倦み飽きた世界は滅ぶ

文字数 11,964文字

 2.

 数分のうちに、道は大きくカーブして沼を離れた。霧も薄れてきた。見張り塔の尖った屋根が見えてきた。村か町があるのだ。果たして張り巡らされた木の柵と、その向こうの建物の影がぼんやり見えてきた。村を守る境は、木の柵だけのようだ。見張り塔にも人気はなく、接近するテスは、誰にも咎められなかった。
 彼は見張り塔の下で勢いよく振り向いた。
 誰かが間近で動きを止めた。舗道に積もった砂が、じゃり、と音を立てた。
「どうしてついて来る」
 尋ねてから、尋ねた相手を確かめた。そして動揺した。
 少女だった。
 大きな目がテスを見つめていた。彼を絶えず苛む寒さよりも寒々しく凍る目。長い前髪に半ば隠れていながらも、その剥き出しの冷たさで存在感を放っている。髪は、霧に煙る黄昏にあってもそうとわかるほど、はっきりした青色だった。
「気付いてたんだ」少女は革表紙の書物を抱いていた。「ぼーっとしてるかと思った」そして、少年を装うかのように、低い声で喋った。
「こんな所で下りる奴、普通はいない。どうして下りた? 運賃がなくなったか?」
 見かけ通りの存在ではなさそうだ。テスは眼前の少女を凝視したのち、意識をゆるめて遠くを見た。少女に焦点をあわせず、思考を極力抑えたが、少女の本質や本性と呼べるものは見えなかった。
 目の焦点を少女に戻し、答える。
「なんとなく」
 少女はフンと鼻を鳴らし、にこりともせず首を横に振った。答えを信じていないのだろう。無表情のままなお言った。
「だったら教会で施しを受けるがいい。名前は?」
「テス」風が吹いた。少女の長い青い髪と、白いブラウスの襟が動く。他に何も動かなかった。なので尋ね返した。「お前は」
「キシャ」
 少女が身じろぎした。手首を交差させ、胸に書物を押しつけていたが、その時手の甲がずれて表題が読みとれるようになった。
 金色の文字が、茜の霧を照り返す。
『亡国記』
 少女は補足した。
「キシャ・ウィングボウ」
 それから、ゆっくり踵を動かした。村へと。テスは身構えたが、キシャは彼に危害を加える素振りは見せなかった。
「案内してやる」
 少女が自分を真似ていることに、テスは初めて気が付いた。
 抑揚に欠けた声も。
 質問への答え方も。
 表情を変えぬことも。
 長い青い髪の垂れる少女の背を追って、テスは村を囲む柵を越えた。
「なあ」その背に語りかける。「お前は、『影』か?」
 だとしたら――テスは思う。だとしたら俺も、あんなに凍りついた目をしているのか? キシャが動きを止めた。すぐには振り返らなかった。背中で、重い威圧を放っている。後悔させてやるとばかりに。恐怖せよと。
 キシャは答えた。
「二度と当てようとするな」
 テスは黙った。石畳が敷かれた村の広場を越え、連なる屋根の向こう、夕闇を乳白色に溶かした霧の先に、聖堂のいくつもの尖塔が見えるようになるまで。
「どう考えてもおかしい」鳩時計を通り過ぎる。針は動いていなかった。「村の大きさに比べて教会が大規模すぎる。神殿……大聖堂と言ってもいい。どうしてあんなものが」
「馬鹿だから」
 意味をはかりかねているテスを置いて、キシャが走り出した。テスもついていった。舗道に二人の足音が響いた。村を貫く通りの奥へと、足音は吸いこまれていった。
 圧倒されるほどの聖堂だった。テスはその前階段まできて足を止めた。見上げても、聖堂の高さを目測できなかった。屋根は霧の中に隠れていた。
