海上の決闘

文字数 7,916文字

 2.

 一眠りしたのち、テスは同室の客を起こさぬよう静かに身支度を整えた。丹念に手入れした武器で武装し、温かいマントとストールを纏って客室を後にした。黄色と灰色のまだらになった雲の下に出る。第一甲板にはまだ誰の姿もなかった。
 テスは観測用の甲板に上り、そこから第一甲板を見下ろして、人が現れるのを待った。船内の全ての時計が一斉に零刻を告げ、ほどなくして中年の言葉つかいの男と、取り巻きたちが現れた。無人の観測甲板で身を屈めるテスの視界の下で、彼らはぶつくさ言いながらテスを待った。テスは立てた膝の片方に顎を乗せ、彼らの様子を観察した。二、三十分の間、彼らはある種の従順さでもってテスを待ち続けた。
「対策は考えてきたか?」
 いきなり真横から女の声がした。驚いて左横に顔を向けると、そこにキシャ、書物を抱えた赤毛の痩せぎすの女が立っていた。テスは第一甲板の男たちに聞こえぬよう、小声で尋ねた。
「今、どうやってここに現れた?」
「おまえが知らなくてもいい方法さ」
 テスの左隣に座り、キシャもまた小さな声で話した。
「で、対策は?」
「今考えてる」
「今からか。もう約束の時間だろう」
「あいつらは『明日、零刻をすぎたら第一甲板に来い』としか言わなかった。じゃあ別に今日の二十三時五十九分に行ってもいいわけだ」
「おまえよくもいけしゃあしゃあと……」
 第一甲板で、言葉つかいが怒りも露わに「遅い!」と叫んだ。
「忘れているかもしれないが、この船は今日、目的地の大陸にたどり着く。二十三時五十九分まで待つくらいなら、陸に着いたら跳んで船から逃げたらどうだ?」
「ああ、それもいいな……」
「おまえって結構……」
 初めて、キシャが言葉を濁した。
「何だ?」
「……言うだけ野暮だ」
 それから更に五分も待つと、言葉つかいの男はいよいよ痺れを切らし、命じた。
「もう待てん! 探しに行け、お前ら。全部の二等客室と、ベッドの下と、物入れと、いいか、隠れられそうな場所は全部探せ! 便所もだ!」
 無駄なのに、とテスは思ったが、口には出さなかった。代わりにキシャに話しかけた。
「あいつらは昨日、認定資格もないのに力を使うなって言った。これは、たとえ目の前で人が化生に喰われそうになってても、助けるなという意味だろうか」
「そうだろうな」
「どうして」
「一つは、勝手に化生を退治されては儲けが減ること」
 キシャの冷徹な言葉に、テスはうら寂しい気分になった。
「そして一つは、言葉つかいがそれほど危険な存在だってことだな」
「危険?」
「言葉つかいは人間を救う英雄などではない。自分の感覚、自分の言葉、自分の主観、そうしたものに他人を巻きこむ力の恐ろしさは、役立つことを遙かに凌ぐ」
「よくわからない」
「悪用しようという気がおまえにないのなら、まあわからんかも知れないな。言葉は人間を作る……例えばだ。拒絶と否定の言葉を浴びせられて育った人間がいる。そいつの心の中には恨み憎む言葉が常に渦巻いている。そしてそいつは無意識のうちに、自分のことを拒絶し否定する人間ばかりと付き合うようになるだろう。その環境から出ていく力がないからだ。かたや、愛され思いやられて大切に育てられた人間がいる。そいつの心の中には温かく優しい言葉が常に渦巻いている。そして、その環境から出ていく必要がないから、自分を愛し思いやってくれる人間たちと付き合う。言葉が違うというのは環境が違うということだ。そしてある日両者が出会い、ちょっとしたトラブルが起きる。肩がぶつかったとか、足を踏んでしまったとか、何でもいい。両者は言葉が通じない。言語が同じでも、言葉が違うんだ。痛い目を見るのはどっちだと思う?」
「後者だ。前者はそういう時、暴力を振るうのを恐れないから」
