落ちてきた空の向こう
文字数 7,103文字
※
生きている者の目に触れずに、テスはその町を出た。雲が敷き詰められた黄色い空を渡る鳥はなく、赤土の荒野で餌をついばむ鳥もない。道らしきものが地平線まで延びていた。化生を防ぐ結界である杭と、古い轍の跡によって、かろうじて道とわかる道だった。
黒い山の裾野に来て、テスは足を止めた。木の柵で囲まれた敷地があり、石版が散乱していた。敷地の入り口には石碑が建っていた。
石版を注視したテスは、それが安っぽい墓石であることに気付き息をのんだ。掘り返されているのだ。土の色が敷地の外の土の色と変わりないので、決してつい最近の出来事ではない。
『裏切り者の墓』
石碑に歩み寄ると、台座にそう大きく記されていた。
『不自然なる死によって先に逃亡した者のための』
自殺者の墓なのだ、とテスは理解した。この世界が嫌で嫌で、死によって逃れようとした人は、裏切り者として弔われるのだ。
緑青に錆び付いた銅板には、石か何かで乱暴に文字が彫り込まれていた。
『私のティエンはどこだ?』
それが、文字を刻みつけた人物の妻なのか、恋人なのか、娘なのかはわからない。
だが、墓を掘り起こした男の目当てはそれなのだ。
そして、その復活をかけて、死者を蘇らせたのだ。
三人、人の足音が近付いてきて、取り囲むようにテスの後ろに立った。どういう人たちで、何の用件なのかはわかっていた。テスはゆっくり振り向いた。
昨日テスを殴った男たちが真後ろにいた。
四人目の人物が彼らの後ろから歩いてきて、男たちは足音をたてるその人物のために、墓地の入り口を開けた。
その人物を目の当たりにし、テスは呼吸を止めて体を強ばらせた。
船で出会った、あの痩せぎすの、赤毛の女だった。
「キシャ」
「ええ?」女は露骨に馬鹿にした様子でテスを睨みつけた。
「キシャなんて名前じゃないわよ。寝ぼけてんの?」話しながら、この世界における銃を抜いた。言葉を撃ち出すカートリッジ式の銃で、テスが持つ物理銃より大型だ。女はその銃をちらつかせながら言った。「ところでこの墓に何の用? 言葉つかい」
殺気で空気をぴりぴりさせながら女が尋ねた。テスが死者の蘇生を企んでいると誤解しているのかもしれなかった。
聞く耳を持っているとは思えなかった。テスは話をそらした。
「船で会ったな」
「ああ、その節はご親切にどうも」肩を竦め、両腕を広げた。「でも、それを理由に見逃してやるなんてことはないよ。あたしたちは善い言葉つかいも悪い言葉つかいも殺すからね」
「どうして言葉つかいを憎むんだ? 俺は何もしない」
「信用できるかよ」
男のように吐き捨てる。テスは続けた。
「人を食う化生と戦うのに言葉つかいが必要なはず」
「あたしたちには銃がある。お前たちなどこの世界に必要ない」
「ネサル、そろそろ……」
男の一人が女を振り向き、言った。ネサルというのが彼女の本当の名前らしかった。ネサルが銃口を上げたが、それが自分を狙っていないことにテスは気付いた。
恨みのこもった感情の塊が、テスから見て左端に立つ男の耳の横と、そしてテスの左横を掠め、飛んでいった。
上擦った悲鳴を上げて尻餅をつく男をネサルが蹴飛ばした。
「お前らは帰ってな! 後でこいつの死体運びをさせてやるよ」
三人の男たちは前のめりになって逃げていった。
ネサルは銃口を下げた。ホルスターから新しいカートリッジを出し、今銃に付いているものと付け替える。
そして病的な上機嫌さで鼻歌を歌いだした。
「ありがとう。あんたのお陰で、あたし知らない間に手柄を立てちゃった」
「何のことだ?」
「あんた、あの船で、言葉つかいを殺したね」
テスにはネサルの本心がわからず、何ら慌てることなくゆっくりカートリッジを交換する手つきを見守った。
「ああ」
「あいつはね、陸に着いたら仲間を呼んで殺すつもりでいたの。でもあんたが証拠を残さずにやってくれた。どうも。手柄はもらうよ」
「ネサル?」と、テスも慌てることなく言葉を返した。「今度は俺を殺すのか?」
「そう」
「俺は言葉つかいの協会には入っていない」
