煽動ラジオ

文字数 5,233文字

 1.

 青空の到来をじっと待っていなければならない理由があるだろうか? 死者の町の言葉つかいがしたように、望むものを努力で引き寄せずにいる理由は、または死者の町の言葉つかいがしなかったように、望むものへと自ら歩み寄らずにいる理由があるだろうか?
 テスはベッドに座り、ボウル型に重ねた両手を見ていた。手の中は液状化した青空で満ちていた。
 イメージの実体化には、身体動作を伴った方が成功しやすいと、経験上わかっている。
 素早く両手を振り上げた。手の中の青空が、ほとんど背後に投げ飛ばされんばかりの勢いで手から放たれ、天井にぶつかった。
 青空が天井一面に広がった。
 テスの周りに光が満ち、頭上を覆うものはなくなった。筋状の雲が輪を描き、陰鬱な世界の出口であるようにテスを誘っている。太陽はその雲の後ろにいた。強すぎる光でテスの目に痛みを与えぬよう、気遣っているようだ。
 鳥たちが現れた。そのシルエットが、雲の輪に入った。彼らを解き放ったテスのために飛ぶ。こっちにおいで、楽しいよ、と。
 クローバー、たんぽぽ、シロツメクサが床一面を覆って生え、安ホテルの壁が崩落した。壁の向こうには緑の丘陵が広がっていた。忘れられたドレッサー、書き物机に椅子、今テスが腰掛けるベッドさえ、今では小動物の遊具やすみかのようだ。ポピーが緑の茎を寄せあい、オレンジ色の花を空に振っている。
 長い緊張と憂鬱がほどけ、テスは鳥たちに微笑んだ。そのときに、鳥の声も、風の歌も、若葉のそよぎも聞こえぬことに気がついた。視覚と触覚によって再現された世界は無音だった。テスは音を付け足すべく、ベッドサイドのラジオに手を触れ、ざらついた表面を撫でたあと、スイッチを入れた。
『いつから俺たちの世界は〈奴ら〉に乗っ取られちまったんだ!?』
 空が消えた。鳥も丘も消えた。命が消え、ラジオはそうしたこと一切に対する腹立たしいほどの無頓着さで無機質な憎悪を喚きたてる。
『もともと〈奴ら〉は俺たちから隠れて暮らす存在だった。下水路を這い回るネズミ。ゴミ漁りの犬っころ。油ぎったゴキブリども。今も隠れているべきだ。ずっと隠れていなければならない。だが連中は人間づらして俺たちの中に溶け込んでいやがる。
 このラジオを聞いているお前らの中にもいるはずだ。隣に暮らす〈奴ら〉にいつ何をされるかと怯えながら暮らす者。不本意ながら〈奴ら〉のもとで働いてご機嫌取りをしなければならない者。逆に致し方なく〈奴ら〉に給料を支払わなければならない者。
 取り戻せ! 不潔な〈奴ら〉から俺たち人間の文明社会を取り戻せ! 怯えている者、思い詰めている者、もう我慢できない者、新生アースフィアに集い戦おう! さあ! 来い! 共にやるんだ! 世界を浄化しよう!』
 テスはラジオを切った。天井を見上げた。壁紙が貼られ、その継ぎ目から剥がれてきている。
 両手をボウル型に重ねたが、その手に空を満たす気力は起きず、手を解いた。

