殺戮者たち

文字数 13,527文字

 2.

 テスは昨日、危険を冒して町の上に青空を広げようと試した。それは全くうまくいかなかった。青空の滴はテスの手から放たれてすぐ、安ホテルの窓から飛び出して、隣の家の屋根の上で蒸発して消えた。
 きっと、人はみな大なり小なり言葉つかいで、程度が異なるだけなのだろうとテスは考えた。言葉つかいとて、多くの人間の主観には勝てないのだ。この世界の人々にとって、空はこういうものなのだ。
 あるいは力を強めれば、それに勝てるかもしれない。
 ヒヤシンス通りの公会堂は、三十分歩いて見つけた。蓮が浮く池の前にある、石造りの建物で、出入り口を覆面の男たちが固めていた。テスは公会堂の側面に回り込み、クェテのズボンから掏った覆面をかぶった。臭いのではないかと思ったが、きちんと洗濯されていた。後ろ髪はストールの中に押し込んだ。大気をまとい、壁を三角に蹴って公会堂の窓のひさしに飛び乗ると、窓を割って鍵を開け、中に滑り込んだ。
 そこは、彫像や季節ものの装飾品をしまっておく部屋だった。埃っぽく、暗く、彫像たちの中には何かが秘められているようで、秘められた者の視線すら感じる気がして、内鍵を開けて外に出た。
 部屋の外もまた暗かった。板張りの廊下が伸びており、右手の奥のガラス窓から、不変の角度で黄昏の光が差していた。光の中できらきら埃が舞っている。左手の奥は吹き抜けの階段で、下にぼんやりした光が認められた。耳を澄ますと憚りながらもしきりに交わされる低いざわめきが聞こえ、テスはさも用事があるという雰囲気を身に纏い、階段を下りた。
 覆面をした何人かの人々が、シャンデリアの下がるエントランスに集っていた。石の手すりにもたれかかって何かを囁き交わしていた二人組が、テスの気配に振り向き、見上げたが、あまりに何気なく下りてきたので、それほど不自然とは思わなかったようだ。また手すりにもたれかかり、秘密の話を再開した。
 テスは覆面の人々を追って、ある一室に入った。そこは天井の高い、ステンドグラスで彩られたレストランだった。この店の本来の備品であろう猫足のお洒落な丸テーブルは全て片隅に寄せられ、青い絨毯が敷かれた空間には、会議用の長机が置かれていた。椅子は店の備品が使われていた。長い月日をかけて料理の匂いが染みついた椅子で、テスはその布張りの座面に体を沈め、できるだけ存在感を消した。右隣には二人組、左隣には三人組がいて、ちょうどその間に一人分の椅子が空いていたのだ。
「……で、結局今日は何だって言うんだ?」
 テスの着席で一旦会話をやめた二人組の片方が、仲間に言った。
「さぁな。それについては俺も知らないよ。緊急の話としか聞いてないぜ」
「お前も電話で起こされた口かよ」
「だから最初にそう言っただろ? 聞いてなかったのか」
 それから五分と経たずして、二つを残して全ての椅子が埋まった。空いている椅子は、一番上座に一つ、一番下座に一つあった。
 太陽のバッジを胸につけた男が入ってきて、場が静まった。覆面をしているが、体型で男だとわかる。彼は一番上座の椅子の前に立った。
「全員揃っていないようだが、定刻なので始める」
 低いがよく聞こえる声で言い、座った。声からして中年だろうと思われた。
「突然の召集で驚いているだろうし、本当は今日用事や仕事がある者もいるだろう……手短に終わらせよう。だが大事な知らせだ。
 昨日、死者の町にて、執行部役員、同志ネサルが亡くなった」
 テーブルにつく面々が、おののき仰け反った。生じかけたざわめきを鎮めるように、上座の男の近くに座る別の男がなめらかな口調で尋ねた。
「同志レガ、それは言葉つかいの仕業ですかな?」
 台本があるんだ、とテスは思った。レガと呼ばれた男もなめらかに答えた。
「そうだ」
 先ほど生じかけたものよりずっと大きなざわめきと興奮した吐息が、食事のないテーブルを温めた。テスは交わされる言葉の内容よりも、声そのものに意識を集中した。男が多いが、女もいる。子供の声が聞こえた。一人、思春期を迎える頃の女の子がいる。少女の姿はすぐ見つけることができた。女の体格、男の体格の二人に挟まれ座っている。彼女の両親だろう。差別主義者の両親を持つ、純粋培養の差別主義者。
