海の教会

文字数 1,615文字

 1.

 テスが想い、世界は波打つ。テスは波止場に立つ。世界の果てから押し寄せた波が岸壁にぶつかり旅を終え、最後の力で汚れた手を伸ばし、岸を掴み、這い上がろうとする。だが全ての波が岸壁の高さに試みを砕かれ、散り散りの飛沫を黒い海に沈める。引きずられるように岸から離れていき、新たに寄せくる波にぶつかり、岸へと押し返されて、また岸壁に打ちつけられる。
 その間テスは、風雨とさまざまな人の足にさらされてできた、岸壁の石畳の様々な凹凸を足の裏に感じ続ける。岸壁にこびりつくフジツボと、赤紫の海藻と、濃緑の苔を目に焼き付ける。水面を泳ぐ黒い魚の、ほっそりした体つきと、頭をほとんど動かさず、尾鰭を左右に振って泳ぐ動きに集中する。いつでも再現できるように。いつかまた言葉つかいとの戦いが行われるとき、頭の中から鮮明なまま取り出して、いつでも、今ここにあるように、世界に投射できるように。
 テスは体に風を受ける。海のにおい、海につきもののあらゆる死のにおいに紛れて故郷の香りが紛れていないものかと、その悪臭を吸いこむ。潮と腐臭で胸を満たす。新たな客船の煙が、水平線の果てに現れる。
 海と船に背を向けて、港の階段を上がった。街。テスは全てに目を凝らす。鍛冶屋の黒い鉄の看板が、風に煽られ子供のぶらんこのように揺れている。ナッツと香辛料を売る店先の商品には、今は麻布の覆いがかかっている。麻布の目地に砂が詰まっている。テスは歩きながら手を伸ばし、そのざらつきを覚える。麻布から離れまいとする砂粒の意志を覚える。あらゆるものが安定と固着を望んでいる。永遠に傾いたままの太陽が、世界のあらゆる影を同じ角度で大地に焼きつけたように。
 そして、海の男たちの教会堂に上れば、街の全ての建物が一様に同じ高さで潰れているのがわかる。釣り鐘の下で、テスは街を一望した。四階建てより高い建物はないように思われた。かつてそれより高かったであろう建物は、屋上に大量の瓦礫を乗せ、かつて不可思議な力がその建物を圧縮し、本来の高さを奪ったことを証明している。
 テスは首をかしげた。そして海を向いた。押し潰された建物たちに背を向け空を仰ぐ。
 心なしか、夕闇が赤く濃くなっているよう思われた。テスは記憶から青空を浚う。彩喰いが食った青空の記憶を、己のものとして思い出す。夢に現れた青空が、液状のものとしてテスを訪れたように、そのイメージを林檎ほどの球体にまとめ、視線の力で夕空に投げ放つ。
 水色の色彩が、黄昏の色を映して空を覆う雲にぶつかり、弾けた。テスは弾けた青空を四角く拡張する。テスは心の鍵を開く。誰にも見られず、誰にも踏みこまれることなく閂を外し、守護と拘束の扉を開く。鳥たちを解き放つ。鳥たちはテスの瞳を通り抜け、テスの視線の力に乗って青空へ羽ばたいていく。
 すべての鳥がテスから遠ざかり、風を喜んで海の上で輪を描き、以降無駄な動きは一切せずに狭い青空を目指す。その先により良い場所があるとの確信を、群れ全体で表現する。
 テスには何も残らない。彼には透き通る鳥の亡霊たちを見守る以外手だてはない。手を伸ばす。体が思考を先回る。気付けばテスは、釣り鐘塔の柱に左手をつけ、右腕を目いっぱい空に伸ばしている。
 口を開くが言葉はない。
 共に行きたいとテスは願っている。飛んでいきたいと。だが、ぴんと伸びた指先は力を失くしていく。テスの目が失意に(かげ)る。青空は全ての鳥を吸いこみ蒸発する。港の様子に変化はない。テスはうなだれそうになりながら、堪えて夕空を見上げ続け、一つの決意を胸に固める。
 いつかああして空を飛ぼう。過去を失い、悲しむための心、失望するための心も失くして、己の本性を這いつくばって探そう。干潮のタールの海に光る真珠を拾い歩くように、真の自己と見なせるものをかき集めよう。
 そして、いつの日か、その力で空を目指そう、と。


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