「その暴力が、言葉つかいの言葉だよ」キシャは頷いた。「前者は後者にけがを負わせ、殺すかもしれない。その時、愛情や思いやりに満ちた優しい世界に生きている者たちは、憎しみ、怒り、恐怖、不安を知り、巻きこまれる。感覚、主観、ものの考えかた、価値観、そうした自分の世界を壊されて、他人の悪意の世界に巻きこまれるんだ。ありがちな不幸だよ。それを拡大したものが、普通の人間と言葉つかいの出会いだと考えろ」
「俺は誰かの感覚や世界を壊しただろうか」
「おまえ、初めて大気の力を操れると気付いたとき、どう思った? 本来であればあり得ない動作が可能になったときは? もし、自分が普通の人間で、他人があり得ない高さまで飛び跳ねたりしたら、どう思う? そいつが助けてくれたとして、素直に感謝する以上に、怖いと思うはずだ」
 テスは、通りがかりの村で浴びせられた視線や敵意に満ちた言葉を思い出し、キシャから目をそらした。
 彼らは恐がっていたのだ。テスを侮蔑することで、自分より下の、無力で無害な存在だと無理矢理に納得しようとしていた。そうせずにはいられなかったのだ。
 気付けなかった。気付けなかったばかりに、見捨てて来てしまった。
「……さて、そういうことを理解して、おまえは今後どうする?」
 それでも、目の前で人が化生に食われそうになっていたら、助けずにはいられないだろう。テスは正直にそう答えた。
「だったら、自分の信念でそうするんだな。なに、この先の大陸には(かた)喰いも出る。おまえが力を使う機会も、その結果を知る機会もあるはずだ」
「形喰いって、どういう奴なんだ? 前に、形あるものは何でも食うって言ってたな」
「そのまんまさ、どうもこうもない。でもね、あいつらは大地だけは食べないよ。自分の立つ場所だからね。大地なしには存在できない。後はまあ、空も食わん」
 最後は冗談で言ったのだろう。
「じゃあ、(こと)喰いは?」
「全てを喰う存在。天も地も。無さえも食らうと言われている。だが、言喰いに会った者はもちろんいない。会ったら最後だからね。被害にあった事例はないし、あくまで論理的にはいるはずのもの、という存在だ」
「大地や空まで食う……そんなことをされたら、世界はどうなるのだろう」
「食われた大地や空、という状態を認知できる者の前に、言喰いは現れる。おまえが言ったとおりだ。認知なくして観測はあり得ない」
「存在と観測が逆転している。『在るものだから観測できる』んじゃないんだな。『観測できるようになったとき、それは在る』んだ」
「そうさ。言喰いにはすでに存在するという仮説が与えられ、『言喰い』という名が与えられた。あとは認知する方法と観測者が必要なだけだ」
「全てが食われるのか。それが観測されて、それが『在る』ものとなったら」
 テスは自分の言葉の恐ろしさと寒さに身震いした。
「人は言葉を作るし、言葉は人を作る」
 キシャは喋りながら、マントの前を合わせるテスの動作を凝視した。
「人間は言葉を蝕み、言葉は人間を蝕む。互いにそういう関係だ。おまえ、蝕むことや食うことはね、決して消費して失わせるということじゃないよ。取りこみ、著しく変質させて、自分自身にするということだ。この点を間違えるな。さあ、その上で、言喰いとは何か考えてみろ」
 テスはキシャの目を見つめ返し、その視線の圧力を受け止めながら、二度ゆっくり瞬きした。一度首をかしげ、またゆっくり瞬いた。
 それから不意に早口になった。といっても、テスの早口は、人が話す平均的な速度と同じ早さだったが。
「俺は大地を消失させる者を知っている、キシャ。ついこの間、それを見た。見させられた。あの沼で」
 その反応を面白がるように、キシャが目を細めた。テスは体を強ばらせながら、反応を待った。キシャは何も言わなかった。
「キシャ、お前――」
 大気が嫌悪で身をよじるのを、テスは肌で感じた。