「偉い聖職者たちがきた。自分だけは助かろうとした。それで聖堂を建てた。神を敬うふりを見せれば救いを得られると思ってた。立派な聖堂を建てれば神はそれを(よみ)したまうと本気で信じてた。馬鹿だから」キシャが早口になる。「そいつらは人々を働かせた。人々も働いた。競うように働いた。他にすることがなかったから。どいつもこいつもろくでなしだから。己自身が救済になろうとした。でも無理がある。観念、概念、すなわち非物質の言語へと移り変わるにはずば抜けた知性と受容性と神との同一性が必要。物質の言語に移り変わるのとはわけが違う。例えば一羽の鳥がヒトという言語――」
 大聖堂の扉が内側から開いた。テスは息をのみ、腰を落として力を溜めた。キシャが唾をのんでから続けた。
「だからほら、結局彼らは物質になるしかなかった。見て! この建物、自我があるだろ!」
 セージの葉を焚く匂いが中から流れてきた。
 キシャが振り向く。
 心のない目のままで、口角だけ大きく上げ、笑った。
「入ろう?」
 テスは身構えるのをやめた。白い石の前階段を一段ずつ上がる。今度はテスが前を、キシャが後ろを歩くかたちとなった。
 神殿のエントランスは、先ほど通り抜けてきた村の広場が丸ごと入るだけの広さがあった。正面の通路の両脇に円柱が立ち並び、大理石の床が続く先に、次の大扉が黒く見えた。照明はないが、縦長の窓が壁際に並んでいるため、暗くはなかった。
 エントランスの奥で、再び扉が勝手に開いた。進めと。
「人は一人もいないのか?」
 裾広がりの階段が、扉の先に広がっていた。右手側の壁面が、等間隔に並ぶ柱を除き、全て窓になっていた。
「いるよ。いくらでも」
 テスは慎重に階段を上り始めた。後ろを歩きながら答えるキシャの声には、冷たい笑いが混じっていた。
「あのね、入り口の松明台。あいつのことを覚えてるよ。望んで処刑人になったの。火炙りが好きだったんだ。それまで強がってた異端宗派の信奉者が、いざ足許に火がついたら泣き叫んで改宗を叫ぶのが最高だったんだって。それでいつまでもいつまでも火を焚いていられるようになったんだ、自分自身が焼かれながら」
 テスは茶色い瞳を動かして、後ろのキシャを窺った。
「あとね、この先の大廊下の赤い絨毯の一家。あいつら、最高に馬鹿なんだ」
 キシャは満面の笑顔だが、金色の瞳を持つ両目には、やはり感情がない。
「もとは染物屋でね、大口の注文を受けたは良いけど、染料を買う金がなかったんだ。頭悪いだろ? 傑作なのがさ、そこであいつら、祈ったんだよ。神のための神殿を建てるんだから神が助けてくれるって。それで自分たちが絨毯になったんだ。それとね」
 言葉を切り、腕を振って窓を指す。
「そこの嵌め殺しの窓。こいつはもの凄いケチだったんだ。大雪の日にね、宿賃の尽きた旅人を裸で閉め出したの。窓の外で凍えているのを見て笑ってね。そして――」
「人間の形をした人間がいい」
 お喋りが止まる。
 白けた気配が放たれて、静寂が戻った。
 衣擦れの音、靴音が、高い天井に木霊する。
 階段の終わりが見えてきた。
 キシャが不機嫌に呟く。
「おまえ、それ、わがままだよ」
「そうか」テスは頷いた。「わがままなのか……」
 階段の上の空間から、太い咆哮が聞こえてきた。人間の声ではなかった。だが如何なる獣の声にも似ていない。黒く邪悪な圧力を感じさせる、低く腹に響く声だ。
 テスが足を止め、固まった。
「……化生(けしょう)がいるのか」
 だがすぐ、何でもないかのように歩き始めた。
 キシャが尋ねた。
「おまえ、化生を見たことある?」
「ああ」
「怖くないの?」
 階段が終わった。
「怖くないわけじゃない……」
