あなたは誰?

文字数 6,216文字

 2.

 霧の向こうに感じられる黒さを、はじめ雨雲かと思った。沼から離れるにつれ、霧が薄れていった。道が分岐した。道しるべによれば、坂を右へ下る太い道は、遠くの港町に通じており、正面にまっすぐ続く細い道は、三十分も歩くと小さな村に出るらしい。
 葦原を抜けると、キシャが言う化生の姿が露わになった。それは霧の向こうに感じていた黒さそのもので、伏せた浅いボウルを浮かべたように、一つの村全体に覆い被さっていた。それは形が定まっておらず、つまりどのような形を取って、どのような攻撃を仕掛けてくるかわからない。聖堂で戦った化生とは比較にならないほど大きくて、テスは小さかった。だが化生は、今は自らが覆い被さる村に目を凝らしている様子で、テスとキシャには気付いていなかった。
「あんなに大きくなるものなのか……」
 テスは葦の陰に身を隠しながら言った。キシャが答える。
「熟練の言葉つかいが張った結界が生きてるよ。でも、ところどころ破れてるね。木の杭が道沿いに立ってるだろ」
 確かに、キシャの言う杭がテスの目にも見えたが、いくつかは折れて倒れており、何本もまとめて倒されてしまっている箇所もある。その箇所が『破れ』なのだろう。
「おまえ、あいつと戦える?」
「滅ぼすとなったら一人じゃ手に負えない。でも、結界の破れた場所を通るときに振り切るくらいなら」
 坂の下の窪地に収まる村は、まだ両腕で抱きこめそうなほど小さく見え、道は長く頼りなく思われた。それだけ化生もまだ遠く、テスたちには気付かない。結界の破れた箇所では走り、そうでない箇所では慎重に歩いて、身を隠す障害物のない道を、二人は進んだ。
 近付くほどに、化生の姿が次第にはっきり見えてくる。
 (あや)喰いであれば、喰った記憶の中から望む生き物の形をとる。だが、村に覆い被さって浮かぶそれは、どの生物でもなく、同時にどのような生き物でもあった。その黒さに目を凝らせば、馬のたてがみや鯨の髭、人髪のようなものが見え、更にあらゆる動物の目が、村に視線を注いでいるのまでわかった。離れていても見えるわけは、目だけは光を放っており、そして巨大だからだった。
 その目の一つがテスを見た。
 十を越す彩喰いの目が、一斉に動いた。折しもテスは、後ろにキシャを連れて、結界の破れた区間に入りこんだところだった。
「走ろう」
 マントの内側に手を入れ、腰の後ろから銃を抜いた。
 走り出したテス目がけて、黒い布のように、化生の体の一部が飛んできた。信じられない速さでみるみる迫ってくる。
 走りながら両手で銃を構え、撃った。弾の当たった箇所が蝙蝠のような、蛾のような、羽ばたく欠片に砕けた。そのすべてがテスへと飛んでくる。
 銃をしまい、二つの半月刀を抜いた。
「キシャ!」
「忘れたのか?」呼び声から気遣いの色を読み取って、キシャは冷静に応じた。「化生は私を襲わないよ」
 テスは羽ばたく化生たちの中に突っこみ、右手を振り下ろし、続けて左手を大きく横に払い、化生の群れを薙いだ。左腕を斜めに顔の前にかざして庇いながら、右足を踏みこみ、右手の半月刀を右から左に振るった。立て続けに左から右へと振り、更に足を踏みこんで左手の半月刀を斬り上げ、頭上で攻撃の隙を窺っていた化生を叩き落とす。
 視界から化生の黒さが消え、まっすぐ前が見えるようになった。結界を示す杭が、十歩の距離にあった。テスは振り返らずに、全力で、結界の内に駆けこんだ。杭には守護の文言が彫られていた。
「あれは本当に彩喰いか?」
 ゆっくりと化生の中を歩いて進み、結界に入りこんだキシャに、テスは尋ねた。
(かた)喰いに進化しかけているようだね。形喰いを見たことは?」
「まだ彩喰いしか見ていない」
