだ。またのんだ。口の中はからからに乾いていたが、もう一度、何かをのみ込むように喉仏を上下させた。
「もしも……その息子が生きていたら?」
「殺します」
 テスはアルカディエーラの後ろで少し右に動き、右後ろから彼女の横顔を伺った。やはり微笑んでいた。
「その息子が、別にお前を憎んでいないとしても?」
「殺します」と、繰り返す。「私がその子に憎まれることをしたのには、変わりありませんから」
「そうか」
 テスの声が不意に低くなった。
「キシャ、離れろ」
『亡国記』が素早く浮き上がり、空中で止まった。驚いたアルカディエーラが弾かれたように振り向いた。次の瞬間、銃声とともに、彼女は本当に弾かれた。血が散り、体を一回転させ、どさりと重い音を立て倒れた。
 前のめりに倒れたアルカディエーラの後ろでは、テスが銃を両手で握っていた。
 アルカディエーラは何もない前方へと弱々しく手を伸ばし、呻きながら咳き込んでいる。テスは彼女の足許から、頭へと回り込んだ。銃をホルスターに収める。
「産んでくれてありがとう、母さん」
 そして、アルカディエーラの手が伸びる先で、しゃがみ込み、片膝をついた。
「感謝している」嫌味ではないとわからせるために、もう一言付け加えた。「これは本心だ」
 アルカディエーラは頬を地面にこすりつけ、僅かに顔の角度を上げた。その顔に血の気はなく、目はあっちを向いたりこっちを向いたりしており、定まらない。唇は血で真っ赤だった。彼女は何かを言おうとして、弱々しく血の混じった咳をした。指先が、力なくテスの膝頭を撫でた。
 唇が動いていた。テスは顔を寄せ、微かな息に混じる声と、唇の動きに集中した。
「私が」と、唇が動いた。「話したことはすべて忘れなさい」
 テスは頷く。
「ああ……そうする」
 アルカディエーラは何度も頷き返した。
「優しい子」
 まだ、彼女は口を開いた。
「そのまま――」
 声が絶え、テスは微かな唇の動きに目を凝らす。
 恐らく彼女はこう言った。
「そのまま、心を失くしていきなさい」
 唇は、二度と動かなくなった。
 ぐったりと倒れているアルカディエーラの瞼を、テスは閉じてやった。
 立ち上がり、その亡骸を呆然とした面持ちで見下ろした。
 彼女は殺されたかったのだとテスは考えた。ところでどうして彼女が自分の母親だとわかったのか、自分にそう確信させたものが何だったのか、テスにはわからない。
 アルカディエーラが語った内容に関連しているはずだが、彼女が何を言ったかさえ、もはや思い出せなかった。
 出自に関する記憶が失われたのだとテスは理解した。それに併せて、なくした記憶に関連するアルカディエーラの話の内容も、頭から滑り落ちてしまったのだ。アルカディエーラはもう語らない。
 空中の本はいつしか消えていた。
 テスはアルカディエーラの亡骸を見るのをやめ、背を向けた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み