 二人の目の前に、幅広の、果てが見えないほど長い大廊下が広がった。キシャの言葉の通り、廊下の中央には、赤い絨毯が敷かれていた。左右の側廊の窓から黄色い光が差している。
 その光を浴びながら、一体の異形が二人を待ち構えていた。
 それはまだ、辛うじて人の形を保っていた。
 ひどく不格好な巨人だ。
 キシャは全く声音を変えなかった。
(あや)喰いだよ。色彩を食う」
 テスは右腕を横に突き出し、背後にキシャを庇い頷いた。
「前にも会ったことがある」
 頭部の、目があるべき場所には、二つの白い光が点っていた。テスの背丈の十倍ほどの高さから二人を見下ろしている。テスは呼気を隠した。光は白から赤に、赤から黄に、七色に変化していく。
「大きいね。こいつはいずれ(かた)喰いになるよ。そのうち(こと)喰いに」
 体の重みに耐えかねるように、猫背になっている。腕は異様に細く長く、指先が床につきそうだ。体のバランスは悪いが、支障なく二足歩行できそうに見えた。そして、その体の色は――「真っ黒」キシャは再び含み笑いをした。「もうこれ以上は染まれない色だ。何人食ったんだか……」
「関係ない」
 テスの声から、これまでのぼんやりした調子が拭い去られた。虚ろだった暗い目の焦点が異形に定まる。
「化生は滅ぼす」
 二本の腕を、灰白色のマントの内側、腰の両側にやり、素早く得物を引き抜いた。再びマントから現れたテスの両手には、鍔のない二本の小さな半月刀が握られていた。
「滅ぼす? そんなことができるのは『言葉つかい』だけだ」
 キシャの声を聞きながら、テスは右足を後ろに引いた。化生に左半身を見せ、左手の半月刀の刃を右肩の上に、右手の半月刀の刃を左の脇腹にやる。
「おまえ、『言葉』は使えるの?」
「俺だって、昨日今日この世界に落ちてきたわけじゃない」
 黒い巨人が左右に揺らめく。不器用に歩き始めた。その厚い足が床に下ろされるたび、振動がテスの体に伝わる。
「へえ。じゃあいつ落ちて来た?」
「……先週」
 キシャが鼻で笑う。
「それは頼もしいこと」
 テスの唇が動く。彼は声に出さず、祈りの句を唱えた。
 天球よ。()()の者を滅するがさだめによる(ことわり)ならば、生によりて吾を慈しみたまえ。さだめになき悪逆ならば――。
 化生が示威行動を取った。短い足を大きく上げ、床に振り下ろす。振動で全身がぐらぐらした。テスは祈りをやめなかった。
 ――死によりて吾を慈しみたまえ。
 餌を前にした化生は、堪えきれず走りだした。距離が縮まってくる。圧倒されるほどの巨体だ。
「大気よ」今度は声に出し、唱えた。「我に暗雲散らす力を」
 風が渦巻いた。それはテスの足許で巻き起こり、たちまち頭までを包みこみ、化生とテスの間の見えざる障壁となった。テスが構えを解き、走り出す。
 彩喰いが腰を捩り、長い腕を巨体の後ろに回す。
 そして、テスの頭の高さで半円を描き、振り回した。
 テスが絨毯を蹴った。
 風が全身を包む。
 質量が消えたように、テスの体が軽々と空中に舞い踊った。浮かび上がった足の下で、化生の黒い腕が空を切る。円柱の一つに当たり、それをへし折った。轟音、そして粉塵と石片が舞う。
 テスの右足が、何もない空中を蹴った。
 大気が白く濁り、固体化して足場となった。
 浮き上がった石片を回避し、左側へ大きく飛んで、今度は左足で、壊れていない柱を蹴った。体が更に浮き上がる。粉塵の先のテスの姿を、キシャは目を細め、手ですかしてぼんやり見た。暗緑色の髪は、窓を染める光を浴びて、青に、紫に、黒に、輝きを変える。灰白色のマントがばさり、ばさりと翼のようにはためき、その合間に褐色のストールと、衣服の青い袖が見える。黄色く光を跳ね返す刃は、貪欲に獲物を漁る嘴のようだ。キシャには自在に宙を舞うテスの本性が見えた。書物を抱き、口にする。