 ざわめきはたっぷり一分続いたが、代表者の沈黙に気がつくと、一人、また一人と黙っていき、何かを自粛するように静まり返った。
 レガが重苦しく語る。
「生前の彼女の手記によれば、その言葉つかいは『治癒と再生者の協会』、つまり〈奴ら〉の協会に属していない」
「野良か」
 誰かが呟いた。
「同志ネサルは海路で一人の言葉つかいを抹消している。はじめ、その報復かと思われたが、どうやら違うらしい。彼女が亡くなった死者の町の同志ティダによれば、この町の支部から派遣されて現在調査に入っている協会員たちは、別の言葉つかいが絡んでいると考えているようだな。痕跡を残さずに一人の男を消そうとなると、言葉つかいの力を用いるか海に投げ込むしかないが、ここにいるみんなが知っている通りネサルは女性だ」
「しかも、かなり痩せている」
 仲間の相槌にレガが頷く。テスの斜め向かいの若い男が呟いた。
「つまりあの女、野良の言葉つかいの手柄を横取りしたってわけか」
 その男へとレガの顔が向き、表情が覆面で隠されていても、睨んだのがわかった。
「口を慎め。我々は同志ネサルの報復をすべく野良の言葉つかいを狩らなければならない。だが、言葉つかいの協会も、そいつを追うはずだ」
「ネサルの手記に、その者の正体は書き残されているのですかな?」
 これもまた台本通りなのだろう。初老の男の声に、レガは手にした書面に目を落とす。
「ネサルによれば、そいつはテスと言うらしい」
 テス、テス、と囁き声が交わされる。テス。その名は憎悪と嫌悪と軽蔑の対象になっていた。テスは軽い恐怖を感じた。
「だがこれは電話で聞き取った内容だ。死者の町から派遣されてきてた同志が、手記と人相書きを持って来てくれている。この中にいるはずだが……」
 再びの沈黙。それを破ったのは、ドアのノックだった。女性とわかる細身の体格の党員が入ってきて、覆面の顔を、レガの耳に寄せた。彼女が何かを囁くと、レガは全身から動揺の気を発した。台本通りではない事態が起きたらしい。緊張した様子で小声でやりとりし、女性が出ていくと、しばらくじっとうなだれてから、テーブルを見回し、口を開いた。
「落ち着いて聞いてほしい。みんな、これは悪い知らせというか、何というか、驚かないでほしいのだが、死者の町からきた同志の一人が覆面を紛失した」
 党員たちは困惑し始めたが、それは、覆面の紛失で何故そこまでレガが動揺したのかわかりかねているかららしい。レガは続けた。
「死者の町から来た同志は二人、ニサとクェテだ。面識ある者もいるだろう。覆面をなくしたのはクェテで、今ニサと一緒にホテルにいる。ここにはいない」
 党員たちは固唾をのんで話の続きを待っている。
「俺たちは、あの兄妹の分も合わせて、人数分の椅子を用意した……」
 何人かが息をのみ、またはびくりと体を震わせた。察しが悪い者のために、レガは更に言った。
「……つまり、今空いている椅子は、二つでなければならんわけだ。だが一つしか空いていない」
 党員が混乱と恐怖に支配される前に、レガが立ち上がった。
「全員、覆面を取れ。端から一人ずつだ」
 そう言いながら、レガがまず自分の覆面を脱いだ。角張った顔と浅黒い肌、縮れた黒髪が現れた。
 続けて、進行を助けていた男が覆面を脱ぎ、肉付きの薄い皺の寄った顔と、乏しく白い髪を晒した。
 その男とテスの間には、十人ばかり人がいた。その人々が特に慌てる様子もなく、次々覆面を脱いでいく。
 ここで何か騒動が起きるとか、その隙に乗じて脱出できるとか、その手の幸運は期待できそうになかった。順番が来たら脱ぐしかあるまい。テスはできるだけ首を動かさないように、目だけ動かして後方を確認しながら、部屋に入ってきたときの様子を思い出した。ステンドグラの窓は床から天井まであったはずで、しかも単にガラスを彩色しただけのものだ。中に金枠の類は入っていない。今幸運と呼べるものはそれだけで、とりあえずテスは、そのことを信じられないくらいの大幸運だと思うことにした。いざとなったら窓から逃げよう。