 下で、何かが起きている。第一甲板を見下ろした。大気が嫌う気配の源は、第一甲板にあった。
 言葉つかいの男が、第一甲板の中央で仁王立ちしている。男はゆっくり右腕を上げ、前に突き出した。掌を天に向ける。
 雲が空でうごめき、円形に割れた。太陽が動いて、その円に収まった。堕ちながら昇りゆく、黒い太陽……。
 テスはこれまで二つの武器と、二つの世界で身につけた戦闘技能を頼りに戦ってきた。言葉の力は補助的にしか使ってこなかった。だがそれは、本来の使い方ではないのだと、別の言葉つかいを目撃し、初めて気がついた。
「そうか」
 黒い太陽が、睫毛に縁取られた目を開けた。白目を持つ、人間の目だった。男の右の掌の真上にあり、男の左手にあわせて、眼球を左右に動かしている。
「こういう言葉の使い方もあるのか……」
 その忌まわしい目が、観測甲板上のテスを見つけた。じっと見下ろし、動きを止める。テスは半月刀を抜きながら、素早く立ち上がった。
 言葉つかいの男も、まっすぐテスを見上げた。甲板の高低差を挟んで二人は向き合った。
 男は、テスが武器を持っていることに驚いた様子だった。テスは相手が武器を持っていないことに驚いた。そういえば、村で出会った言葉つかいの老婆も、身を守る道具を持っていなかった。もしかしたら、言葉つかいの武器は言葉だけであり、刃物や銃を用いるのは流儀に反することなのかもしれなかった。男が忌々しげに顔を歪めるのが、はっきり見えた。
「お前は何だ」
 男が尋ね、テスが答える。
「言葉つかいだ」
 視界の限りの空が、水平線の彼方から、黒く変じていく。男が叫んだ。
「嘘をつけ!」黒さが黄昏を駆逐して、空を塗りつぶした。「お前は新生アースフィアの党員か! そうだな!」
「えっ?」暗闇で、テスは呟いた。何も見えない。「何のことだかわからない」
「しらばっくれるな、裏切り者の言葉つかいめ!」
 光が差した。人に、いかなる安堵も居場所も与えない、ただ在るものの在るがままを明からしめるだけの光だった。
 海が消えていた。光を反射する波がない。光の出所を探そうとした途端、観測甲板が消失した。テスは大気を蹴り、空中でくるりと体を丸めて回転した。バランスを取り、爪先から第一甲板に着地する。その時、光は雲の中の二つの光点から放たれているとわかった。光を反射する雲が、目の持ち主である黒い巨人の姿を、包みこみ照らしていた。
「こんなことはやめるんだ!」テスは彼なりの早口で、彼なりに強く言った。「言葉で世界をいじり回すような真似はいけない!」
「黙れ! やめる前に、お前だけは殺す!」
 不意に憎悪を浴びせられ、テスは驚きが顔に現れるのを隠せなかった。単に生意気な年少者、気に食わないだけの相手に対する感情ではない。男はテスを憎んでおり、それはお門違いの憎悪だ。だが、誤解を解く暇もなく、第一甲板が足許から崩壊し始めた。
 テスは目を閉じ、足の裏に甲板の存在があると信じた。キシャによる沼と大地の消失が行われた際、櫂に当たる水の感触を信じたように。そして、それをもとにテスの主観による世界を復元したように、靴越しの甲板の感触を頼りに船と海の復元を試みた。
「そんなことはさせない。戦う理由などない」
 太陽を求めて、テスは右手の半月刀をしまい、空を指した。目を開けたとき、その指の真上に太陽があれと願った。目を開けた。顎を上げ、空を見上げた。雲は厚いが、その奥に、輝くほの白い円盤が見えた。
 太陽。
 テスは船があることを望んだ。誰もこの言葉つかいの世界に巻きこまれず、恐怖を感じずにいられることを望んだ。海があることを望んだ。
 雲間から、光が太い剣のようにおりて海を刺した。海はその切っ先を砕き、紺碧のヴェールに散らした。海は一本のリボンのように横たわり、その中心を、線路を往く列車のごとく船が進んでいた。