「鳥」
 テスは既に、巨人の形をとる化生の頭と同じ高さにいた。真っ黒い頭がゆっくり動き、動きを追う。七色に変化する二つの光、目の位置にあるその光を、テスは正面から覗きこむ。
 無数の色彩が、光の中で揺れていた。森の色。湖の色。街の色。
 太陽の王国。
 夜の王国。
 夕闇の領域。
 暮れゆく王国。
 明けゆく王国。
 恐怖、悲嘆、全て。
 テスは強く空中を蹴った。大気が足場になる。巨人の眼前で両腕を広げた。腰を捻り、右手の半月刀を左の二の腕の外側にかざして体に回転を加える。そして、巨人の顔をめがけ振るった。肉を切り裂く手応えが、右手に伝わった。回転の勢いで、今度は左手の半月刀で同じ場所を斬った。
 傷口から、色のモザイクが噴きだした。色彩。無数の記憶。テスは左右の半月刀で容赦なく斬り刻みながら、幾つかの記憶を覗いた。水色の空。整然と並ぶ街路樹と、高い建物、町を貫くトラムの路線。これは太陽の王国だ。天球儀の白く輝く、藍色の空。三点鐘が零刻を告げる、これは夜の王国。
 兵士の記憶が見えた。夜の王国の、どこかの神殿だ。重装備の神官兵が、メイスを手に駆けてくる。鬨の声をあげ、振りかぶる。
 化生の混沌たる自我が、神官兵の人格を拡張し、己に投影した。色彩のモザイクを隠した口を大きく開け、吼えた。
 散る色彩が、巨人の右手に集まった。それは巨大なメイスに姿を変えた。金属製の鎚矛を持つ、本物だ。
 浮力が消え、テスの体が沈んでいく。間もなく自由落下が始まった。メイスが振り回された。すぐに空中を蹴り、浮く。メイスはテスの体の下で空振りし、もっと激しい破壊を大廊下にもたらした。二本の列柱を薙ぎ倒し、三本目の列柱に当たって止まる。
 空中で体を回転させ、ばさり、とマントの音をさせながら、テスは止まったメイスの持ち手に片膝をついて着地した。そして、再び蹴って飛び上がる。
 巨人の二の腕を蹴った。続けて大気を蹴り、肩に飛び移り、巨人の背後に飛び上がり、次に破壊されていない柱を蹴った。黒い巨人の頭より、高く高く舞い上がる。
 体を寝かせた。腰を捩り、体の前面を下向きに変える。腕を上げ、頭の上で両手首を交差させる。
 再びの自由落下。
 解き放つように、両腕を勢いよく振り下ろした。巨人の額に交差する傷が刻まれた。
 テスは巨人の頬を蹴り、その肩に着地した。
「言葉つかい」
 落とされたメイスの向こうで、キシャが話しかけてくる。
「そうやって、一人で戦ってきたのか」
 化生は普通の生き物とは違う。急所はない。ただ、急所だったところを庇おうとする習性は残っている。巨人は腰を曲げ、顔を両手で覆った。テスは肩から背中にひらりと飛び移りながら、右手で首の後ろを斬った。続けて左手。巨人は身を捩り、テスを振り落とした。テスは大気空を蹴り、空中で姿勢を立て直す。
 右手の半月刀を真っ黒い背中に突き立てた。
 一直線に斬り裂きながら床に向かう。赤と黄と、青と緑と、紫と橙と、白と黒と、あらゆる色のグラデーションが背中の傷から噴き出した。血のように。
「かつては、一緒に戦う仲間がいた」
 テスは巨人の腰を蹴り、その反動を利用して武器を引き抜いた。
「強くて、頼りになる……」
 瓦礫と化した円柱を挟んで、キシャの前に着地する。
「俺のことも、頼りにしてくれた……」