 テスの番が来た。
 別になんでもないよと言うように、さらりと覆面を脱いだ。
 左隣の男も、続けて覆面を脱いだ。
 更に隣の男が覆面に手をかけたところで、レガが声をかけた。
「あ、ちょっと待て」
 覆面を脱ごうとしていた男が、自分のことだと思ったらしく動きを止めた。テスはレガを見た。レガはテスを見ていた。
「誰だっけお前」
「マリス」テスは平然と答えた。「クェテの従兄弟です、同志レガ。一緒に来ていたのですが、クェテが困ったことになったので代理出席いたしました」
「そんな話は聞いていないぞ」
「受付では話したのですが……」と、申し訳なさそうに口ごもる。「直接お話を通すべきかと思ったのですが、時間がありませんでした、同志。申し訳ございません」
 レガはテスを見つめるのをやめ、書面に目を落とした。偽のステンドグラスの暗い光の中でも、レガの結んだ唇がこわばり、指に力が入っているせいで書面に皺が寄っているのが見て取れた。
「……同志ネサルの手記によれば、件の野良の言葉つかいは二十代前半から半ばの男性、緑の長い髪をしている……」
「偶然です」と、困ったように答える。「クェテとニサに聞けばわかります」
 と、再びノックの音がして、先ほどの女性が入ってきた。もう一人、女性が一緒にいた。
 覆面をしているが、着ている服と体型で、ニサだとわかった。いよいよテスの心臓が早鐘を打ちはじめた。ニサは大判の封筒をレガに渡した。その後、空いている席に座ろうとしたが、もう一人の女性に耳打ちされ、驚いた身振りをしたものの、黙って一緒に出ていった。
「ネサルの手記の実物と、人相書きだ」
 レガが言い、封筒から一枚の紙を取り出した。
 ネサルの絵が下手で、彼女の作った人相書きがテス本人とは似ても似つかぬものであればと好運を願った。レガは目をしばたたきながら、五度ほどテスと人相書きを見比べて。
「ふぅむ……」
 存外落ち着いた様子で、紙をテーブルに伏せる。
 そして息を吸い込んだ。
「その男を捕まえろ!」
 全員が浮き足立ち、しかし誰もテスに向かってこなかった。弾かれたように立ち上がった両側の二人は、むしろ怯えて飛びのき、テスから遠ざかった。
 テスは椅子を後ろに倒して立ち上がり、高く飛び上がった。両腕で首と頭を庇い、大気を蹴ってガラスに肩から激突する。こもったレストランの空気から、町の沈鬱だが流れのある新鮮な空気に飛び出した。何もない空中に足場を作って蹴り、片足を置くのが精一杯の、狭い街灯の上に着地する。割れた窓の向こう側は大騒動になっていた。テスは街灯を蹴って飛び、今度は公会堂の平屋根に移った。白い石造りの屋根の上を走り、端まで来ると、丸めた体をくるりと回転させて、通りを挟んだ反対側の建物の平屋根に飛んだ。
 通行人がテスを見上げ、あんぐりと口を開けた。テスは到達した屋根の少し上で、ほとんど静止した状態になり、それから一気に着地した。片膝を煉瓦の屋根につき、大きく体を沈めた後立ち上がり、屋根から屋根へと移りながら逃げ去った。背後に遠ざかりつつある公会堂から、火薬の炸裂音が鳴り渡った。テスは少しだけ振り向いた。信号弾だ。
 テスの進行方向に、高い壁が聳えていた。壁にすっかり抱かれて、何らかの施設が隠れているのだ。
 壁の上に、マントを着込んだ人影が立っていた。性別もわからないほど離れているのに、テスは目が合ったように感じた。
 人影が片手を高く上げた。赤く焼けた空を背景に、その手に金色の光が宿った。
 言葉つかいだ。
 人影が、頭の上で手を半円に動かした。金色の軌跡が描かれ、その光の残像が、虹色に変化する。
 赤。橙。黄。緑。青。藍。紫。
 残像が凝縮し、七つの大きな剣になる。
 その全てが、屋根を走るテスへと直線を描き飛んできた。
 テスは立ち止まり、それから真上に飛んだ。
 大気をまとい、不可視の足場を蹴り、上へ上へ。