「そう。まあ、それが一番ありふれているからな」
 分かたれた化生たちはテスを見失い、あたりを飛び回るが、結界で囲まれた道の中には入りこめなかった。羽ばたくすべての化生が、二人の頭上で再び黒い布のような形を取った。それで、手を伸ばせば届きそうなその高さが、結界の高さの上限だとわかった。次の結界までの距離は遠い。百歩はありそうだ。その結界の入り口までを隔てる道に、黒く、化生の体の一部が滴り落ちてきた。本体からちぎれ落ちたそれは、人間の形になりながら立ち上がる。十体。二十体。
 テスは半月刀の柄頭をあわせ、小型のブーメランにした。天球への祈りの句を唱えて武器に風をまとわせ、結界の内側から投げ放つ。十体近くの化生の胴を分断し、ブーメランはテスの手許に戻ってきた。続けて投げ放つ。
 ちぎれた化生は舗道を這い、道の真ん中で一つになろうとしていた。上からは、変わらず化生の体の一部が降り、人型になる。
「キリがないらいしぞ」
 キシャの言葉に頷きながらも、テスは更に攻撃を仕掛けた。
「動きは止められる」
 まだ人間の形をしているものを、テスのブーメランが更に切り刻む。
 戻ってきたそれが、木の杭に当たった。
 木っ端が散り、杭が傾いた。
 地面に深く刺さっていなかったのだ。
 テスがブーメランを取ると、杭はゆっくり倒れた。
 結界が壊れる。
「行こう」
 テスはブーメランを分解し、二つの半月刀に戻した。
 真っ黒い肉塊が降る道を、テスは次の結界へと急いだ。化生を相手にするつもりはなかった。
 だが、五、六体の人型の化生が、行く手に立ちはだかった。壁をなし、迫ってくる。その壁の奥にも、数え切れない化生が蠢いていた。背丈はみなテスと同じくらいだった。俺を模倣したんだ、と、テスは冷静に思った。
 舗道を蹴り、風をまとう。
 化生たちの頭上より、高く飛び上がった。
 空から絨毯ほどもある掌が下りてきて、テスを鷲掴みにしようとする。
 大気を蹴り、前方にかわした。くるりと体を丸めて回転させ、バランスを取る。後ろで、テスを取り逃がした掌が、拳の形となった。
 化生の群れの中に、円く空いた空間を見つけ、そこに着地した。視界に入るだけでも、既に五十体を越えている。それが一斉にテスに殺到し、円が狭まってくる。
 再び半月刀の柄頭をぶつけ合わせた。今度は少し乱暴な動作になった。左足を軸に、左方向へ体を回転させながら、ブーメランを後ろに投げた。銃を抜き、前に向き直る。そして、狙いもつけずに乱射した。威力は高いが反動の大きな銃だ。戻ってきたブーメランを掴んだとき、少しだけよろめいた。
 敵は減らない。仲間が倒れるのを見て逃げもせず、恐怖も抱かない。テスはただ、目の前の道を開くべく、すぐさま前方にブーメランを投げた。
 キシャの声が聞こえた気がした。
 頭上に化生の気配を感じた。
 大気の流れをイメージし、それに意識と体を乗せた。斜め前へと飛ぶ。
 空中で銃を撃ちながら、テスは地面に振り下ろされた黒い拳と、めくれて舞い上がる歩道の石、そして正体不明の光を見た。
 空を覆う化生、そこから伸びる拳を支える腕、その腕の向こうに、金色の輝きがある。
「あなたは誰?」
 少女の声が地上から聞こえた。
 聞き間違いかと思った。だが違った。分かたれて人の形となったすべての化生が動きを止めている。地上は静まり返っていた。
「キシャ?」
 静寂の中に、少女の絶叫がヒステリックに響いた。
「あなたは誰!!」
 マントの音を立て、地上に舞い下りた。銃を収め、ブーメランを拾い上げ、解体する。二本の半月刀で化生を斬り捨てながら、テスはキシャを探した。化生を斬ると、紙のような感触が手に伝わる。命の重みは感じない。化生に命はない。嫌な感触だ。