 身悶えている巨人の、足の甲を目掛け跳んだ。体の前で右手を振るい、足首を半円に斬りつけて足の甲に飛び移る。その足を、巨人が怒りをこめて振りあげた。すぐに右方向に飛び上がり、吹き飛ばされるのを避ける。大気を蹴り、舞い上がり、テスは眼前の敵を斬り刻み続けた。
 色のモザイクが降ってくる。その一つ一つに、食われた人間の記憶を宿して。腕に抱く赤子の記憶。青空の下、どこまでも広がる芝生で風船を売る老人と群がる子供たち。蝋燭の灯に照らされて、祈る老修道女。
 巨人の、真っ黒い長い腕が上がる。
 自由落下に切り替える。
 振り回された腕は、テスに掠りもしなかった。
 背中に与えた深い傷が、致命打となったようだ。巨人は顔を覆い、くぐもった呻きと咆哮を交互に放っている。両腕を振り回し始めた。
「そういう仲間が……」
 床に叩きつけられる直前に風を纏い、ふわりと着地した。
「いたことだけは、覚えてる……」
 キシャは瓦礫を避けて、側廊からテスのもとへと回りこんだ。巨人は大廊下の奥へ逃げていく。床に振動が起きたが、攻撃を加える前ほどの荒々しさはなかった。
 テスはそれを追い、砕けた柱を避けながら駆けだした。キシャがついて来る。
「キシャ……戦わないなら隠れたほうがいい」
 足は速いが、喋りかたはゆっくりしたままだ。キシャは同じくらいゆっくり答えた。
「いやだ。おまえと話したい。それに」
 遠くで、扉が破壊される音。
「化生はおまえしか狙わない」
 テスは横目でちらりとキシャを見た。何も言わなかった。
 大廊下の先は、吹き抜けの広間だった。広間の二階に出る。巨人は手すりを乗り越えて一階部分にいた。傷からは、色が、記憶が、漏れ出し続けている。その焦燥と痛みで我を忘れ、怒り狂っている。石の床を踏み鳴らし、両腕を振り回す。
 色が、褪せてきていた。
 テスは胸を覆うストールの下に、半月刀を握りしめたままの右手を入れた。紐の通された陶片が、首に掛けられていた。ストールの下から出した陶片に口づけ、助走もなく手すりに飛び乗る。手すりを強く蹴り、宙を舞う。空中で、体をくるりと回転させる。
「もう一度、仲間に会いたくはないのか?」
 頭上で交差させた両手の半月刀を振るい、巨人の頭頂を切りつける。巨人の肩に一度着地すると、すぐに飛び上がり、振り回される腕を避けた。テスは同じ個所、頭頂を斬り刻み続けた。巨人が走り、逃げ出すまで。広間の突き当たりまで、色を撒き散らしながら突進し、壁にぶつかると振り向いた。
 同じ勢いで、テスのいる場所へ突進をかけてきた。
 突進しながら、両手を組む。
 頭上高くに上げ、背中を仰け反らす。
 テスへと振り下ろした。キシャは表情を変えずに見守った。テスは素早く真横に飛びのいた。床を覆う石が捲れあがり、飛び散る。テスは壁と柱を三角に蹴り、二階部分に戻って来た。そして答えた。
「もう会えない」
 己の攻撃の勢いで跪く巨人の背へと、再度跳ぶ。
 背中の大きな裂傷に、深く右手の半月刀を刺しこむ。
 そして、唇だけを動かして、声にならぬ言葉を発した。
 大気よ。
 散らせ。
 テスの全身を、風が通り抜けた。髪が、衣服が、強くなびく。
 風は、巨人の体内へと、傷口から入りこんでいった。
「こんなことができるようになって、俺は人間じゃなくなってしまった」
 すぐに巨人の背を蹴り、後ろ向きに跳んだ。
 送りこんだ風が、巨人の体内で、激しく渦を巻いた。喰らい溜めこんだ色彩を巻き上げ、傷口から体外へと散らし、色彩の器たる体を切り裂いていく。
 テスは壁を蹴る。