 海を囲む深淵から、二体の巨人が立ち上がった。船と海を左右から挟みこみ、みるみる高さを増して、頭が雲に入った。それはなお浮き上がって高さを増し、足場の高さをテスの立つ第一甲板と同じくした。巨人の足の指は、テスの身長以上の厚みがあった。
 テスは太陽を指し続けた。そうすることで世界を支えられると思った。
 だが、空の光が照らすのは、元通りの海ではない。何十、もしかしたら何百という数の、次々に現れる巨人の姿だった。
 男は巨人に世界を支配させて海を消そうとし、テスは巨人を消して海を広げようとした。巨人は消えなかった。海は広がらなかった。
 そのまま、二人の世界は拮抗した。苛立ちと害意をこめた巨人のうめき声が、雪崩のように降り注ぐ。声の重みを実際に感じ、テスはその場でよろめいた。
 その重圧が、言葉になった。
〈あなたを嫌います、消えてください〉
 文字として目に見えたようであり、声として耳に聞こえたようでもあった。また、自分自身の思考として、頭に浮かんだようにも感じられた。
〈あなたを拒みます、消えてください〉
 凄まじい被害妄想が、意志に反して起こった。この世界で出会った全ての人が自分を憎んでいると思った。これまでに浴びせられた全ての視線が冷たい視線で、全ての言葉が嫌悪を孕んでいた。何気ない一言にも、侮蔑の意味が隠されていた。
「違う」テスは口の中で呟いた。「違う。こんなのは嫌だ」
 言葉つかいが嘲笑う。
「このまま圧し潰してやる!」
〈私の前にとどまる限り、私を認め尊敬し愛する義務があります〉
 呼応するように、降り注ぐ声が大きくなった。
〈あなたが義務を拒むなら、死によって罰します〉
 足許がぐらついた。テスは目を閉じ、足許のイメージを強固にする。視界が閉ざされる前、海が細く狭くなっていくのが見えた。
「愛は義務じゃない」
 天を指し続ける右手がひどく震えた。指先で岩を支えている気分だ。だが、そうすることをやめたら、太陽が消えてしまうと思った。海も船も消え、自分は闇に消えると。そして、海や船に代わって巨人が自分にとっての実在となり、それに殺されるとわかった。
「罰なんて必要ない」
〈崇めなさい、恥辱を与えます〉
「甘やかされて育ったガキだな!」言葉つかいは自らの口で言葉を放った。「上に立つ奴は、下の人間に罰を与えるもんだ。でなきゃ、つけあがるだろうが。お前みたいにな。俺とお前は違うんだ、甘ちゃんめ!」
「つけあがってなど――」
 頭から、より一層強く押さえつけられる感じがし、テスの言葉は途中でうめき声に変わった。
〈思考を止めなさい、支配を与えます〉
「嫌だ」テスは改めて言い放った。「拒否する」
 確かに、この言葉つかいは強いのだ。目を開ければ、海が消えるのを見るだろう。船が消えるのを見るだろう。一瞬の油断で、この男の世界に自我は飲みこまれ、二度と帰れないだろう。
「どうしてお前は言葉つかいに刃向かった? 俺に従っていれば、神の力を手に入れられたのに!」
 男の声に、テスは驕りを感じ取った。優位にある者の驕りだ。そして実際に、相手が優位に立っていた。
 神。偶然放たれたその言葉に、テスは意識を集中した。
 神……。
「……いいや。俺とお前は違わない。言語生命体はみんな同じだ。みんな、この化け物みたいな被害妄想まみれの親のもとに生まれた、子供だ」
 テスは薄目を開けた。声に出さず、唇の動きだけで囁いた。神。
 雲の向こうの光る円盤、太陽を見つけた。
「だから、より切実に、まことの神を求めなければならない。地球人より切実に……」
 どのような脅威を感じたのか、男が息をのむ。テスは大きな目をしっかり見開いた。茶色の瞳が一瞬、青空を映した。次の瞬間、巨人の真っ黒い拳が視界を塞いだ。