 キシャは本を抱えていなかった。
 空中の光を見上げる横顔から、先刻までの冷たい知性が消えていた。極限まで目を見開き、口を開け、恐怖のあまり呆然とした、ただの少女だった。テスは走りながら、少女と自分の間に立ちはだかる最後の一体の化生を斬った。障害物が消え、テスは右手の半月刀を右に振った姿勢のまま、大きな目でキシャを凝視した。
「俺はテス。お前は?」
 少女は恐怖の表情のまま答えた。
「あたしはキシャ」
 テスも空を見上げる。
「キシャ・ウィングボウ」
 そして、空中の光こそが、少女の抱えていた本だと理解した。眩しくて見極められなくても、直観でそうわかった。
「あたしは知ってた。言語生命体の正体を知ってた。生き延びる術も知ってた」
「キシャ、どうしたんだ?」
「あの陰険なアーチャー家でもない。偽善者どものライトアロー家でもない。あたしが、キシャ・ウィングボウが知ってた!」
 大きく息を吸い、胸が動いた。このとき初めてテスは、この少女が生きていることを、少なくとも今は人間であることを、知った。
 キシャは叫んだ。
「残るべきは射手の家でもなかった! 矢の家でもなかった! 弓の家よ! ウィングボウ家が残るべきだったのよ!」
 一際強い光に目を射られ、テスは目を閉じて俯いた。身構える。顔の前に腕をかざし、目をきつく閉ざしても、光は目に届いた。キシャが失明するのではないかとテスは心配した。光は十秒とせず消えた。薄く目を開けると、少女の体がゆっくり前後によろめいていた。すかさず右腕を伸ばし、少女を胸に抱えこんだ。
 少女は意識を失っており、化生は消えていた。腕も、拳も、人の形をしたものもなく、空を覆う化生は消えていないものの、凍りついている。
 テスは武器を鞘に納め、両腕で少女を横抱きにした。結界の中に駆けこむと、思い出したように、空の化生が蠢き始めた。
「キシャ、キシャ」
 テスは結界の中で両膝をつき、少女を揺さぶった。少女は顔をしかめ、呻いたが、目を覚ましそうにない。
「キシャ、どうして書物じゃなくなった?」書物を探すが、どこにも落ちていなければ、浮いてもいなかった。「十六歳の少女のお前より、八百年生きた書物のお前のほうが強いだろうに……」
 だが、言っても仕方がないことで、それに助けられたことも確かだった。テスは少女を背負い、村へと歩き始めた。そこにまだ人間の形をした人間がいて、助けてくれることに賭けた。
 歩き始めてすぐ、少女が背中で呻いた。身じろぎし、テスの肩に預けていた顎を離す。
「起きたか」テスは目覚めたばかりの少女に、驚かさぬよう優しく話しかけた。「大丈夫か?」
 だが、返ってきた声はひどく驚きに満ちていた。
「誰?」
 やはり、出会ったときのキシャではない。あの書物、『亡国記』は消えたのだ。
「キシャ、思い出せるか? 俺はテス。沼の向こうの町で……」
「あたし、キシャなんて名前じゃないわよ!」
 テスの肩を強く押して、少女はテスの背から飛び降りた。もしテスが、彼女の膝の後ろに通した腕を放すのが遅れたら、彼女は上半身を舗道に叩きつけていたことだろう。
「誰よ、人の体にべたべたさわって! 誰なのよ! えっ? あたしをどうするつもりだったのよ!?」
「キシャ、落ち着いて聞いて――」
「キシャじゃないって言ってるでしょ! 頭のおかしいスケベ野郎!」
 金切り声で罵ると、少女は長いスカートを翻して、村へと駆けていった。

 ※

 テスが村に着くと、村の入り口に大人たちが集まっており、騒然としていた。男の一人が舗道を歩いてくるテスを見て、大声で人混みの奥へと呼ばわった。
「アミルダ!」
 村を囲む柵には、舗道を挟みこむように二本の柱が立っており、それが門の代わりだった。テスは門をくぐった所で立ち止まった。敵意に満ちた視線に迎えられ、つい後ずさりしたくなり、それに耐えた。