 体を横にして跳び、右手の半月刀を左肩の後ろにやった。巨人が、吼えながら、苦しげに仰け反る。その剥きだしの喉を一直線に切り裂いた。
「もう一緒には戦えない」
 風が体を抱きとめる。反対側の壁にぶつかる直前で動きを止め、テスは床に着地した。
「変わってしまった姿を……」
 すぐに走っていき、足に激しく斬りつける。
「見られたくない……」
 巨人の体が二つに裂けた。テスはステップを踏むように、素早く後ろに跳びのいた。眼前にあったその足が、空中に引き上げられる。
「おまえは思い違いをしているね!」
 キシャが鋭く言い放つ。
「言語生命体は、そもそも人間じゃないよ」
 色彩が散る。血のように。裂け、形を変えた化生は、二羽の大きな鳥になっていた。キシャの呟きが、一階にいるテスに届いた。「おまえを真似たんだ」
 黒ずんだ二羽の巨鳥は、羽ばたきの音をさせながら、滑るように一階部分に下りて来た。空を裂き、壊れた扉の向こう側に、競うように逃げていく。
 テスは後を追った。やはり、キシャもついて来た。
「まだ戦うのか?」
 テラスに飛び出した。
 黄昏の光を拡散する霧の中を、二つの黒い影が飛び交う。
「ああ。一息にやらなければならない。あいつらは傷を自己修復できるから。あんなふうに……。そして人を襲う……」
 右の鳥が左になり、左の鳥が右になり、上に行き、下に行き、ぐるぐると螺旋を描きながら、広いテラスの上空から動かない。
「だから、やる」
 左足を踏みこむ。左手の半月刀を右腰の前にやり、手首を捻って刃を上向きにした。下から斬り上げる構えだ。右手の半月刀は、左肩の前で、同じく刃を上にして構える。
 鳥たちが、テラスに急降下を始めた。一羽が蹴爪を突きだして、まっすぐテスに襲いかかる。右に跳んで避けた。それを予期していたのか、もう一羽の鳥が、たちまち鋭い蹴爪つきの足でテスを捕らえようとした。
 床に倒れこみ、前転する。頭の真上で蹴爪が空を切る。素早く振り向き、足を片方切り落とす。記憶を閉じこめた色彩が、テラスの床に降り注ぎ、弾けた。日没。消えゆく太陽に手を伸ばす人々の黒い影。
 生体冷解凍技術研究所へ向かうシャトルバス。
 それに乗ることが許されず、怒り狂い、銃を手に襲い掛かる民間人たち。
 銃が実体化し、テラスに落ちて壊れた。素早く上空へ浮かび上がった鳥たちをよそに、銃が喋る。
『どうしてなんだ何が違う俺たちと奴らと見捨てられた俺たちと生きていいと言われた奴ら何が違う何が違う何が違う』
「こいつ、人間だった時のこと覚えてるよ!」
 鳥たちが再度、テラスに向かって来る。その着地地点を見定めて、テスは走り出した。
「キシャ――どうして、この世界はこれほどまでに壊れたんだ」
「飽きたから」
 一体の鳥の足がテラスの石床を削る。石つぶてを浴びながら、テスは着地直後の無防備な体を斬り上げ、続けて斬り刻む。
 黎明迫る世界。誰かが空の白むほうへと草原を駆けている。体を後ろから掴まれ、浮き上がる感触が体に伝わる。恐怖の悲鳴。
「千年の昼。千年の夜。人は不変の空を憎んだ」
 テスに斬り刻まれながら、鳥が甲高く叫んだ。それでもキシャの声は、頭に直接響くかのように聞こえた。
 やはり、彼女は人間ではないのだ。
「空の色を塗りたい。塗りたい塗りたい塗りたい塗りたい塗りたい」
 もう一体が上から来る。
 テスは床を蹴り、大気を蹴り、浮いた。
 上から来ていた鳥は、すぐに急上昇してテスから遠ざかる。
 テラスの床で斬り刻まれていた鳥は、翼を広げて飛び立とうとしていた。その頭を踏みつけ、風を纏う。
 高く跳ぶ。