 テスは右腕をおろし、代わりに左手の半月刀を頭上にかざした。巨人を見るのをやめ、真正面の男を見据えた。半月刀の刀身が、巨人の拳を受け止めた。紙一枚ほどの重みも感じなかった。
「奴を殺せ!」
 男が叫んだ。テスの半月刀に触れる巨人の手が、鳥の群れに変じた。羽音を立てて飛び上がる。テスは無数の羽根を浴びながら、まっすぐ男の視線を受け止め、見返した。
「殺す必要なんてない」
 鳥たちの翼に、テスは風の力を乗せた。雲が丸く開いた。青空がのぞいた。青空へ、鳥たちが、殺到していく。
 その青空を、巨人たちが身を乗り出して隠した。鳥たちを、鷲掴みにし、食っていく。
「やめろ」ばちん、と、体の中で光が弾けるのを感じた。テスは叫んだ。「鳥たちを殺すな!」
 巨人たちを避けて、鳥たちは逃げ場を求めて中空で輪を描く。
「こっちに来い!」
 テスは鳥たちに向けて両腕を広げた。
「みんな俺が守る! 一緒に行こう!」
 悲鳴のように鳴きながら、鳥たちが剣のように鋭く、一直線にテスへと向かってくる。テスはそれを体で受け止めた。かつて、死の沼の鳥たちを瞳に吸いこんだように、体の中に招じ入れた。共に生きる意志を持つ鳥を、この世界の鳥を、今この場にいる限り、最後の一羽まで。
「一緒に生きよう!」
 巨人らが、腰を屈めてテスに覆い被さってくる。
 言葉つかいが甲板を蹴り、殴りかかってくるのが見えた。殴ることで直接ショックを与え、隙を作らせるつもりだと、テスは読んだ。
 腰の後ろに右手をやる。
 銃を抜いた。
 両手で構え、至近距離で撃った。銃声がして、男が腹を押さえた。テスは拡張する。海原を。船の、甲板以外の部分を。男が目の前で、左右に揺らめいた。何か言いたげな目でテスを見ながら口を開いた。だが一言も喋らずに、腹を押さえて横ざまに倒れた。
 己を支える言葉を求めて、巨人たちが腰を屈めて甲板の男に殺到する。
 ぐしゃ、と音がした。
 同時に巨人たちが消えた。男の姿も消えていた。鳥たちも、青空も。
 不変の黄昏が、テスの頭上を憂鬱に支配していた。船は変わらず航海を続けていた。
 何もなかったかのようだ。テスは目眩をこらえた。最初から、一人でここに立っていただけで、一部始終は夢だった。そう思えた。
 だが、観測甲板から降りてきたキシャが、冷酷に現実を告げた。
「殺したな」
 テスは振り向きもせずに、男が倒れたはずの地点に視線を注ぎ続けた。血の一滴さえ残っていなかった。キシャを見ず、首を横に振った。
「あの人は死にたかったんだ。俺に殺されるようにした」
「くだらない自己弁護だ」
「いいや……そうなんだ。うまく言えないけど、あの言葉つかいの世界、被害妄想の言葉の世界を見てわかった……彼は死にたがってた。辛かったんだ。自分の言葉に潰された。自分でも知らないうちに、自分で死ぬようにしたんだ」
「それにしてはおまえ、撃つのになんの躊躇もなかったな。かなり殺し慣れているだろう。記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ」
 テスは、恥ずかしさと居たたまれなさで顔を赤くした。
「言葉つかいの世界を覗くのは、楽しくはなかっただろう?」
「……ああ」
「言葉つかいは言葉喰い、著しく変質させる者。だから、言葉つかいこそが言喰いだと主張する者たちが、行く先の大陸に少なからずいる。気をつけろ。旅は長い」
 キシャが離れていく。その足音が、人が倒れる音に変わった。慌てて振り向くと、キシャに憑依されていた、心を病んだ赤毛の女が甲板に倒れていた。『亡国記』は消え失せており、女の顔には生気がない。テスは女の姿勢を回復体位に整えてやった。誰かが彼女を見つけてくれるだろう。
 水平線の向こうに、陸が見え始めていた。


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