 赤い光の両手剣が、テスが立っていた民家の屋根を貫き、破壊した。橙の光の剣は、通りを挟んだ反対の家の壁を貫き、黄の光の剣は今し方壁を破壊された家の屋根を貫いた。緑の光の剣は、更にその後ろの家の屋根に鍔まで突き刺さり、それ以上の高さで飛んできた青い剣は、テスの真下をすぎていった。
 どこかで轟音をたてて、青い剣が何かを破壊した頃、藍の剣がテスの靴底すれすれを掠めた。テスは素早く横方向へ大気を蹴り、左へ身をかわした。すぐ右横を、紫の剣が飛んでいった。
 テスは壊れた屋根へと自由落下した。
 屋根を破壊した赤い剣は消えていた。木の骨組みに着地し、足の下の室内に散乱する屋根の煉瓦、配管の破片、絵本やぬいぐるみを一瞥し、再び空を見上げる。
 壁の上の言葉つかいは、空に両腕を広げた。解き放たれたように、その腕からテスの頭上へと炎の道が開かれる。炎は黄昏の空と同化して、透明の揺らぎのように見えた。
 テスも、言葉つかいがしたように、両腕を広げてみた。
 頭上の熱に対し、寒さ、常にじわじわと身を苛む冷気を拡張する。
 そして、右腕だけを横薙ぎに振り下ろし、その動作で投げ放つように、冷気を解放した。
 上昇を望む熱気と沈下を望む冷気とが、それぞれの性質に背いて沈下ないし上昇する。二つの空気は触れあい、せめぎあった。互いが反発し、熱交換を拒んだ。熱気と冷気の間に極めて薄い空気の裂け目ができた。その裂け目に、テスは勝手知ったるもの、半月刀の刃をイメージした。透き通る巨大な刃。
 しっかりとイメージする。目に見えるほどに。
 左腕を振り下ろし、壁を指さした。
「行け!」
 風の刃は、熱気と冷気の間をまっすぐ滑っていき、言葉つかいが立つ壁に激突した。轟音と共に粉塵が舞い上がる。
 熱気が消え、また冷気もテスの体に戻ってきた。大きく身震いしたテスは、銃を手にした覆面の党員たちの姿を眼下に認めた。彼らは駆けてきて、屋根の骨組みに立っているテスを見上げた。テスは屋内に飛び降りた。屋根の残骸で汚された部屋は子供部屋だが、幸い子供はいなかった。窓を開け、窓枠を蹴り、通りの向かいに建つレストランの、二階のテラス席へ飛んだ。
 客はまばらだった。通りの騒動に困惑し、テラスにいた客は全員室内席に待避していた。テスがテラスに着地すると、女が恐怖の悲鳴を上げて連れ合いの男にしがみついた。
 誰も動けなかった。テスは照明の十分ではない室内に駆け込み、緊張で棒立ちになっている人々の間を素早くすり抜け、四角形に曲がった細い階段を駆け下りる。カウンターの跳ね板を上げ、不安にざわめく客たちと絶句している店員を無視して厨房に飛び込み、皿洗い、鍋洗い、包丁研ぎ、野菜切り担当者、肉切り担当者、魚切り担当者の背後を走り抜け、調味料の調合者と危うくぶつかりそうになり、オーブン、吊り戸棚、ゴミ箱の向こうに裏口を見つけた。
 テスは路地に飛び出して、酒と調味料の空き瓶を蹴倒しながら表通りに出た。通りにいる人々は、どこかの建物に避難しようとしてできず、今もそうする必要があるのか、または表にいるのとどちらが危険なのか判断できずにいる人々だった。赤子は泣き、その声にいらだった老人が舌打ちし、男が恋人だか妻だかに漏らす。
「なんて迷惑な奴らだ」
 道の真ん中のトラムの駅からは、人がこぼれ落ちんばかりだ。ちょうどトラムが駅に滑り込んだ。テスは道を駆け、トラムの後ろを通り過ぎてホームによじ登り、人混みに紛れてトラムに体を滑らせた。
 すぐにぎゅうぎゅう詰めになった。下りてください、下りてください、と運転手が声を張り上げる。下りられるか、早く動かせ、この区画から出してくれ、と客は口々に訴えた。
 やむなく運転手は、ドアを閉め運転を始めた。
 テスはできるだけ窓から離れ、通路の人の中に身を隠した。あまり大きくない体格のおかげで、そう難しくはなかった。
 戦いは、新生アースフィアの党員たちと、協会の言葉つかいたちとの戦いに移行していた。轟音と振動が、トラムの中で人に揉まれるテスにも伝わってきた。