「わかってないね。これは連中の協会と新生アースフィア党の派閥争いじゃないのよ。あんたが言葉つかいだから殺すの」
「どうして」
「言葉つかいの存在は危険だからって言ってるでしょ? 頭悪いな」
「そんなのは建て前だ」
付け替え作業を終えたネサルが銃を両手に持ち直し、テスを睨んだ。
「本当の理由は?」
そして、苛立った目でテスを睨んだ。
「鬱陶しいなあ。あのさ、あんたたちの存在も、力も、訳がわかんないのよ。訳わかんない奴らにいられたくないわけ。お前、気持ち悪いんだよ。気持ち悪い奴は、排除していいんだよ!」
テスは恐ろしく、また、悲しい気持ちになった。
「そんなのは間違ってる」
「何? まさかの正義感気取り? 笑っちゃうんですけど!」
銃口がテスを向いた。テスは真横に倒れこみ、地面を転がって射線を避けた。
遅れてネサルが叫び、引き金を引いた。
「くたばりな、テス!」
体中がずきずきした。銃口から鎖が撃ち出されるのを視界の端で確認する。
鎖は重々しい音を立てたが、回避するまでもなく、テスがいた場所に届く前に形を失った。
「なんで? テスって本名じゃないの?」
動揺するネサルを残し、テスは大気の足場を踏んだ。空中高く、後ろに飛び、逃走を試みた。地上でネサルが叫んだ。
「名前を隠したな、小賢しい!」
ネサルは今度は手早くカートリッジを交換し、地上への降下を始めるテスに向けて撃った。怒りの気がテスの左右をかすめ、その余韻を心に残した。それはテスを通り過ぎるとき、太さが人間の胴体ほどもある鉄の槍になった。
テスが着地すると、その背後に大地を揺らして降り注ぎ、土煙をあげた。ネサルはひたすら撃っていた。降り注ぐ槍はテスにかすりもしなかったが、それが作る円の中心にテスを閉じこめようとした。
「ネサル! どうして戦う必要がある?」
「うるさいんだよ!」遠くからネサルが叫び返した。「何遍同じことを言わせる気だ!」
テスは、交差する二本の槍の間をくぐり抜け、円を抜け出した。土埃に身を隠し、降り注ぐ槍がたてる轟音の中に駆け寄ってくるネサルの足音を聞き取りながら、再びキシャの声を聞いた。昨日、ネサルの声帯を借りて放たれた声だった。
『記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ』
「お前を殺したくなんかない!」
槍の雨がやんだ。テスは地を抉る槍の木立の後ろに身を隠し、ネサルと自分の間を遮る強い風を起こした。
ネサルがまたカートリッジを交換し、風の壁を撃った。実体のあるものは撃ち出されなかったが、風の勢いが薄れた。言葉つかいの技師たちが開発した、言葉つかいでない人々が化生から身を守るための武器だ。副次的なものなのかどうかは知らないが、言葉の力を打ち破る性質があるらしい。
テスは自分の銃を抜こうとし、思いとどまった。ネサルを傷つけずに彼女の銃だけを破壊するには、テスの物理銃は威力が高すぎた。
彼は再度の逃走を選び、先ほどと同じく後方に飛んだ。もう話しかけたりはするまいと心を決めながら。
ネサルを殺せないわけではない。
記憶はなくしたが、体は覚えている。
戦いかた、気配の消しかた、人の殺しかたを。
そして、一緒に戦った仲間の息遣いと体温を。
ネサルが、テスが空中に作った大気の足場を撃った。足場が消える直前、テスはそれを蹴り、地面への自由落下を始めた。地に叩きつけられる直前、翼を広げたように速度を落とす。ネサルは更に撃ったが、走りながらであるために、テスには掠りもしなかった。
死と肌を接するとき、テスは心から流れ落ちた記憶の残滓から、仲間の気配を感じ取る。
だから、テスには、この世界での生よりも、死の気配のほうが温かい。
「ぴょこぴょこぴょこぴょこ、気持ち悪い動き方しやがって! やっぱりお前、人間じゃないじゃないか。なんなんだ、畜生? ノミか? 本性を言ってみな!」
着地したばかりのテスに、ネサルが銃口をぴたりと向けた。テスは再び飛んだ。ネサルはテスがいた場所よりずっと高い位置に向けて撃った。
「温かくしてやるよ!」
それは彼女の本来の腕前ではなかった。興奮と緊張、そして走るのと叫ぶのを繰り返したことによる疲労でしっかりとテスを狙えなかったせいだった。