 二つに割れた人だかりの間を、キシャだった少女が小走りでやって来た。アミルダという名らしい。彼女にそう呼びかけた男が、テスから目を逸らさず少女に尋ねた。
「あいつか?」
 少女は頷いた。
「あいつよ、人さらい!」
「人さらいなんかじゃない」
 テスは憎悪の視線に抗うように、声の調子を少しだけ強くしたが、それでもまだ十分に控えめで、おとなしい声だった。それから、村人たちを納得させられる言い方を考え、いつも通りゆっくり喋った。
「沼のほとりで倒れてたから、保護したんだ」
「嘘つきやがるぜ、ふてぶてしい」太く逞しい腕をした男が、威嚇をこめて舌打ちした。
「アミルダは二ヶ月前に姿を消した。あの馬鹿でかい化生がいて、二ヶ月も沼のほとりで生きてられるわけないだろう」
「沼の反対側で見つけたんだ。反対側の町」
「なんであんな所に」
 別の男が鼻で笑う。その男も、他の男たち同様かなり鍛えられた体つきをしていた。肉体労働による鍛えられかただ。季節によっては、海に出て漁師をしているのかもしれない、とテスは想像した。
「あそこには滅んだ町しかない。そんな所にこいつが一人でいたって?」
「事情は俺も知らない」いずれにしろ、食事と宿は求められそうになかった。「でも、俺のことが気に入らないのなら、出ていく」
「待てよ。何さっさと逃げようとしてやがる」
 テスを取り囲む半円が狭まった。両側から男たちの腕が伸びてきた。乱暴に取り押さえられる前に、テスは地面を蹴った。風の力を得て飛び上がり、門の上に渡された横木に着地して見下ろすと、門の前に集まる三十人ほどの男女が、あんぐりと口を開けてテスを見上げた。
 横木の上からは、村の様子が見渡せた。戸外に出ている人間は百人ほど。小さな村だからこそ、アミルダのような若い女は大切にされているのだろう。そして、空には化生が黒く多い被さり、空を遮っていた。暮れの空の黄色い光芒は、化生の巨躯の及ばぬところから、霧に乗って漂ってくるかのようだった。
 取りあえずの安全を確保したテスは、もう一度説得を試みた。
「人さらいは、さらった相手を返しにきたりしない」
 だが、その件について彼らはもはやどうでもいい様子だった。
「お前、言葉つかいか?」
 誰かが尋ねた。
「ああ」
 たちまち驚愕に満ちたざわめきが湧いた。それは次の一言で鎮まった。
「外の化生はどうにかできるか?」
「あれは大きすぎる。俺一人ではどうにもならない。別の言葉つかいが、もっとたくさん要る」
「港町から言葉つかいが結界の修復に来るんだ」
 つい先ほどテスを捕まえようとした男が、大声を出した。
「いつ?」
「明日。だが作業してもらうところは結界が破れてて危険なんだ」
 囮になれと要求するつもりだろう。
 テスは待った。
「だからその、手伝ってほしいんだ。さっきは悪かった。俺たちは本当に困ってるんだよ」
「……俺を拘束したり、武器を取り上げたりしないか?」
 代表格らしいその男は、しばらく黙ってから答えた。
「しない。約束する」
 テスは横木から飛び降りた。着地の直前、足許に大気のクッションを作る。地面から頭一つ分の高さで静止し、爪先からゆっくり着地した。
 アミルダだけが、面白くなさそうにまだテスを睨んでいた。
 テスは石造りの小屋に案内された。その小屋の中には、とても出入りなどできそうにない小さな窓があり、テスが入ると、外から鍵がかけられて、鎖の巻かれる音がした。
「なるほど」確かにテスは手足を拘束されず、武器も取り上げられなかった。「……なるほど」


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