 何かが近くの建物に激突し、崩れ落ちる。その破片を避けようと、たくさんの人々が路面に溢れてきた。
 トラムが鋭い警笛を鳴らした。テスは路面上に、想像しうる限りもっとも強く厚い大気の壁を作った。
 急ブレーキをかけたトラムが、その壁に突っ込む。テスの力だけでトラムを止めることはできなかったが、多少は役に立った。ブレーキが効き、押し戻されるような反動の後、誰一人轢くことなくトラムは停止した。
「冗談じゃねえ、下ろせ!」
 客の要望通りに、トラムのドアが開いた。客たちはだれも料金を払わず外へと流れ出た。テスもその勢いに身を任せ、歩道に張り出したカフェのテントの下に駆け込んだ。テントに沿って走り、角を曲がる。すると、上に鉄条網がついた工場の壁が正面に見えた。テスは飛んで塀と鉄条網を越え、塀の内部に着地した。
 何の工場かはわからないが、大きなくずかご一杯にカールした鉄屑が捨てられ、緑のドラム缶が並び、その下には深い排水溝がある。溝には錆混じりの水が流れた跡があり、底と側面が赤く色づいている。幸い今日は休日で、工場は稼働していない。テスは赤い三角屋根の上を走り、そこから三階建ての事務棟の屋上へ、一気に飛び上がった。
 梯子を使わずに貯水タンクの上に乗った。そこからは、テスの存在がきっかけで始まった協会員と党員の戦いを観戦することができた。
 先ほどの高い壁の奥は、言葉つかいの協会の支部だろうと推測できた。塀の上の空が、黄昏の色に似ているが明らかにそれとは違う、燃え盛る業火の色に変じていた。
 空の色の変化は、テスにはできないことだった。
 物質のありように主観が関係しているのなら、数人がかりで力を補いあえば、やはり空の色を変えることもできるのかも知れない。
 テスは試しに自分の手をじっとみて、鳥の翼に変わらないかと願ったが、何も変わらなかった。自分の体はこういうものだという知識には勝てないのだろう。
 突如、空の色の変じた部分から、斜めに炎の柱が下りた。それは高い塀のてっぺんを掠め、地上の誰かを焼いた。町が悲鳴を上げた。
 戦いは、一方的な殺戮へと変じていた。
 殺戮する側にいるのは、言葉つかいたちのほうだった。入り組んだ住宅地の道に、テスは集会で見かけた少女と父親を見つけた。父親は民家と民家の隙間にある、捨てられて雨ざらしになっている戸棚の陰に隠れ、娘とともにしゃがみこんだ。覆面は脱ぎ捨てていた。母親は見あたらない。単にはぐれただけか、そうでなければ殺されたのかもしれない。
 親子がいるのとは別の道を、一人の党員が、銃を抱えて逃げ惑っていた。彼も覆面をしていなかった。顔に見覚えがある。集会所で、テスより先に覆面を脱いだ男だ。そのまま飛び出して来たのだろう。
 男は四つ辻に飛び出し、たまたま走ってきた三人組の言葉つかいと鉢合わせた。男は喚きながら銃を構えたが、腕は震え、腰は引けており、撃てなかった。彼はただ大声で言葉つかいたちを威嚇していた。
 揃いのローブとマントを着た言葉つかいたち三人は、ぐるりと男を取り囲んだ。右斜め前と左斜め前、そして背後から、人差し指で男をさす。
 言葉つかいたちが何かを言い交わし、一つの単語がいやにはっきりテスの耳に聞こえた。
「ベニトウギョ」
 彼らは男をじっと指でさし続けた。
 何が起きているのかテスにはわからなかった。
 三人の言葉つかいはそのまま動かず、男は見せつけるように銃口を左右に振って喚き散らしていたが、不意に黙り、動きも止めてしまった。
 硬直した男の体がゆっくりと浮いた。
 男は顔を上げた。極限まで目を見開いて、恐怖を表していた。
 奥から押し出されたかのように、ぼこ、と目玉が飛び出した。彼は更に顔を上げた。宙に浮いた体が弓なりになっていき、背骨など存在せぬがごとく大きく仰け反った。
 だらりと垂れた両足の爪先と、仰け反った頭の位置が同じ高さになる。
 体が急激に膨らんだ。内側から爆発したようであった。体がぐるりと回り、上下逆になった顔が再びテスに見えた。飛び出した目玉は何が起きているか理解できぬまま、苦痛を見つめていた。体と服が鮮やかな赤に変じた。