結果として、撃ち出された実体のないものは、ちょうどテスが飛び上がった高さでテスに直撃した。
テスは腹に強い衝撃を受けた。
熱い、と感じた。
すると、実体のない空気の塊は、赤い炎になった。
意志に反して、大きく鋭い悲鳴がテスの口からはしり出た。空中で弾きとばされ、テスは地に叩きつけられて、為すすべなく転がった。かろうじて両腕で頭を庇いながら落下の勢いで地面を滑り、ようやく体が止まったときには気を失う寸前だった。
顔の前で交差させた両腕が、力なく地に落ちた。ネサルが歩み寄ったとき、テスは両目を閉じて息を喘がせ、体に残る熱と苦痛に耐えていた。
だがネサルはそんな様子を見てなどいなかった。
叩き落とされたテスの周りに、灰白色の羽根が降り注ぐ。それを見て、呆然とした様子で言った。
「お前、鳥だ……」
テスは黙って、痛みで気絶しないための努力を続けていた。だんだん意識がはっきりしてきて、今度は体に力を入れる努力へと移行する。指先がぴくりと動いた。
「そうか! お前、鳥だったんだ!」
ネサルの高笑いが、倒れたままのテスに降り注いだ。
「畜生の分際で二足歩行してると思ったら、鳥じゃあ二足歩行で当たり前だよねぇ!」
目を閉じたまま、テスは認めざるを得なかった。
あの銃は現実的な殺傷力を持っている。
そして、ネサルは撃てるのだ。テスを逃がしはしない。
目を開けた。
叩きつけるような突風が、ネサルを突き飛ばした。次はネサルが悲鳴を上げて地に伏す番だった。
またしても風の壁が二人を遮った。その壁の片側で、テスは両手足を胴体に引き寄せて、肘と膝を地面につけたまま、どうにか体を起こした。
壁の反対側では、ネサルが転んで擦りむいた頬に左手の甲を当てながら、座りこみ、凍り付いた恐怖の目をテスに注いでいた。
テスは告げた。
「お前と戦う」
ネサルの銃は、彼女の膝のすぐ前に落ちていた。彼女は手を伸ばそうとしたが、転んだ拍子に痛めたらしく、右手首から先は力なくぶらぶらしており、動かない。テスは言葉を続けた。
「負けてやることはできない」
テスは背を伸ばし、膝立ちになり、それからどうにか立ち上がった。ネサルは左手で自分の銃を掴んだ。大きな銃で、片手では扱えない。彼女は左腕をまっすぐ上げたが、震えている。重さゆえか、死の恐怖ゆえか、または両方だった。彼女は震える声で言い返した。
「死んでよ」
「できない」テスはいつもの目、茶色い、少しぼうっとした、遠くを見ているような目に、悲しい光を宿して瞬いた。「俺は、この世界に、意味と目的があって落ちてきたのだと……信じるから」
ネサルが銃を撃った。彼女の左腕が大きく跳ね上がり、肩が壊れたのではないかとテスは思った。風の壁が弱まり、テスは目を閉ざした。
木を想う。
翼を休め、安らぐ場所。
ちらつく木漏れ日。そよぐイチョウの若葉。鱗状に割れた樹皮を思った。樹皮の裏に棲み、鳥たちの糧となる虫たちを想った。樹皮の手触りを想った。天を目指す大枝の確かさを想った。
大空の光が満ち、赤く割れた大地を濡らす死者の嘆きを乾かした。
言葉つかいとの戦いで学んだとおり、可能な限り写実的な光景を想い描き、目を開いた。
青空が二人を覆っていた。真上は濃い水色、遠ざかるほど薄い水色、視界の果ては更に薄く白っぽい水色。イチョウの大樹がめいっぱい空に枝を伸ばしている。テスは地を蹴った。今や若草が満ちた大地を。
「いつか言葉つかいが空を消すと――」
跪いたままのネサルが、光の中でそれきり声を失う。テスは太い枝に着地し、ネサルを見下ろした。
「俺に空は消せない」
「――どうしてよ? 化け物じゃないからだなんてたわごと言うつもり? それともあんたが鳥だから?」
驚いたことに、ネサルはまだ銃を撃った。その一撃で、二人を隔てる風の壁が完全に消滅し、ネサルの肩は耐えきれず、草原に銃を落とした。
「殺しなさいよ!」
ネサルが立ち上がり、テスは二本の半月刀を抜いた。
「空を落とすなり、その木を歩かせるなりしてあたしを潰しなさいよ!」
「駄目だ」
体に貼りつく軋むような違和感と痛みに耐え、テスは半月刀を柄頭の連結器で組み合わせ、ブーメランの状態にした。
