世界を引き裂く

文字数 5,226文字

 1.

 破滅へと滑り落ちる空が、剥がれ地に注いだ。それは音を立てず、それは見えなかった。だが人々は気付いた。
 加減弁に手を添える運転士は、買い物に行くと言って家を出て、二度と戻らなかった姉の、最後の後ろ姿を線路上に幻視して、ブレーキを引きそうになった。そして、姉がもうこの世の人でなく、川岸に揃えられた靴、川中の二つの岩の間に浮かび揺らめく長い黒髪、それを見つけたのが他ならぬ自分であったことを思い出し、ブレーキ弁を握る手の力を、躊躇いながら緩めた。
 ボイラーに石炭を投じる火夫は、スコップで石炭を掬ったとき、その石炭の山の中に自死した同僚の顔を不意に見て、その同僚が線路に身を投じる際にこの世に最期に投げた視線を、己の瞳で受け止めた。
 客からの評判がめっぽう良い若く親切な車掌は、制帽を正して顔を上げ、夕日を映す鏡の中に、愛想笑いをしながら涙を流す、己の痩せた顔を見た。
 サロンの窓際の座席を占領する老人たちのすべてのグループに、一斉に会話の切れ目が訪れた。
 木と紙でできた飛行船のおもちゃを掲げて駆け回る子供は、何か大いなる存在に呼ばれたごとく立ち止まった。
 食堂車から口を拭きながら歩いてきた中年の夫婦は、サロンに入った途端、窓の外に驚くべきものを一瞬見た気がして硬直した。
 テスは三等客室にいた。左右の壁際に二段ベッドが三列並ぶ、十二人眠れる客室で、テスは入って右側の窓際のベッドの下段に座っていた。何かを考えるでもなく、また思うでもなく、未だ疼き寝入りばなに火の痛みを放つ体じゅうの傷が癒えるのを、息詰めて待っていた。そして感じた。空虚な脳と精神に霊感の水が滴り落ち、その波紋が迫る破滅を知らしめるのを感知した。客車の真上で、赤い空が波打ち滝のように流れ落ちるのを見た。見えるはずのない場所で起きた出来事を、それでも見た。
 テスは精神の目を上げて、揺らぐ空、夕闇、色彩の地獄、その向こうにあるものを見極めようとした。だが、客室の天井が見えただけだった。どのようにしてついたのかわからないが、血しぶきのように油染みが散っていて、もしかしてそれは本当に血しぶきで、昔かまたは最近か、このベッドの上段で、人が殺されたのかもしれなかった。赤銅の電気傘の上で蜘蛛が巣を張っていて、埃のように小さな蛾を抱え、愛するように食べていた。
 枕の横に並べておいた灰白色のマントを手に取り、肩に掛けていた毛布を脱いだ。毛布の代わりにマントを羽織り、テスは客室を出た。三等客室から通路に出、右手に窓を見、左手に三等客室の戸、通路、三等客室、また三等客室の戸を見、それから二等・三等客室共用の食堂車を通り抜け、通路、そして最後尾の車両となる二等・三等客室室共用のサロンの戸の前にたどり着き、戸を細く開けた。
 サロンには賑わいが戻っていた。この人たちは誰も、何も気付かなかったのだろうか、とテスは思った。途端にテスの恐れる単語が耳に飛び込んできた。
『新生アースフィア』
 動きを止めたテスは、細く開いた戸の陰に身を隠し、聞き耳を立てる形となった。
 扉にほど近い席の男が別の乗客と話している。
「でももう、結局、いいんですよ。意味ないんですよ、もう」
 男の口調は投げやりだが、無理に朗らかさを保とうとしていた。
 別の男性の旅客が言葉を返す。
「ですがあなた、党の執行部にまでなって……」
「妻の仇討ちはしました。それでいいんです。本当はそれで満足して党から身を引かなければならなかったんだ。でももう、党も腐ってしまって……もう関係ないんですよ。抜けましたし」
 それを聞き、テスはサロンに入っていった。
 新生アースフィア党を抜けたという男は、三十前後の、しかし妙に雰囲気だけは老け込んだ、中身のない笑顔を顔に張り付けた男で、隣に七つか八つの女の子がいた。女の子は男にもたれて口を開けて眠っていたが、テスがサロンに入ると目を覚まし、目をこすりながら父親から体を離した。
「パパ、トイレ」
 男は向かいの旅客と話している最中だった。
「それで、あなたはこれからどちらに行かれるのです?」