 ※

 ラジオのスイッチが入れられた。食堂に弦楽団が奏でる室内音楽が満ちた。男の太い指がダイヤルを回し、音楽はノイズに変わった。テスは二人掛けのテーブルに一人で座り、食事をとりながら、ラジオを回す男の背中を見守った。
 目当ての番組がなかったのか、男はラジオを切ると、残念そうな顔をしてテスの隣のテーブルに戻ってきた。三十前後の、どこか幼く世間知らずそうな顔つきの男で、よく似た顔の女が同じテーブルにつき男を待っていた。兄妹であるよう思われた。男は女に不満を漏らした。
「党の番組がやってない」
 女は匙でポタージュをすくいながら、男の目を見て答えた。
「零時台にやってたわ」
「一時台にもやるはずなんだ。畜生、局の連中は〈奴ら〉の肩を持つのか? 売国奴め! ここは人間の国だ」
「もともと違法の番組だわ」女はポタージュを口に運ぶことなく、匙をスープボウルに戻した。「それに電波ジャックは明らかに犯罪よ。ねえ、クェテ、いつまでこんな活動を続けるつもり?」
「もちろん〈奴ら〉を一掃するまでさ」クェテと呼ばれた男は、さも心外という口振りで答えたが、口調がわざとらしすぎて、小馬鹿にしているようにさえ聞こえた。「どうして消極的なことを言う、ニサ? もともと党にはお前が先に入って活動してたじゃないか」
「クェテは家族を大事にしなさすぎなのよ」ニサは完全に匙から手を離した。目はクェテを見据えたままだ。「それに、クェテ……家のガレージで火炎瓶を作って、誰でも触れるような状態で放置したり、みんなでそれを投げたりすることが……私には、お父さんのお見舞いに行ったり、お母さんのお誕生日を祝うことより大切だとは思えないのよ。それに、私が入れ込んでた頃の党と今の党は違うわ。今は……あんな、ただの差別主義……」
「ニサ、こういう場所じゃなかったらお前を殴ってる」クェテはテーブルの上で拳を作り、ニサに見せつけた。「これは戦争なんだ。理念は純粋じゃなきゃいけないし、過激なくらいでなきゃ勝てない。甘ったれたことを言うな」
「平和な時代に生まれ育って、よくそんなことが言えるわね。ねえ、クェテ――あのね、とにかく火炎瓶のしまい場所だけは今すぐ考えてほしいの。ガレージの隣は私の寝室なのよ? もし私に何かあったらとかって考えないの?」
「そんなの、お前の問題じゃないか。じゃあどこにしまえばいいんだ? 他にないだろう」
「お願いだから考えて!」
「代案を出せって言ってんだよ。だってガレージに置くしか仕方ないだろ? 代わりにどこに置けばいいか教えてくれなきゃ、どうにもできないね」
 ニサはズボンのポケットをごそごそやりだした。そして、折り畳まれた布を取り出すと、開き、テーブルに叩きつけた。両目と口の周りが白く縁取られた覆面で、それは青空みたいに水色だった。
 ニサは再びクェテとしっかり目を合わせ、言い放った。
「帰ったら党を抜けるわ。クェテも一緒に抜けて」
 クェテは途端にどんよりした目になって、ロールパンを手に取り、まずそうに食べ始めた。
「お前って、昔から飽きっぽいよな」
「そういう話じゃないでしょ? 党に差別主義が蔓延してたり火炎瓶の隣で寝なきゃいけないのが私の問題なわけないじゃない」
「お前、そういうこと、他のみんなには言うなよ? 俺は身内だから寛容に聞いてやってるんだからな」
「全然聞いてないじゃない! 聞いてよ!」
「とにかく」クェテは溜め息をつき、唾で唇に張り付いていたパン屑をテーブルに落とした。
 それから一気にまくし立てた。
「……とにかく、今回の仕事はちゃんとやってくれ。わかってるな。ヒヤシンス通りの公会堂だ」ニサに口を挟ませる隙を与えず続ける。「早く食え。党集会に間に合わなくなったらどうするつもりだ。ああ、まったく、お前はほんとにお気楽だよな。別にお前は自分の好きにすればいいけど、俺の顔に泥を塗るような真似だけはするなよ。大体お前は昔から――」
 ニサもまた、目の光を消して諦めきった顔をした。兄妹は喧嘩を続けた。喧嘩と言ってもクェテが一方的にニサの欠点をあげつらい、それをニサが死んだ目でただ聞くだけのものだった。
 テスは食事を終えて立ち上がった。クェテの後ろを通るとき、彼のズボンの尻ポケットにも同じ覆面が入っていることに気がついた。テスは、クェテが座る椅子の座面と背もたれの間からそれを掏った。
 テスは身支度を整え、安ホテルを出た。
 雑踏の声と音が、テスに降り注いだ。それらの声と音に集中する。今度世界を作るときには、そこに音を付け加えられるように。 
「シュークリーム、シュークリーム!」
 二歳くらいの幼い子供が、ケーキ屋の店先に座りこんで泣いている。
「ママ、シュークリーム!」
「シュークリーム買うんだったら抱っこしてあげないよ!」