「せめて……人らしく殺す」
右腕で、肩の後ろまで振りかぶり、それを投げた。
ブーメランはネサルの右の太股を、骨に達する深さまで深く裂いた。
失血死を避けられぬ深手だ。
木の上のテスを見上げる両目が極限まで見開かれ、ネサルはがっくりと膝をついた。唇は何か言おうと動いていたが、喘ぐような息の音以外声は出なかった。
テスが木から飛び降りると、木は消え、草は絶え、世界は暗く黒ずみ、荒廃した大地には夕暮れが戻ってきた。
ネサルは立ち上がろうとして前のめりになり、両手を地につけた。四つん這いの姿勢でいたが、テスの爪先に手を伸ばそうとし、バランスを崩して完全に倒れた。
彼女は何かを呟いていた。
「当たり前……」耳を澄ますとそう聞こえた。「当たり前、当たり前よ!」
「ネサル」
しゃがんでその手を取るのも何か違う気がして、テスはその場に立ち続けた。
ネサルは話し続けようとした。
「わかってたわ、こういう死にかたをするって。あたしみたいのは殺されて死ぬことになる。こういう生きて死にかたしかなかった。そうでしょ? ねえ」
ネサルの指が、ついぞテスの靴の爪先に触れた。結局テスはしゃがみ、縋りついてくるその手を握り返した。
そうせずにはいられなかった。
「ネサル……ごめんな」
テスもまた、こうするしかなかったのだ。
ネサルは血で土を濡らしながら、這って更に身を寄せてきた。テスは地面に両膝をつき、腕の中にネサルの体を抱いて、仰向けにさせた。
「ねえ、テス、聞いて、聞いて」
「ああ」
「最後まで聞いて!」
ゆっくり言い聞かす。
「最後まで聞く」
「あのね、テス、あたしもね、落ちてきた人間だよ。昔、太陽の王国から。でもあたしは言葉つかいじゃなかった。ここでもあたしは何の力もなかった。そう扱うことで世界はとことんあたしを馬鹿にした、あたしを嘲笑った! ねえ、憎かったのよ、あんたが。憎らしかった、だから、言葉つかいが」
息が震える。彼女の顔は興奮した口振りとは裏腹に、目に見えて青褪めていった。
「だから言葉つかいを殺して生きることにした。ねえ、あたし、悪い奴でしょ? すっごくすっごく嫌な奴でしょ?」
テスは彼女にちゃんと聞こえるよう、はっきりと答えた。
「いいや」
すると、ネサルは絶望するような顔を見せた。
だが、それも一秒か二秒のことだった。
だんだんと、二日前に出会って以来初めて見る優しい顔になっていった。
「テス」
「なんだ?」
「本名を教えて」
ネサルの銃を見た。それが十分にネサルから遠い場所にあり、ネサルもそれを扱える状態ではないことを確かめた。
「マリステス」
ネサルの耳に囁いた。
「俺はマリステス・オーサー」
「マリステス?」
ネサルの目の焦点が合わなくなっていく。
「マリステス……」
それでも瞼を開け続けていた。
「マリステス……ありがとう」その目が潤み、目の縁に涙が溜まった。「あんたは……あたしがこの世界で出会った中で……一番優しい人だった」
目を閉じた。涙が流れ落ち、青白い頬を伝った。
人が、悲しい涙を流して死んでいく。
「寒い」
ネサルは再度瞼を開けたが、もう何も見えてはいないようだった。
「空が落ちてきたよ、昔」
「ああ」
「寝てるあたしの鼻先まで……」
声が震え、聞き取りづらくなる。
「空はガラスだった。向こう側にママがいた。ねえ、テス、いる?」
「ここにいる」
「ねえ、ママがいたのよ。鼻と鼻が触れ合いそうな位置にいて……落ちてきたガラスの空の向こう側に、へばりついて、あたしを見ていた……」
最期の身震いが、ネサルを襲った。
彼女は語りきった。
「ものすごく、見てた――」
言葉の後、長い息を吐いた。
体が重くなり、彼女は意識を失った。
テスはネサルが寂しくないように、しばらく抱いたままでいた。だが流血が彼女の命を押し流し、二度と目覚めぬ体になると、テスはその亡骸を大地に横たえた。
痛む体を引きずって歩き、ブーメランを拾い上げた。
半月刀の状態に戻したとき、いずれの半月刀の柄頭にも人の名らしきものが彫られていることに気がついた。
『アラク』
こんな字が彫られていただろうか? いつから?