「化生から人を守るための私設の警邏隊が、北部で興り始めてると聞きましてね。悪質な言葉つかいを狩る、協会を抜けた言葉つかいも協力していると聞きました。傭兵団みたいなものもあると。私はそっちの道で生きていきますよ。ん?」と、ようやく娘を見た。「トイレ? 行っといで」
 テスとすれ違い、娘は通路へ出ていった。テスはサロンの突き当たりまで歩いていった。サロンの一番奥の座席では、中年の夫婦と、それと同年代に見えるもう一組の夫婦、そして小さい男の子がいた。二組の夫婦はワインを開けており、子供の前にはジュースが置かれているのだが、子供はジュースよりも膝に載せた船のおもちゃに夢中だった。
「もうねぇ、本当に男の子ってば手がかかって……」
 サロンの奥は、オープンデッキに通じる二重扉になっている。二組の夫婦の会話を聞くともなしに聞きながら、テスは内扉を通った。風や機関車の煙がサロンに入らぬよう、それをきちんと閉め切ってから外扉を開ける。
 体感気温がぐっと下がった。裂かれた大気がテスの両脇で唸りをあげている。赤い大地、黒い線路、なだらかな山々が、後ろ向きに遠ざかっていく。
 そして、飛ぶ鳥の影一つない空は、剥がれても、揺らいでも、波打ってもいなかった。テスは夕闇に顔を染めながら、赤い空をぼんやり見た。そうすれば本当の色が見える気がした。夕闇の奥に青空が潜んでいるのではないか。何か潜むものはないか。だが、善きものは何も感じ取れず、空はただテスの凝視を受けて、気怠げな、胡散臭そうな気配を送り返すだけだった。
 空は、旅を始めた頃より色味を増していた。
『世界の色彩が死ねば死ぬほど、空が赤く濃くなっていく』かつてキシャはそう言った。『見ててごらん……』
 追い抜かれていく大気、追い抜かれていく石ころ、果てなく続く線路。機関車の先頭で噴き上がり、風に散らされ臭いのみによって存在感を示す煙。そうしたものが急に堪らなく感じられ、テスは寒さに震えた。人恋しくなって、サロンに戻ろうとした。
 外側の扉を開けて暖気に身を浸したテスは、内側の扉に手をかけた直後、女性の険しい声に動きを止めた。
「もうそんな話を聞きたくないって言ってるのがわからないんですか!」
 オープンデッキに出る扉の近くにいたのは、二組の中年の夫婦だったはずだ。内扉には窓がついておらず、中の様子は見えないが、甲高い声で捲し立てているのは二組の内のどちらかの主婦だろうと思われた。
「何なんですか? 嫌味ですか? 当てこすりですか? 自慢なの?」
「ごめんなさいね、あなた。そんなつもりじゃあ……」
「白々しい。もういい加減にしてください! 私たちに子供ができなかったって言った途端に自分の子供、子供、子供の話ばかり――」
 涙声になり、男性が小声でたしなめる声が僅かに聞こえたが、すぐ身も世もない泣き声にかき消された。
 テスの胸に恐ろしい予感が走り抜けた。予感は白い霧のように不安と嫌悪を残した。
 内扉から手を離した。
 すると、向こう側から内扉が開けられた。
 小さな女の子が姿を見せた。新生アースフィア党の執行部員だったという男が連れていた少女だった。
 少女は無表情でテスを見上げた。
 眼力が異様に強いせいで、睨んでいるように見える。
 その顔を、外扉についた窓から差し込む夕日が染めあげた。
 少女は胸に、革表紙の大判の書物を抱いていた。
『亡国記』
「キシャ」
「何をしてる?」
 キシャは外扉と内扉の間の短い通路に入ってきて、内扉を閉めた。内扉が、外扉の窓の形に四角く色付いた。その四角形の中に、テスの真っ黒い影が映った。
 二人は無言で向き合った。
 キシャのほうから口を開いた。
「今度はどこへ、何に巻き込まれに行くつもりだ?」
 幼い声で発される残酷な問いに、テスは首を横に振ってから、唇を開いた。
「何も俺を巻き込まずにおいてくれる場所まで」
「おまえを巻き込みたいものは、どこまでも追ってくるぞ。おまえは既に歯車に巻き込まれた布みたいなものだ。ほら」右手の指で空中に何度も円を描き、歯車の回る動作を示した。カチリ、カチリという空耳が聞こえた。「引き寄せられて、巻き込まれて、好き勝手ズタボロにされるんだ。ここまで生き延びられたのは幸いだったな。傷は残っているようだが」
「新生アースフィアの人たちは、ひどく言葉つかいを憎んでた」