 若い母親が、決して我が子に歩み寄ろうとせず、少し離れたところから上半身をよじる形で振り向いて、子供に険しい声を叩きつけた。子供は泣きながら、舌っ足らずに繰り返す。
「ママ、シュークリームぅ」
「だから、シュークリームか抱っこかどっちかにしろって言ってるじゃん! どっちなの! シュークリーム買うんだったらもう抱っこはなしだからね!」
 子供は泣き続けた。母親は抱っこどころか手を引いてやろうともせず、どうにでもなれとばかりに子供を置いて歩き始めた。子供は慌てて立ち上がり、泣き喚きながら追っていった。
 ケーキ屋がある区画の角の家は、張り出し窓が開いており、その向こうでは夫が妻を殴りながら怒鳴っていて、覗きこむまでもなく筒抜けになっていた。
「二日間も俺の食事をどうするつもりなんだ! 洗濯は! 掃除は! えっ? 俺に飢えて死ねって言うのか?」
 再び殴る音。その音に紛れて、ごめんなさい違います許してください、と泣きながらか細く繰り返す声が聞こえた。
「ふん、わかったら二度と友達と旅行に行きたいなんて言うなよ! 大体誰だ、そんな非常識な――」舌打ちの音。「誘ってきた友達の名前を言ってみろ、俺が縁を切っておいてやる」
 ぶつぶつと何かを言い返す女の声を、男のヒステリックな声がかき消した。
「お前のために言ってやってるんだろうが! それとも言えないような相手か! えっ? まさか浮気じゃないだろうな!」
 その家の通りを挟んだ向かいはちょっとした公園で、そこでは六、七歳の子供たちが花壇の隅に集まっており、一人の子供を座らせて、襟もとから服の中に花壇の土や、ミミズの類を入れて泣かせていた。
「おっ、みんな今日も元気か?」
 自転車に乗った中年の男が公園の中を横切ろうとし、子供たちに声をかけた。
「あ、先生だ!」
「先生、こんにちは!」
「休みの日にもみんなで仲良く遊んでるのか。偉いな」
 すると、いじめられていた子供が立ち上がり、縋るように両手を広げて自転車に乗った教師に駆け寄ろうとした。他の子供たちがそれを捕まえて、後ろに投げ飛ばした。
 教師は笑いながら自転車を漕ぎだした。
「やりすぎんなよ」
 公園を過ぎると、路上にクレープ売りの屋台が出ていた。若い男の店員が一人おり、一見身なりのいい老人が屋台の店員に話しかけた。
「ちょっと、お兄さん、クレープっていうの? この皮、何でできとるんだね」
「えっ、クレープの皮ですか? 小麦粉と……砂糖ですかね、ええ、まあ、小麦粉です」
「なんだ、そのいい加減な答えは」
 老人の声が尖る。
「何でできとるんだ。ちゃんと言わんか!」
 奇妙で迷惑な客の出現に、若い店員は固まっていた。老人は屋台をがんがん蹴り始めた。
「何で自分が売っとるものの商品知識をちゃんとしておかんのだ! お客様に何かわからんものを食わせとるのか、この店は! えっ? お前じゃ話にならん! 責任者を呼べ! 呼んで来い!」
 その老人の後ろを通り過ぎると、向こうから、目の見えない初老の男が、杖で道の様子を探りながら歩いてきた。
 十代の少年グループが駆けてきて、男を突き飛ばした。男が前のめりに転ぶと、彼の目の代わりとなる大切な杖を取り上げて、おもちゃのように振り回し、笑いながら角を曲がって姿を消していった。
「大丈夫ですか?」
 テスは駆け寄り、助け起こそうとした。
「うるさい! あっちに行け、馬鹿野郎が! 寄るな! ……寄るな!」男は腕を振り回し、喚いた。「馬鹿野郎が……いい人ぶりやがって……早くあっちに行け!」
 彼は自力で立ち上がり、壁に手をついて歩き始めた。
 テスの隣で、鈴の音を鳴らしてドアが開いた。そこはレストランで、スーツの男と、お揃いのスーツを着た男の子が並んで出てきた。
「おいしかったね、パパ」
 親子は馬車が拾える通りへ向かい、テスの前を歩き始めた。子供は父親を見上げ、更に話しかけた。
「次はキエンも来れるかな」
「うん? あいつは駄目だ。失敗作だからな。パパ、恥になる子とは一緒に歩けないよ」父親は、穏やかで、優しく、愛情深そうな口振りで息子を諭し、聞かせた。「パパは今日、お前が学校のお勉強で特別な成果を出したから、こうして食事に連れてきたんだぞ。これからもパパの大事な息子でいたかったら、お勉強を頑張らないとな」
「うん!」
 テスは思わず立ち止まった。
 完全に気が滅入ってしまい、何も聞きたくなくなって、空を見上げた。終わりの予感が重く垂れこめ、黄昏は人の心を覆っている。
 すべてはこの空のせいだと思えた。青空が、透明な光があれば、人も、町も、こうではなかったのではないか。
 テスは奥歯に力を入れた。
 これから、記憶を失くしていく。
 青空だけは失いたくない。青空だけは奪わないでほしい。運命に慈悲があるのなら、どうか……。


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