テスは首をかしげた。その人名らしきものはいかなる感情も刺激せず、テスの心に語りかけることもなかった。
アラク。それが何かを忘れたのだ、とテスは考えた。
そして、忘れてしまったことについて何とも思わず、嫌だと感じもしなかった。
生きている者の目に触れずに、テスはその町を出た。雲が敷き詰められた黄色い空を渡る鳥はなく、赤土の荒野で餌をついばむ鳥もない。道らしきものが地平線まで延びていた。化生を防ぐ結界である杭と、古い轍の跡によって、かろうじて道とわかる道だった。
黒い山の裾野に来て、テスは足を止めた。木の柵で囲まれた敷地があり、石版が散乱していた。敷地の入り口には石碑が建っていた。
石版を注視したテスは、それが安っぽい墓石であることに気付き息をのんだ。掘り返されているのだ。土の色が敷地の外の土の色と変わりないので、決してつい最近の出来事ではない。
『裏切り者の墓』
石碑に歩み寄ると、台座にそう大きく記されていた。
『不自然なる死によって先に逃亡した者のための』
自殺者の墓なのだ、とテスは理解した。この世界が嫌で嫌で、死によって逃れようとした人は、裏切り者として弔われるのだ。
緑青に錆び付いた銅板には、石か何かで乱暴に文字が彫り込まれていた。
『私のティエンはどこだ?』
それが、文字を刻みつけた人物の妻なのか、恋人なのか、娘なのかはわからない。
だが、墓を掘り起こした男の目当てはそれなのだ。
そして、その復活をかけて、死者を蘇らせたのだ。
三人、人の足音が近付いてきて、取り囲むようにテスの後ろに立った。どういう人たちで、何の用件なのかはわかっていた。テスはゆっくり振り向いた。
昨日テスを殴った男たちが真後ろにいた。
四人目の人物が彼らの後ろから歩いてきて、男たちは足音をたてるその人物のために、墓地の入り口を開けた。
その人物を目の当たりにし、テスは呼吸を止めて体を強ばらせた。
船で出会った、あの痩せぎすの、赤毛の女だった。
「キシャ」
「ええ?」女は露骨に馬鹿にした様子でテスを睨みつけた。
「キシャなんて名前じゃないわよ。寝ぼけてんの?」話しながら、この世界における銃を抜いた。言葉を撃ち出すカートリッジ式の銃で、テスが持つ物理銃より大型だ。女はその銃をちらつかせながら言った。「ところでこの墓に何の用? 言葉つかい」
殺気で空気をぴりぴりさせながら女が尋ねた。テスが死者の蘇生を企んでいると誤解しているのかもしれなかった。
聞く耳を持っているとは思えなかった。テスは話をそらした。
「船で会ったな」
「ああ、その節はご親切にどうも」肩を竦め、両腕を広げた。「でも、それを理由に見逃してやるなんてことはないよ。あたしたちは善い言葉つかいも悪い言葉つかいも殺すからね」
「どうして言葉つかいを憎むんだ? 俺は何もしない」
「信用できるかよ」
男のように吐き捨てる。テスは続けた。
「人を食う化生と戦うのに言葉つかいが必要なはず」
「あたしたちには銃がある。お前たちなどこの世界に必要ない」
「ネサル、そろそろ……」
男の一人が女を振り向き、言った。ネサルというのが彼女の本当の名前らしかった。ネサルが銃口を上げたが、それが自分を狙っていないことにテスは気付いた。
恨みのこもった感情の塊が、テスから見て左端に立つ男の耳の横と、そしてテスの左横を掠め、飛んでいった。
上擦った悲鳴を上げて尻餅をつく男をネサルが蹴飛ばした。
「お前らは帰ってな! 後でこいつの死体運びをさせてやるよ」
三人の男たちは前のめりになって逃げていった。
ネサルは銃口を下げた。ホルスターから新しいカートリッジを出し、今銃に付いているものと付け替える。
そして病的な上機嫌さで鼻歌を歌いだした。
「ありがとう。あんたのお陰で、あたし知らない間に手柄を立てちゃった」
「何のことだ?」
「あんた、あの船で、言葉つかいを殺したね」
テスにはネサルの本心がわからず、何ら慌てることなくゆっくりカートリッジを交換する手つきを見守った。
「ああ」
「あいつはね、陸に着いたら仲間を呼んで殺すつもりでいたの。でもあんたが証拠を残さずにやってくれた。どうも。手柄はもらうよ」
「ネサル?」と、テスも慌てることなく言葉を返した。「今度は俺を殺すのか?」
「そう」