 縦方向に半回転し、腹を下にした。その腹から長方形の布のようなものが生えた。
 (ひれ)だ。
 足もまた、豊かな赤い布のような尾鰭に変じた。
 体と服だったところが真っ赤な鱗に覆われる。
 腕はぎゅっと短くなり、胸鰭になった。
 横方向にぐるりと回ってもう一度テスに顔を向けたとき、男は美しい観賞魚になっていた。
 ただ、本来観賞魚にあるべきでない鋸歯状の鋭い牙が、あるべき唇の代わりに口を塞いでいる。
 テスは理解した。
『紅闘魚』
 言葉つかいたちは人と同じ大きさの闘魚を指さし続けながら後ずさった。闘魚は同じ場所で、横方向に、時計回りに回転し続けた。一回転ごとに大きくなっていく。ついに辻に収まりきらず、家々の屋根より高く浮いた。闘魚は民家と同じ大きさになっていた。
 思考が戻ってきて、テスは言葉つかいが忌み嫌われる理由を理解した。
 新生アースフィアの党員たちは、大多数が普通の人なのだ。休日に父親を見舞ったり、母親の誕生日を祝ったり、ガレージの隣の寝室で安心して眠りたいと願っている、一般人たちだ。
 彼らの差別主義は過剰な恐怖に基くものだと思っていたが、違った。
 言葉つかいは強いのだ。能力の面でも。残虐さの面でも。
 魚に変えられた男は、ついぞ敵だとわかっている人間に対し銃を撃てなかった。普通はそうだ。たとえ自分が殺されるとしても。執行部のネサルはともかく、テスを殴った死者の町の党員たちも、相手が死ぬような殴りかたや蹴りかたはしなかった。彼らもまた、できなかったのだ。そんなことができる一般人は、勢い任せで何でもやってしまう十代の少年たちくらいのものだ。
 闘魚という一つの実体は、三人がかりで作り上げたにも関わらず、個々のイメージのずれは見受けられず、その巨大さと異様な牙、そして飛び出した両目を別にすれば、完全に闘魚そのものだった。これほど完全に三人のイメージを実体としてまとめあげるのに、どのような訓練、どれほどの訓練、そして犠牲が伴ったことだろう。
 闘魚の回転が止まった。闘魚の顔の端は、二階建ての民家の東の端にあった。尾鰭は、道を挟んだ反対側の民家の西の端に垂れていた。闘魚は飢餓と憂鬱の影を道に落としながら、親子が隠れている方向へ、全身の鰭を動かしながらゆっくり空中を泳いでいく。そのように闘魚が動くのを見て、テスは闘魚の腹鰭が、見慣れた魚のそれではないことに気がついた。幾つもの細い糸状のもので、それが一枚の尾鰭のように一緒に動いている。
 少女の悲鳴が聞こえた。あの党員の少女が、言葉つかいたちがいるのと反対方向に、道を逃げていく。後から父親が追いかけた。闘魚が、ぎょろりと飛び出た巨大な目玉を動かし、二人を見た。鋸歯状の牙が上下に開いた。
 全身の鰭を動かして、降下しながら二人のもとに迫っていく。
 糸状の腹鰭が父親の上半身に巻き付き、包んだ。闘魚はそのまま高度を上げた。父親の浮いた両足がむなしく空中を蹴り、もがいた。彼を包み込む腹鰭は、人の上半身の形に膨らんでいた。異変に気付き、振り向いた娘が立ち尽くす。
 逃げろ、と父親はくぐもった声で繰り返し叫び続けた。その言葉は放電音と共に悲鳴へと変じた。闘魚の腹鰭の周りを、青白い電流が走る。宙に浮く両足が棒のように硬直した。
「お父さん! お父さん!」
 放電音に少女の金切り声が重なった。彼女は闘魚の真下、父親の足の真下に駆け寄り、失禁する父親の尿を顔中に浴び、口に流れ込むのも意に介さず、我を忘れて父の足に両腕を伸ばした。
「お父さん!」
 闘魚が身を沈めた。少女が腹鰭に埋もれ、間もなく悲痛な呼び声が、とても少女の喉から放たれているとは思えぬおぞましい絶叫に変わった。
 風に乗って、血も内臓も抜かれていない生肉の焼ける悪臭が漂ってきた。闘魚は二人の党員を腹鰭に抱えたまま、ゆっくり屋根屋根の上に高く浮き上がった。親子はとうに叫ぶのをやめていたが、闘魚の放電は止まらなかった。
 牙を持つその顔が、ゆっくり工場の方角を向いた。