 その理由、惨い殺戮を、三日前に目にしたばかりだった。
「ああ、そう。仕方ないね」キシャは素っ気なく応じた。「言葉つかいこそが言葉喰い、空と大地を消失させるものだと奴らは信じてるから」
「キシャ、なあ……」テスは、先ほど胸に鋭く光った予感を打ち明けてよいものか、躊躇した。だがキシャの無情な注視を受け、その躊躇を捨てた。「この世界で、町でも、村でも、通り過ぎて出会ってきた人たちは、みんな殺伐としていた。余裕がなくて、何かがおかしくて……」
 キシャは無言のままでいた。
「……それは俺のせいだろうか?」
「何故?」
「俺が近くにいるときだけそうで、俺がいなければそうじゃないんじゃないかと……」内扉に目を動かした。黒く映るテスの横顔の、唇が動いていた。「このサロンに二組の夫婦がいた。俺がサロンに入るまではふつうに話をしてた。だけど俺が通りかかった後、喧嘩を始めたんだ」
「そんなのが自分のせいだって?」
 キシャの両目にようやく感情が浮かんだ。それは呆れだった。彼女は借り物の幼い体で鼻を鳴らし、書物を抱いたまま肩を竦めた。
「もっとよく思い出せ。変わらなかった奴もいるだろう」
 死者の町で再会し、別れたオルゴの、人好きのする笑顔が思い出された。テスは納得し、安堵と共に、何故か微かな落胆を覚えた。
「……ああ」
「でも、本当に無関係かな」どれほど本気かわからない口調で、キシャは続けた。「何せおまえは言葉つかい。著しく変質させる者だ」
「キシャ」
「来るぞ」
 冷静な口調で遮られ、テスは口をつぐんだ。内扉の向こうから、新生アースフィアを抜けた男の声が聞こえた。
「サイア?」娘を探しているのだ。「サイア、どこだ?」
 そのサイアはキシャの容れものとして、テスの前に立っている。
 彼女は告げた。
「気をつけろ」
 何か黒いものが、無意識に高く上げた感受性のアンテナに引っかかった。音がしたわけでも、影が動いたわけでもなかった。だがテスは、それが来る方向を正しく見た。
 外扉の窓の向こう、オープンデッキの向こう、黒い線路、死して横たわる荒野の向こう、置き去りにされて遠ざかりつつある峻険な山々の二つの峰の間に、黒く立ち上る影があった。
 影は峰と峰の間の谷間に水のように広がった。そのまま迸り、木のない山頂、葉のない木々の生い茂る中腹、紅葉した木が染め上げる裾野へと流れ落ちた。
 機関車が急激に加速した。非常を告げるベルが扉一枚隔てた先のサロンに鳴りわたった。どの車両でも鳴らされているに違いなかった。さりとて何ができる?
「サイア!」
 男が叫んでいる。別の声が窘めた。
「行きましょう、ジュンハさん。客室に戻っているかもしれない」
 山を覆い尽くした黒い影は、地平線の向こうに見えなくなった。だが、見えないから驚異ではないなどと考えるつもりはなかった。テスは外扉を開け放った。乾いた風と土埃、そして黒煙の臭いが通路に入ってきた。
 オープンデッキに飛び出しても、それはまだ視界の外にいた。
「待て」デッキの手すりに足をかけ、客車の上に飛び上がろうとするテスの腕をキシャが引っ張った。「私も運べ」
 テスはキシャを両腕に抱えて手すりを蹴り、屋根のないオープンデッキから、緩やかなアーチ型をした客車の黒い屋根へ跳んだ。
 機関車の先頭では、噴きあがる煙が横風を受けて左へなびいていた。キシャをおろし、振り返ると、地平線に再び影が見えた。
 それは黒く平たく大地に広がり、海のように迫ってきた。線路はもちろん、言葉つかいが建てた結界の柱さえ、その黒さがひとたび触れれば腐ったようにくずおれていく。
 それは急いでいるような気配を発してはいなかったが、この機関車よりずっと速かった。地平線の端にあったそれは、既に地平線とこの機関車との距離のちょうど中間あたりまで来ていた。
「あれは……」テスは無意識のうちに大気を操作して、客車の上の無風空間にキシャと一緒に立ちながら、ようやく言葉を発した。「あれは何だ?」
「ようやくお目もじかなったわけだ」キシャは全く、ありがたくも何でもなさそうに答えた。「(かた)喰いだよ」


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