「俺は言葉つかいの協会には入っていない」
「わかってないね。これは連中の協会と新生アースフィア党の派閥争いじゃないのよ。あんたが言葉つかいだから殺すの」
「どうして」
「言葉つかいの存在は危険だからって言ってるでしょ? 頭悪いな」
「そんなのは建て前だ」
付け替え作業を終えたネサルが銃を両手に持ち直し、テスを睨んだ。
「本当の理由は?」
そして、苛立った目でテスを睨んだ。
「鬱陶しいなあ。あのさ、あんたたちの存在も、力も、訳がわかんないのよ。訳わかんない奴らにいられたくないわけ。お前、気持ち悪いんだよ。気持ち悪い奴は、排除していいんだよ!」
テスは恐ろしく、また、悲しい気持ちになった。
「そんなのは間違ってる」
「何? まさかの正義感気取り? 笑っちゃうんですけど!」
銃口がテスを向いた。テスは真横に倒れこみ、地面を転がって射線を避けた。
遅れてネサルが叫び、引き金を引いた。
「くたばりな、テス!」
体中がずきずきした。銃口から鎖が撃ち出されるのを視界の端で確認する。
鎖は重々しい音を立てたが、回避するまでもなく、テスがいた場所に届く前に形を失った。
「なんで? テスって本名じゃないの?」
動揺するネサルを残し、テスは大気の足場を踏んだ。空中高く、後ろに飛び、逃走を試みた。地上でネサルが叫んだ。
「名前を隠したな、小賢しい!」
ネサルは今度は手早くカートリッジを交換し、地上への降下を始めるテスに向けて撃った。怒りの気がテスの左右をかすめ、その余韻を心に残した。それはテスを通り過ぎるとき、太さが人間の胴体ほどもある鉄の槍になった。
テスが着地すると、その背後に大地を揺らして降り注ぎ、土煙をあげた。ネサルはひたすら撃っていた。降り注ぐ槍はテスにかすりもしなかったが、それが作る円の中心にテスを閉じこめようとした。
「ネサル! どうして戦う必要がある?」
「うるさいんだよ!」遠くからネサルが叫び返した。「何遍同じことを言わせる気だ!」
テスは、交差する二本の槍の間をくぐり抜け、円を抜け出した。土埃に身を隠し、降り注ぐ槍がたてる轟音の中に駆け寄ってくるネサルの足音を聞き取りながら、再びキシャの声を聞いた。昨日、ネサルの声帯を借りて放たれた声だった。
『記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ』
「お前を殺したくなんかない!」
槍の雨がやんだ。テスは地を抉る槍の木立の後ろに身を隠し、ネサルと自分の間を遮る強い風を起こした。
ネサルがまたカートリッジを交換し、風の壁を撃った。実体のあるものは撃ち出されなかったが、風の勢いが薄れた。言葉つかいの技師たちが開発した、言葉つかいでない人々が化生から身を守るための武器だ。副次的なものなのかどうかは知らないが、言葉の力を打ち破る性質があるらしい。
テスは自分の銃を抜こうとし、思いとどまった。ネサルを傷つけずに彼女の銃だけを破壊するには、テスの物理銃は威力が高すぎた。
彼は再度の逃走を選び、先ほどと同じく後方に飛んだ。もう話しかけたりはするまいと心を決めながら。
ネサルを殺せないわけではない。
記憶はなくしたが、体は覚えている。
戦いかた、気配の消しかた、人の殺しかたを。
そして、一緒に戦った仲間の息遣いと体温を。
ネサルが、テスが空中に作った大気の足場を撃った。足場が消える直前、テスはそれを蹴り、地面への自由落下を始めた。地に叩きつけられる直前、翼を広げたように速度を落とす。ネサルは更に撃ったが、走りながらであるために、テスには掠りもしなかった。
死と肌を接するとき、テスは心から流れ落ちた記憶の残滓から、仲間の気配を感じ取る。
だから、テスには、この世界での生よりも、死の気配のほうが温かい。
「ぴょこぴょこぴょこぴょこ、気持ち悪い動き方しやがって! やっぱりお前、人間じゃないじゃないか。なんなんだ、畜生? ノミか? 本性を言ってみな!」
着地したばかりのテスに、ネサルが銃口をぴたりと向けた。テスは再び飛んだ。ネサルはテスがいた場所よりずっと高い位置に向けて撃った。
「温かくしてやるよ!」
それは彼女の本来の腕前ではなかった。興奮と緊張、そして走るのと叫ぶのを繰り返したことによる疲労でしっかりとテスを狙えなかったせいだった。