 テスは目にした殺戮をとても受け入れられず、まだ呆然としていた。どうしてこんなことが許されるんだ? 立ち尽くした状態は、見つかった、ということを察するまで続いた。
 闘魚の目玉がテスへ動いた。
 そのまま体を折るように方向転換し、正面からテスと向き合った。
 襟巻き状の赤いえら蓋が浮き上がり、テスを威嚇する。尾鰭と胸鰭、そして腹鰭をぴんと張り、振った。生焼けの二つの遺骸が町に落ちていった。
 闘魚が突進をかけてきた。テスが素早く貯水タンクから飛び降りたときにはもう、工場の塀の内側にいた。魚は頭から貯水タンクに突っ込んだ。
 水しぶきがあがり、テスは屋上の端まで退避した。手すりの手前にプランターが四つあり、ブルーベリーが植えてある。テスはその手前で銃を抜き、両手で構え、五発撃った。闘魚は頭を壊れたタンクに突っ込んだ状態で、胴と尾鰭を左右になびかせもがいていた。腹鰭には焼けた衣服の切れ端や、皮膚や、髪の毛がこびりついていた。
 闘魚の頭が水と一緒に少しずつ外に出てくる。五つの弾丸は鱗を砕いて闘魚の体にのめり込んだが、その弾丸を体内に吸収し、すぐさま傷が修復されていく。
 言葉つかいたち――著しく変質させるもの――あまりに恐ろしい力の揮いかたをする者たちが、この闘魚を視界に収められる位置に移動してきており、つまりテスも恐らく彼らの視界に入っているのだ。
 テスは迷わず屋上から飛んだ。ふわりと着地し、ちょうど屋上を見上げたタイミングで、テスの体に闘魚の影がかかった。尾鰭と腹鰭がはためく。じっとテスを見下ろしていた。
 テスは闘魚から目を逸らさず、ストールの下に右手を差し入れた。
 紐を通して首にかけた陶片を握りしめる。
 戦いの祈りを捧げようとした。
 だが、喉は凍り付き、いかなる言葉も出てこなかった。
 祈る? 何を? どのように?
 わからない。
 俺は戦いの度に、これまで何に祈っていたんだ?
 テスには思い出せない。
 記憶は消えていた。
 闘魚が動いた。
 工場の敷地内、建物の影、すなわち言葉つかいたちの視界に入らぬ場所へと、テスを狙って一気に降下した。
 夕空を背追う闘魚が、きらめく牙を上下に開いた。
 テスは助走をつけて前のめりに倒れ込み、舗道の上を滑った。闘魚の影を抜け、転がってバランスを取り、片膝をついた姿勢で身を起こす。
 遅れて闘魚が着地した。舗道に押しつけられた腹鰭が青白くスパークする。放電音がした。テスは地を蹴って浮き上がり、右手側にある工場の外壁を左方向へ蹴った。
 続けて左手側にある事務棟の外壁を蹴った。
 闘魚の真上に飛び上がる。
 浮いたまま、固い鱗に覆われていない目玉へと銃を連射した。
 魚は声を上げないが、激しくのたうった。右の目玉から液体が振り撒かれ、テスは空中での連射の限界、肩が反動に耐えられなくなる直前まで撃ち続けた。
 右の目玉が潰れ、テスは闘魚の後ろに着地した。尾鰭がテスを打ち据えようと振り回された。
 それを躱し、事務棟の窓を叩き割る。
 窓の向こうに伸びる屋内の廊下を、闘魚の頭がある方向へ走った。走りながら、目をつぶった。青空を思う。その色を強く脳裏に思い描く。
 目を開け、その色を、右腕を大きく薙ぎ払う動作と共に外に放った。余計な視覚情報を得るより早くそうしたつもりだ。
 試した通りだった。闘魚の体は空色に変わっていた。
 言葉つかいたちの呪縛が薄れてきている。
「回れ」
 テスは銃を握ったままの左腕をあげた。
「回れ!」
 そして左腕を振り下ろし、銃口を残っている左の目玉に向けた。闘魚はテスの頭よりずっと大きい目を向けたが、言葉つかいの命令に逆らえなかった。
 テスは魚を回した。
 巨大化したときと別方向、反時計回りに。
 工場と事務棟の間で、体を何度も建屋に打ちつけながら魚は回り始めた。テスのイメージを体に受け、反時計回りに一周するたび体が小さくなっていく。民家二軒分の大きさが、一気に民家一軒分になり、次の一周でトラム一両分にまで小さくなった。続けてジープ一台分になり、大人一人分の大きさになった。
 テスは続けた。