 腰に回転を加え、飛んでいる鳥の頬を右の踵で強く蹴りつけた。すぐさま右手の半月刀を振りおろし、斬りつける。鳥の首を蹴って離れ、左足で大気を蹴る。ふわりと体が浮き上がり、鳥の背の真上に跳び上がった。そして、身に纏う風のイメージを変える。
 追い風。
「倦み飽きた世界は滅ぶ。それは、創造主ですら予期しなかった言語生命体の反逆」
 風の勢いを受け、テスは肩から鳥に体当たりをかけた。翼の間に激突する。鳥が悲鳴を上げ、落ちていく。一緒に落ちながら、テスは翼を斬り刻む。床に激突する寸前、鳥の背から飛び降りた。
 記憶が見える。
 黒い山の稜線に固定された太陽。黎明。一人の旅人が、太陽から身を隠そうと、黒い布を体に巻きつけて、平原のただ中の小さな家に逃げていく。黒い布で窓を覆われたその家。
 中では、化生が旅人を待ち構えている――。
「かつて、地球人も地球を破壊した。汚染。破壊。改造。汚染。破壊。改造。汚染。破壊。改造……」
 もう一体、既にぼろぼろで、鳥の輪郭が崩れかけた化生が、頭上から降ってくる。
 テスは床に伏せた。
「でもそれは必然だった。正常な進化と進歩の歴史の中で起きるべくして起きたこと。言語生命体たちがアースフィアに対してしたような、根源の否定に基くものではなかった」
 またもテスを捕らえ損ね、二体の鳥の化生は怒りの声を上げた。テスが攻撃をやめた隙に、もう一体が飛び上がる。
 二羽とも、修復が間に合わぬほどの傷を負っていた。だが、まだ飛んでいた。テスは片膝立ちで見上げる。
「しつこい――」
「言語生命体は、種として地球人に勝利していた」キシャは話し続けた。「己を卑しきもの、無価値なものとさだめることで、そのような『失敗作』を作りたもうた神の完全性を否定し、『神』すなわち『神になろうとした地球人』に勝利した」
 テスは両手の半月刀を逆手に持つ。
 二羽の鳥から目を逸らさずに、その柄頭をぶつけ合わせた。
 柄頭には連結器がついている。
 二本の半月刀は、一つの小さなブーメランになった。
「だけど! 誰もその勝利に気付かなかった! 勝利を認めようとしなかった! それはあまりに卑屈で惨めな勝利だから!」
 ブーメランを右手に携え、テラスを駆ける。
 飛び上がり、手すりを蹴った。
 旗を掲げるための二本の柱を三角に蹴り、柱の間の大気を蹴る。
 空を滑りながら奇声をあげる鳥たちよりも高く跳んだ。
 右手のブーメランを振りかぶり、背中にやる。そして鳥の一体に投げつけた。
 風をまとい、回転しながら飛んでいく。ブーメランは鳥の翼を片方、完全に斬り落とした。
 テスは更に大気を蹴る。
 頭と足が上下逆になる。
 腰の後ろに右手を回した。黒光りする物を取り出し、両手に握りしめる。
 銃だ。
 翼を失い、テラスの床に落ちた鳥めがけて乱射した。撃ちながら、足を大きく広げた。再び足が下に、頭が上になる。テスの意志によって、風の力を借りながら、ブーメランが下から戻ってくる。
 銃をホルスターに収め、右手でブーメランを捕まえた。
 まだ浮いているほうの鳥の背に飛び移る。
 そして、頭を斬り落とした。
 鳥は落ち、テラスの床にぶつかると、砕けて色のモザイクになった。全ての色が、終わらぬ黄昏に、吸いこまれるように飛んでいく。テスは着地し、左手にブーメランを持ち直すと、再び右手の銃を構えた。残った翼で力なく床を打つ鳥に、一発の銃弾を放つ。
 その一撃で、鳥の形をしていた化生は弾け飛んだ。色のモザイクとなり、片割れを追って空へと消えていく。
 テスは銃をしまい、ブーメランの連結器を外して二本の半月刀の状態に戻した。それも鞘にしまう。右手の甲で額を拭うと、テスの目から鋭さが消えた。