結果として、撃ち出された実体のないものは、ちょうどテスが飛び上がった高さでテスに直撃した。
テスは腹に強い衝撃を受けた。
熱い、と感じた。
すると、実体のない空気の塊は、赤い炎になった。
意志に反して、大きく鋭い悲鳴がテスの口からはしり出た。空中で弾きとばされ、テスは地に叩きつけられて、為すすべなく転がった。かろうじて両腕で頭を庇いながら落下の勢いで地面を滑り、ようやく体が止まったときには気を失う寸前だった。
顔の前で交差させた両腕が、力なく地に落ちた。ネサルが歩み寄ったとき、テスは両目を閉じて息を喘がせ、体に残る熱と苦痛に耐えていた。
だがネサルはそんな様子を見てなどいなかった。
叩き落とされたテスの周りに、灰白色の羽根が降り注ぐ。それを見て、呆然とした様子で言った。
「お前、鳥だ……」
テスは黙って、痛みで気絶しないための努力を続けていた。だんだん意識がはっきりしてきて、今度は体に力を入れる努力へと移行する。指先がぴくりと動いた。
「そうか! お前、鳥だったんだ!」
ネサルの高笑いが、倒れたままのテスに降り注いだ。
「畜生の分際で二足歩行してると思ったら、鳥じゃあ二足歩行で当たり前だよねぇ!」
目を閉じたまま、テスは認めざるを得なかった。
あの銃は現実的な殺傷力を持っている。
そして、ネサルは撃てるのだ。テスを逃がしはしない。
目を開けた。
叩きつけるような突風が、ネサルを突き飛ばした。次はネサルが悲鳴を上げて地に伏す番だった。
またしても風の壁が二人を遮った。その壁の片側で、テスは両手足を胴体に引き寄せて、肘と膝を地面につけたまま、どうにか体を起こした。
壁の反対側では、ネサルが転んで擦りむいた頬に左手の甲を当てながら、座りこみ、凍り付いた恐怖の目をテスに注いでいた。
テスは告げた。
「お前と戦う」
ネサルの銃は、彼女の膝のすぐ前に落ちていた。彼女は手を伸ばそうとしたが、転んだ拍子に痛めたらしく、右手首から先は力なくぶらぶらしており、動かない。テスは言葉を続けた。
「負けてやることはできない」
テスは背を伸ばし、膝立ちになり、それからどうにか立ち上がった。ネサルは左手で自分の銃を掴んだ。大きな銃で、片手では扱えない。彼女は左腕をまっすぐ上げたが、震えている。重さゆえか、死の恐怖ゆえか、または両方だった。彼女は震える声で言い返した。
「死んでよ」
「できない」テスはいつもの目、茶色い、少しぼうっとした、遠くを見ているような目に、悲しい光を宿して瞬いた。「俺は、この世界に、意味と目的があって落ちてきたのだと……信じるから」
ネサルが銃を撃った。彼女の左腕が大きく跳ね上がり、肩が壊れたのではないかとテスは思った。風の壁が弱まり、テスは目を閉ざした。
木を想う。
翼を休め、安らぐ場所。
ちらつく木漏れ日。そよぐイチョウの若葉。鱗状に割れた樹皮を思った。樹皮の裏に棲み、鳥たちの糧となる虫たちを想った。樹皮の手触りを想った。天を目指す大枝の確かさを想った。
大空の光が満ち、赤く割れた大地を濡らす死者の嘆きを乾かした。
言葉つかいとの戦いで学んだとおり、可能な限り写実的な光景を想い描き、目を開いた。
青空が二人を覆っていた。真上は濃い水色、遠ざかるほど薄い水色、視界の果ては更に薄く白っぽい水色。イチョウの大樹がめいっぱい空に枝を伸ばしている。テスは地を蹴った。今や若草が満ちた大地を。
「いつか言葉つかいが空を消すと――」
跪いたままのネサルが、光の中でそれきり声を失う。テスは太い枝に着地し、ネサルを見下ろした。
「俺に空は消せない」
「――どうしてよ? 化け物じゃないからだなんてたわごと言うつもり? それともあんたが鳥だから?」
驚いたことに、ネサルはまだ銃を撃った。その一撃で、二人を隔てる風の壁が完全に消滅し、ネサルの肩は耐えきれず、草原に銃を落とした。
「殺しなさいよ!」
ネサルが立ち上がり、テスは二本の半月刀を抜いた。
「空を落とすなり、その木を歩かせるなりしてあたしを潰しなさいよ!」
「駄目だ」
体に貼りつく軋むような違和感と痛みに耐え、テスは半月刀を柄頭の連結器で組み合わせ、ブーメランの状態にした。
「せめて……人らしく殺す」
右腕で、肩の後ろまで振りかぶり、それを投げた。