 闘魚は大型犬ほどの大きさになり、バケツほどの大きさになった。猫ほどの大きさになり、女性の靴ほどの大きさになった。まだ回る。テスは窓の鍵を開け、窓枠を乗り越えて外に出た。闘魚は小鳥ほどの大きさになった。鍵ほどの大きさになった。そして、ようやく普通の闘魚の大きさになった。舗道の上で跳ねている。テスは銃をしまって、半月刀を抜いた。
 膝をつき、振りおろす。
 闘魚は体を両断されて息絶えた。
 テスは一息つく間を自分に与えず、逃げ去ろうとした。言葉つかいたちが塀を乗り越え、既に工場の敷地内に入っているかもしれない。だが、立ち上がったテスを慣れた気配が捕らえた。
 頭の中に鈴が鳴り渡る感じがした。
 冷たい気配が後ろにある。
 テスはもう一本の半月刀も抜き、振り向いた。
 ニサがいた。
 違う。
 キシャだ。
 左腕で、胸に押しつけるように書物を抱いている。
 塀を背に、右腕を高く上げた。一言もなく空を指す。
 テスは工場の屋根に飛び、再び事務棟の屋上に上がった。水浸しの屋上で、キシャが指さすものを見た。
 神話世界の住人が、小さな町を囲む結界の外にいた。
 馬の脚。それはこの町でもっとも高いと思われる聖堂の尖塔より高い。だが、小枝のように細かった。馬の体。それは脚の長さに見合った高さと長さを持っていた。だが紙のように薄かった。馬の首があるべきところから、人間の上半身が生えている。だがその体に筋肉はなく、頭を覆う兜に鉄のきらめきはなかった。
 そんなものが、影絵のように結界に貼り付いていた。
 どのような記憶を食い、そのような形を選んだのだろう。とにかくそれは首の付け根、人間の上半身の腰に当たる部分を大きくよじり、結界を撫でている。
 言葉つかいたちの関心が、結界から逸れているのがわかったのだ。結界の内側に大量の餌が存在することがわかるのだ。何故? とにかく、わかるのだ。
 巨大な投げ槍(ジャベリン)が、町の空を滑っていった。それが結界越しに化生を貫くと、色彩のモザイクがまき散らされた。
 手負いの化生はよろめき、ぺらぺらの体を結界から引き剥がすと、同じく結界で守られた汽車の線路に沿って、荒野の彼方へ遠ざかっていった。
 テスは事務棟を降りた。
 キシャの気配も、ニサの姿も消えていた。
 一か八か塀を越える。
 言葉つかいや党員から攻撃を受けることはなかった。
 テスは落ちていた黒い帽子を拾い、幅広のつばで顔を隠すようにかぶった。後ろ髪がストールの中に隠れていることを触って確認し、今度は男物の鞄を拾い上げた。マントを脱ぎ、鞄の中に押し込んだ。二本の半月刀と、腰の後ろの銃が露わになる。
 騒動のさなかに叩き割られたショーウィンドウの奥の、仕立屋のマネキンから真新しい紺の二重マントをはぎとり、それを着た。そうしてぱっと見の印象をすっかり変えてしまうと、悠々と列車の駅まで歩いた。
「次の便、三等客席は空いているだろうか」
 待ち合い室で、ガラス一枚で仕切られた駅員室にいる駅員に声をかけた。駅員は低俗雑誌を読んでいたが、ポルノ小説の挿し絵から目を上げテスを見た。日焼けした肌の中年で、しわが寄った制服を、ボタンを留めずだらしなく着ている。
 駅員は書き付けをめくってから答えた。
「空いてるけど、さっき化生が来たもんで。点検が終わってからじゃないと発車しないよ」
「線路も結界も壊れた様子はなかった。きっとすぐに終わる」
 テスは願望を込めてそう言った。駅員が眉を吊り上げ、カウンターに両腕をおく。
「どうしてそんなことがお客さんにわかるんで?」
 テスは答えず、拾った鞄を探った。財布があった。銀貨を三枚取り出した。
「これで行けるところまで」
 駅員は銀貨をすぐには受け取らず、しばらくの間見つめた。
「……お客さん、もしよろしければ、二等客席も空いておりますがね」
「いいや」
 快適に過ごしたいとは思わない。その分遠くに行きたかった。
 駅員は余計な詮索をせず、銀貨を受け取った。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み