 キシャが歩み寄ってきた。
「それ、物理銃」書物を抱きながら、テスの腰の後ろのホルスターを凝視する。「『言葉』じゃなくて、鉄の弾を出すやつだ」
「純粋な物理銃じゃない」テスは首を横に振った。「弾がいくらでも出るから」
「便利」
「どうして俺を試した」
 金色の瞳がテスの目をまっすぐ見上げてきた。
「化生がいることを知ってたな。知ってて連れて来たんだろう」
「おまえの程度を知りたかった」キシャは悪びれもせず答えた。「それに、そろそろ誰かに退治させてもいい頃合いだった。おまえ、本当に一週間でその能力を? 大した言葉つかいだ」
「使える『言葉』はまだ大気だけだ……大気との同調の仕方はわかる。最初からわかってた。でも、どうしてわかるかわからない」
「それが資質ってもんだよ。それか……」
「それか?」
「かつて鳥だったことがあるか、だ。ヒトという言葉を得る前」
『誰だ』
 足許から男の声がした。素早く目を床に走らせて、声の主を探す。化生はもういないはずだった。
『誰だ、お前は』
 見つけた。
 蹴爪で抉られ、めくれあがった石床だ。
 石床は続けた。
『こいつを連れてきたのはお前か、キシャ』
「宿を借りたかった」代わりにテスが答えた。「でも、無理そうだな」
「別に勝手に借りればいい。ほら、こいつらは物質化しすぎてるだろ。化生にはなれない」
「やめておく」
 キシャが石を蹴る。何かが立ち去る気配がし、石は喋らなくなった。
「死んでしまった色彩たちは、色彩の地獄に落ちた。おまえが落とした。もういないよ」
「色彩の地獄って、どこだ?」
 キシャは黙って空を指した。
 頭上の空は黄色。湿原の果てに向かって赤くなる。
「世界の色彩が死ねば死ぬほど、空が赤く濃くなっていく。見ててごらん……いずれわかる。あと、今日は見えるな。ここからなら」
 白くほっそりした指が空をなぞる。その軌跡を辿って、テスは目を動かした。
 湿原の果てに見える稜線に目を凝らし、息を止めた。
 黒い渦が、空に丸くわだかまっている。
 闇。
 キシャが教え、絶望を与える。
「太陽だ」
 テスは無意識の内に、両手でマントの前を合わせた。身震いする。
「どうして……」
「堕ちたんだよ。この世界では、言葉が望むなら、太陽までもが堕落する」
「誰がそんなことを望んだんだ」
「おまえ、寒そうだね」
 テスは丸い闇から目が離せなかった。世界の陥穽。崩壊の象徴。虚無とは違っていた。どこか邪悪な気配がある。しかもその気配は、テスを見つめ返しているのだ。そして、質問への答えはなさそうだった。
 神殿を後にした。通りを行き、広場を過ぎ、村を囲む柵を越え、見張り塔の下で勢いよく振り向いた。
「どうしてまだついて来る」
「おまえが気に入ったから」
 キシャは右腕を広げた。
「それに、一人でいるのも飽きた」
 テスは困ったような顔をしたが、拒否はしなかった。
 二人は舗道を歩く。荒れた舗道。沼に出る。テスは気が付く。石となり、泥にまみれて岸に転がる鳥たち。その無音の嘆きに。
 誰が、または如何なる現象が、鳥たちにこの運命を与えただろう。テスは見る。鳥たちを。封じられた透明な霊を。悲しき霊を己の瞳のなかへ招き、飛ばす。視界に入る全ての鳥の魂を瞳に吸いこんで、空っぽの心に入れ、軽くしかし絶対の守護と拘束の扉を閉ざす。テスは心を閉ざす。閂をかけ、鍵をかける。暗き鍵。
 がしゃん。

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