ブーメランはネサルの右の太股を、骨に達する深さまで深く裂いた。
失血死を避けられぬ深手だ。
木の上のテスを見上げる両目が極限まで見開かれ、ネサルはがっくりと膝をついた。唇は何か言おうと動いていたが、喘ぐような息の音以外声は出なかった。
テスが木から飛び降りると、木は消え、草は絶え、世界は暗く黒ずみ、荒廃した大地には夕暮れが戻ってきた。
ネサルは立ち上がろうとして前のめりになり、両手を地につけた。四つん這いの姿勢でいたが、テスの爪先に手を伸ばそうとし、バランスを崩して完全に倒れた。
彼女は何かを呟いていた。
「当たり前……」耳を澄ますとそう聞こえた。「当たり前、当たり前よ!」
「ネサル」
しゃがんでその手を取るのも何か違う気がして、テスはその場に立ち続けた。
ネサルは話し続けようとした。
「わかってたわ、こういう死にかたをするって。あたしみたいのは殺されて死ぬことになる。こういう生きて死にかたしかなかった。そうでしょ? ねえ」
ネサルの指が、ついぞテスの靴の爪先に触れた。結局テスはしゃがみ、縋りついてくるその手を握り返した。
そうせずにはいられなかった。
「ネサル……ごめんな」
テスもまた、こうするしかなかったのだ。
ネサルは血で土を濡らしながら、這って更に身を寄せてきた。テスは地面に両膝をつき、腕の中にネサルの体を抱いて、仰向けにさせた。
「ねえ、テス、聞いて、聞いて」
「ああ」
「最後まで聞いて!」
ゆっくり言い聞かす。
「最後まで聞く」
「あのね、テス、あたしもね、落ちてきた人間だよ。昔、太陽の王国から。でもあたしは言葉つかいじゃなかった。ここでもあたしは何の力もなかった。そう扱うことで世界はとことんあたしを馬鹿にした、あたしを嘲笑った! ねえ、憎かったのよ、あんたが。憎らしかった、だから、言葉つかいが」
息が震える。彼女の顔は興奮した口振りとは裏腹に、目に見えて青褪めていった。
「だから言葉つかいを殺して生きることにした。ねえ、あたし、悪い奴でしょ? すっごくすっごく嫌な奴でしょ?」
テスは彼女にちゃんと聞こえるよう、はっきりと答えた。
「いいや」
すると、ネサルは絶望するような顔を見せた。
だが、それも一秒か二秒のことだった。
だんだんと、二日前に出会って以来初めて見る優しい顔になっていった。
「テス」
「なんだ?」
「本名を教えて」
ネサルの銃を見た。それが十分にネサルから遠い場所にあり、ネサルもそれを扱える状態ではないことを確かめた。
「マリステス」
ネサルの耳に囁いた。
「俺はマリステス・オーサー」
「マリステス?」
ネサルの目の焦点が合わなくなっていく。
「マリステス……」
それでも瞼を開け続けていた。
「マリステス……ありがとう」その目が潤み、目の縁に涙が溜まった。「あんたは……あたしがこの世界で出会った中で……一番優しい人だった」
目を閉じた。涙が流れ落ち、青白い頬を伝った。
人が、悲しい涙を流して死んでいく。
「寒い」
ネサルは再度瞼を開けたが、もう何も見えてはいないようだった。
「空が落ちてきたよ、昔」
「ああ」
「寝てるあたしの鼻先まで……」
声が震え、聞き取りづらくなる。
「空はガラスだった。向こう側にママがいた。ねえ、テス、いる?」
「ここにいる」
「ねえ、ママがいたのよ。鼻と鼻が触れ合いそうな位置にいて……落ちてきたガラスの空の向こう側に、へばりついて、あたしを見ていた……」
最期の身震いが、ネサルを襲った。
彼女は語りきった。
「ものすごく、見てた――」
言葉の後、長い息を吐いた。
体が重くなり、彼女は意識を失った。
テスはネサルが寂しくないように、しばらく抱いたままでいた。だが流血が彼女の命を押し流し、二度と目覚めぬ体になると、テスはその亡骸を大地に横たえた。
痛む体を引きずって歩き、ブーメランを拾い上げた。
半月刀の状態に戻したとき、いずれの半月刀の柄頭にも人の名らしきものが彫られていることに気がついた。
『アラク』
こんな字が彫られていただろうか? いつから?
テスは首をかしげた。その人名らしきものはいかなる感情も刺激せず、テスの心に語りかけることもなかった。
アラク。それが何かを忘れたのだ、とテスは考えた。
そして、忘れてしまったことについて何とも思わず、嫌だと感じもしなかった。